弁護士クロヴィス・クラピソン 第三話
また翌日。その日の学院での授業を終えたエレーヌとサリエルは馬車で金融通りの辺りを走っていた。
「貴女、買い物に行くならここで降りても良くてよ」
エレーヌは窓の外を眺めながらサリエルにそう言った。買い物と言っても半分以上エレーヌの使いなのだが、確かにここで降りた方が都合が良い。
サリエルは一瞬考えて、答える。
「いえ、一度屋敷に帰りますわ」
伯爵屋敷の馬車はいつも通り、控え目な速さで大路を進む。時折一頭立ての二輪馬車などでも、左側を追い抜いて行く事がある。
「本屋と薬局に行くのでしょう。ここで降りればすぐじゃない」
「お嬢様と一緒に屋敷に帰るまでが側仕えの仕事ですわ。買い物はその後で参ります」
それに学院の制服のままで理由もなく市井を歩き回る事は、禁止されている訳ではないが良くない事という風潮もある。サリエルの考えにも一理あった。
一方、人間の動く効率を考えればエレーヌの意見が正しい。一度屋敷まで帰り、屋敷から歩いてここに戻って来て、また歩いて帰るのは時間の浪費と言える。
この意見の相違はどちらにも理があり、かつどちらでも構わない事でもあった。
平素であれば、二人とも気にも留めない事だっただろう。
たまたまエレーヌの虫の居所が悪かったのでなければ。
「そう……貴女も大変ね。いつも我侭で頭のおかしい伯爵令嬢に振り回されて」
それでも平素であれば、こういう時はサリエルが平謝りして終わりになる。メイド術免許皆伝のサリエルに限って、虫の居所が悪いなどという事は有り得ない……はずだった。
「お嬢様! いくらお嬢様でも言って宜しい事と悪い事がございますわ!」
サリエルは頬を紅潮させ、普段より高く大きな声でそう言った。
エレーヌの動きが止まる。
「私のお嬢様をそんな風に悪く言うのは、例えお嬢様でも許せません! 私はただ、いつも通り屋敷まで御一緒させていただいて、鞄をお持ちして、今日の宿題を取り出して明日の時間割を整えて、それからお仕着せに着替えて、お嬢様に御挨拶をしてから買い物に行こうと思っておりましたのよ!」
エレーヌは眉間に皺を寄せた。
「それは大変ですわね! 自分の鞄も持たない、時間割も自分でしない我侭女に顎で使われて!」
「私が嫌々お嬢様に仕えているとおっしゃいますの!? 私、お嬢様の命令であれば隣国の皇帝に銃剣突撃だってしてみせますわ! 私は自分がどんなに侮辱されようと何とも思いませんが、お嬢様とお嬢様への忠誠を侮辱されるのは我慢がなりません!」
その言葉の途中から。サリエルの瞳から大粒の涙がぼろぼろと溢れだし、頬を伝う。サリエルの感情は決壊した。嗚咽を上げ、掌に顔を埋め、サリエルは泣きだす。
馬車は金融通りから鍛冶屋通りへと差し掛かる。
「申し訳ありません。ここで降りて買い物を済ませに参ります」
前席に座っていたサリエルは顔を伏せたまま立ち上がり振り返って、御者席との間の小さな窓を軽くノックする。御者が馬を止め、ブレーキをかける。
サリエルは自分の鞄を取り、顔を伏せたまま、慌しく馬車を降りて行った。
「……出発なさい」
エレーヌは腕組みをしたまま、御者に声を掛けた。
◇◇◇◇◇
伯爵屋敷の門前では、庭師見習いのトマが鉄棒柵で出来た門扉にペンキを塗っていた。
そこへ一台の、一頭立ての辻馬車がやって来る。トマは一旦ペンキを塗る手を止め、刷毛を置いてそちらに向かう。
馬車は屋敷の門前で止まる。辻馬車から降りて来たのはトマと同じくらいの背格好の、黒髪に銀縁眼鏡を掛けた若い紳士だった。
「アポイントも取らず申し訳ありません。弁護士のクラピソンと申します。恐らくこちらにお住まいの方の、相続に関わる件で参りました」
