弁護士クロヴィス・クラピソン 第四話
弁護士クラピソンは辻馬車に乗って去り、手紙はエレーヌがトマから受け取り、自室に持って行った。
女主人の様子は気になったが、トマは門番を続けるしかなかった。そこに伯爵屋敷の最年少メイドのポーラが、初等学校から徒歩で戻って来た。
「ポーラ、今日は遅かったな」
「すみません! 午後の授業が長引いてしまって」
「いや、良かった戻って来てくれて」
トマは少し荷が重いかもと思いつつ、ポーラに話した。
「ポーラ、お嬢様の様子がおかしいんだ。もしかすると、サリエルと喧嘩でもしたのかもしれない」
「そんな……サリエルさんがそんな事すると思えませんわ」
「お嬢様があそこまで落ち込む理由を他に思いつかないんだよな。何だかんだ仲いいだろ、あの二人。そのサリエルは馬車に乗ってなかったし、まだ戻ってない」
そこまで話しておいて、トマは再び考える。あんな女傑同士が喧嘩をしているとして、ポーラに何を頼むというのか。いくら何でも無茶な話だ。
「まあ、気のせいなら構わないんだけど、とにかくお嬢様は今ちょっと機嫌が悪いかもしれないから、気をつけるといいよ」
少し後。ポーラは屋敷の一階にある、メイド用の居住区の自分のワードローブの前で鏡を見ていた。そして今着替えた伯爵屋敷のお仕着せを隅々までチェックする。
リボンは曲がっていないか。汚れや埃がついていないか。フリルが折れていたり、プリーツが歪んでいたりしないか。
ポーラも普段はそこまではしない。彼女にはまだ決まった仕事はなく、初等学校から帰った後は、他のメイドや執事の手伝いをして過ごす。
しかし今鏡に映るポーラの表情には、固い決意と責任感が浮かんでいた。鏡の中のポーラが、ぎゅっと口を結び、目を大きく見開く。
トマはただ、ポーラに用心するよう伝えただけだったのだが、ポーラはそう取らなかった。屋敷に来て日の浅いポーラは、良くも悪くもこの屋敷の習慣に染まりきってはいなかったのだ。
あんなに仲の良いお嬢様とサリエルさんが喧嘩をしているのなら、放っておいて良い訳が無い。ここは自分が頑張って、問題を解決しなくてはならない。
小さな機関車のように、ポーラはエレーヌの部屋を目指し発進して行く。
少し前。
エレーヌは制服姿のまま、リビングのソファでのびていた。宿題の準備も明日の時間割もしていない。ただ、青白い顔をしてソファにのびていた。
エレーヌがサリエルに噛みつくのは珍しい事ではない。何となればこの猛犬は毎日のようにサリエルを噛む。
ただしその噛みつき方には一応の作法がある。この狼犬は普段も、今日も、その作法の範囲内でサリエルに噛みついているつもりだった。
今まで、サリエルが怒った事はほとんど無かった。
前にエレーヌがサリエルを怒らせたのはいつだったか。
夏休みに避暑の旅行先を偽り、黙って出掛けてサリエルを置き去りにした時か。そのせいでサリエルは夏の間、エレーヌを捜して国中を旅していたと。
その上でエレーヌはサリエルをからかった。サリエルがそんな旅行好きだったとは知らなかったと。あの時はさすがのサリエルも少しだけ怒った。
いや、その後にもあった。あれは先月の今頃。サリエルが屋敷から逃げ出そうとした時だ。
あの日サリエルは一度一緒に学院に登校した後、忘れ物をしたと言い出して一人で屋敷に帰った。
エレーヌはサリエルの様子がおかしい事に気付いてはいたが、そのまま授業を受けていた。しかし四十分経ってもサリエルが戻って来ない。
学院から屋敷までは僅か四キロメートル足らず。まさかサリエルはダッシュしていないとでもいうのか? そう考えたエレーヌは適当な理由をつけて学院を飛び出し、走って屋敷に戻った。