トマはクラピソンが差し出した名刺を受け取る。
「伯爵に御用ですか?」
「いえ、こちらに使用人として住み込まれている方だと思います。マンフレートという名前に心当たりはございませんか?」
トマはすぐに、一昨日エドモンから同じ事を聞かれた事を思い出す。トマは初等学校時代にそういう名前の友達が居た事をエドモンに話した。それは関係なさそうだと、エドモンは笑っていた。
「先日そういう手紙が来ましたね。姓は解らないんですか?」
「申し訳ありません、事情が複雑なのです」
これを聞いたトマは、この人物には余計な事を言わない事に決めた。
「そうですか。ともかく執事に取り次ぎますので、こちらでお待ちを」
向こうも仕事で来ているのだろうから、庭番風情に何か言われたくらいでは引き下がらないだろう。手紙はエドモンの手で一度突き返されている。
少なくともディミトリくらいは呼ばないと片付かないな……トマはそう思い、屋敷に向かおうとしたのだが。折り良くと言うか悪くと言うか。そこへ屋敷の女主人の馬車が帰って来てしまった。
伯爵屋敷の馬車は通常はこの門前では止まらない。敷地内のロータリーまで行ってから止まる。だけど今日は女主人がそうするように言ったのか、門前で止まった。
トマは素早く馬車の昇降口に駆け寄る。
「弁護士のクラピソンという方が。マンフレートという人を探しているそうですが」
トマは昇降口の窓のカーテンに向かって小声でそう言った。
中からは返事は聞こえず、代わりに昇降口のドアノブが静かに回った。
扉が、ゆっくりと開く。
「マンフレート……存じ上げない名前ですわね……」
トマは驚き、半歩引き下がってしまった。馬車の中から現れたのは、青白い顔をしてどんよりとした黒雲のようなオーラを纏わせた、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの変わり果てた姿だった。
エレーヌは通学鞄を左腕でぎゅっと抱きかかえ、右手でドアノブをしっかり握り締めたまま、馬車から降りて来る。
トマは慌てて鞄を持とうと手を差し出すが。
「大丈夫ですわ……申し訳ありません」
これが普段鉄箒やら段平やら振り回し、屋敷の中を駆け回る伯爵令嬢だろうか。トマは思わず馬車の中を覗き込むが、そこから出て来るはずのサリエルの姿は無かった。
「あの……お体の具合でも? 私は弁護士のクロヴィス・クラピソンと申します。貴女は伯爵令嬢とお見受け致しましたが」
「はい……私、娘のエレーヌと申します……どうぞ何なりとお申し付け下さい」
トマは馬車の中とエレーヌを見比べる。この青白く病弱そうな深窓の令嬢は本当にエレーヌなのか。本物は馬車の中に隠れているのではないのか。
「ありがとうございます、なるべく手短に申し上げます。先日この手紙をお出しさせていただいたのですが、宛名不明で戻って来てしまいました。しかしこの手紙の用件は、間違いなくこちらの屋敷の使用人の方に関わる事と思います。どうか開封し、中を御覧いただけるよう御願い致します」
クラピソンはそう言って、一度差し返された手紙を、トマの方に渡した。
「私は市内のホテルに滞在しております。名刺の裏に連絡先を書いておきましたので、御用があればいつでもお呼び下さい」
「御足労をお掛け致しまして申し訳ありません……必ず拝見させていただきます」
エレーヌは鞄を前に持ち、深々と頭を下げる。
トマは内心頭を抱えていた。また何か厄介事が始まったような気がするのだが、女主人の様子はおかしいし、サリエルが居ないのが酷く気に掛かる。
この場合、誰を頼るべきなのだろう。