屋敷にはサリエルが戻って来るのを見た者は居たが、出掛けるのを見た者は居ないという。あとは単純な話だ。変装し武装したエレーヌは、クラブから借りていた馬を連れ出して市街の電信会社に向かい、社員達を拝み倒してサリエルが打った電報の控えを閲覧し、彼女が九時半の汽車に乗りカトラスブルグを離れた事を知った。
後はただ、追い掛けて捕まえただけである。
あの時もサリエルは怒った。夏休み明けにからかった時よりは真面目に怒った。だけどあの時の怒りは、エレーヌに向けた物というより天に向けた物のように見えた。こんなもの馬鹿馬鹿しくて付き合ってられるかという、自分の運命に向けた怒りだったように思う。
エレーヌはクッションに顔を埋める。その腕がだらりとソファの端からぶら下がる。
今日のサリエルははっきりと、自分に……エレーヌに対して怒りを向けていた。
今まで噛まれても笑って許してくれた主人が、本気で怒って飼い犬を突き放したのだ。
エレーヌは記憶の世界への旅、精神世界の外の旅から戻り、自分の世界への旅、精神世界の中へと歩んで行く。
自分は何を苛立っていたのだろう。
自分は機嫌が良い事よりは悪い事の方が多い。少なくとも、常日頃そのように装ってはいるはずだ。だから周囲の人々は自分に気を遣う。ストーンハート屋敷の空気を支配しているのは自分だ。
だけど本当は、自分に不満などない。
それなのに、自分は確かにここの所ずっと苛立っていた。
父オーギュストはずっと戻らない。とても戻れる状態ではない。十月上旬には起死回生を図り遠く西へ六千キロの彼方の国を訪れたが、その成果は限定的なものだったようだ。
依然として父は絶対的中央集権の強さを信じる国王と、新時代への対応を焦る議会の間に挟まれ、双方の希望を擦り合わせるという、絶望的な仕事に従事している。
エレーヌは地元の新聞の他、一日遅れの他国の新聞、数週遅れの新大陸の新聞を毎日取り寄せ、密かに読んでいる。状況は悪くなるばかりだ。
国民主権は大いに結構だが、その果てにあるものが皆怖くはないのか。
エレーヌはソファーに埋めたままの首を振る。
世界が何だと言うのか。主人を怒らせ見捨てられてしまった狼犬には関係ない。
そして、暫くの間、そのままの時間が流れた。
――とん、とん、とん
閉ざされたリビングの扉を誰かが叩いた。エレーヌはソファから跳ね起き、辺りを見回す。そして姿見の所へ飛んで行って、まずソファの上を転げまわったせいで乱れていた、学院の制服を正す。
それからさらにその鏡に近づいて、自らの頬を引っ張り、眉間をマッサージし、目尻の涙跡を拭き上げ……表情を作る。
――とん、とん、とん
再びノックの音が。エレーヌは一呼吸、深く息を吸う。そして小さく。
「あ。あ。あ」
自分の声のトーンを確認してから。
「何よ。何か用かしら」
低く、不機嫌そうに声を張る。そして鏡で確認しながら、いつもの……何を考えているか解らないが、やや不機嫌そうな表情を作る。
エレーヌはそうした工作がばれないように、ゆっくりと姿見の近くを離れる。それから壁に掛けられていたゴルフクラブを手に取り……一度、素振りをする。
扉はまだ開かない。
「何をぼさっとしてるのよ! 開いてるわよ! 私に扉を開けろとおっしゃるの!?」
エレーヌは苛立ったようにそう言って、ゴルフクラブを持ったまま、リビングの入り口の扉に向かおうとした。
扉はそのタイミングで開いた。そこに居たのはサリエルではなく、小さなポーラだった。
「お嬢様! サリエルさんと喧嘩をなさっているというのは本当ですか!」
扉を開けるなり、小さなポーラは、屋敷の他の者には誰にも真似出来ない、直球で……エレーヌの心臓を射抜いて来た。




