煙突掃除のフリック 第二十一話
フリックはしょんぼりと俯いていた。
大げさな大礼服は脱ぐのも着るのも大変だった。
それを着て外を歩くのはもっと大変だ。見た目によらず着心地の良い服ではあるのだが、そういう事ではない。
先程からもう何度、通りすがりの人に振り向かれたか解らない。指差して笑う奴も居る。知り合いにも見られた。
フリックが提げているいつものバケツには、数種類のワイヤーブラシも入っていた。伯爵令嬢に厳命され、仕方なく購入したものだ。
伯爵令嬢のスパイが到る所に居るというのは本当だろうか。本当かどうかは解らないけれど、それを試す度胸はフリックにはなかった。だからフリックはエレーヌに言われた通り、大きなシルクハットも被っていた。
「まあ、何あの子! あんな服を着て、バケツを提げて」
「おい、あいついつもの煙突掃除の奴じゃないか……ハハハ、めかしこんでどこへ行くんだー?」
フリックはそういう声が聞こえないふりをして道を急ぐ。昨日、どうにか約束を取り付けた家があるのだ。本当は伯爵屋敷の煙突もまだ残っていたのだが、もうあそこには近寄りたくない。
「なあ、待てって。お前まさかその格好で煙突掃除をするのか!?」
「結婚式に行くわけじゃないんでしょ? そんなバケツを持って。ホホホ」
先程笑っていた建具屋の親父が、切花屋のおばさんが駆け寄って来る。
「ええ……煙突掃除は如何ですかー」
フリックは俯いたまま、いつもの口上を述べる。この二人には以前にも声を掛けたのだが、どちらにもまだいいからと断られていた。
「やって頂戴! その格好でするのよね!?」
「うちも頼むよ、ハハハ、なるべくゆっくりやって欲しいもんだ」
フリックが屋根に登り、煙突掃除を始めると、より多くの者がフリックを指差し、笑うようになった。
「ふえええ……おいらこれからずっと、こんなふうに笑われるのかな……」
フリックは半べそをかきながら、並びになっていた建具屋と切花屋の煙突を掃除する。ワイヤーブラシがあるので煙突に潜り込む必要は無くなったが、その分ずっと屋根の上で晒し者になるのだ。
そうして、暖炉の方を掃除しようと、屋根から降りてみると。
「ここが済んだら、うちの酒場の煙突も掃除してくれよ!」
「ちょっと、私も待ってたのよ! うちが先よ!」
「俺の所も頼むよ! 作業場と家と二本あるぞ!」
フリックはたちまち大人達に取り囲まれた。
「わしの所を先にやってくれるなら、手間賃は倍払うが、どうかね」
「ずるいぞ後から! いいよ、俺は三倍出してやる!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 順番にやるから待って、手間賃は普通でいいから」
「だいたいお前の言う手間賃は安過ぎるんだ、パンだってワインだってどんどん値上がりしてるのに」
◇◇◇◇◇
煙突掃除の小さな紳士はたちまち街の評判となり、幸運の妖精のような扱いを受け引っ張りだこになった。
それで仕事も手間賃も大幅に増えたのは良かったのだが。
「見て! 煙突掃除の妖精よ!」
「あの尻尾に触ると、恋が成就するんですって!」
訳の解らない尾ひれがついて噂は拡散し、フリックは街中で女達に追い掛けられるようになってしまった。
「わあああ!? やめて! 来ないでー!!」
「待ってー! 妖精さん!!」「尻尾に触らせて!」「キスさせてー!」
妹達の所には先日使いに行った医師のマナドゥが来て、ただで診察してくれた。薬代も篤志家が出してくれたというのだが。
「これは栄養失調だよ。パンだけじゃなく、ちゃんと野菜や魚も食べなさい……外で買うと高い? じゃあ少し料理を教えてあげるから」
マナドゥの助けを借り、また兄の稼ぎが大幅に増えた事もあり、フリックの妹達もすぐに体調を回復して行った。
◇◇◇◇◇
サリエルはずっと、失意のどん底に居た。
サリエルは「怪人」をぶどう畑で追い掛け、足首と尻を鉄の箒で打ち据えた。だけどあれは本当はお嬢様だったのだ。
お嬢様はそれで足に怪我をした。お嬢様はそれを隠す為、靴のヒールが折れて階段で転んだふりまでされた。
サリエルは屋敷の前に現れた「怪人」を攻撃した。あの時お嬢様は自ら、自分への求愛者である事を装おうとしていたのだ。何とおいたわしい……そして自分はそんなお嬢様に剣を向けてしまった。
そしてあの地下室での出来事……あの時の謎も解けた。お嬢様は自分をレアルへ連れて行こうとする奥様から隠す為、睡眠薬を飲ませ地下室に運んだのだ。
何故それをちゃんと説明せず、あんな方法を取り、壁に手械で繋いだのかはさっぱり解らないが。
とにかくあの時も。自分は両腕に繋がれた石煉瓦の塊や斧を使って、お嬢様を攻撃してしまった。お嬢様は自分の為にああしてくれていたのに。
そんなお嬢様の気持ちを露知らず……正直な所今だに何故お嬢様があんな格好で暴れておられたのかさっぱり解らないが……自分は、他ならぬお嬢様の事を、怪人、怪人と呼んで殺意を剥き出しにして何度も攻撃してしまった。
何故こうなったのか……何故こうなったのか……
幼いポーラには一目で解ったというのに、何故自分には解らなかったのか。
ポーラはディミトリの事しか責めなかった。それもまたサリエルにとっては屈辱だった。
お嬢様と一緒に居た期間はディミトリの方が長いかもしれないが、一緒に居た時間は絶対に自分の方が多い。
ディミトリよりも自分が。この側仕えのサリエルこそが、一番にあれはお嬢様だと気づかなくてはならなかったのではないか。
後で聞けば、ポーラは最初に怪人がリビングに飛び出して来た時点で、それがお嬢様だと解ったと言う。
だけどそれは、いつもの悪ふざけの一環なのかと、アンドレイ男爵をもてなす為の何かの余興なのかと思ったのだと。それで少し怖かったけれど、言われていた通り、ハンドベルを振り回して皆に知らせた。怪人が来た、怪人が来たと……
しかし皆が本気で剣やら銃やら持ち出してお嬢様を追い回し、隠し通路に煙まで送るのを見て、これはもしかしてやり過ぎなのではないかと思い始めたらしい。
あの時。地下室で気絶から目覚めた自分は真っ直ぐに自分の部屋に帰り、大急ぎで着替えて荷物をまとめ、裏口から屋敷を出た。
お嬢様に対する無礼の数々、お嬢様の命を危険に晒す襲撃の数々……今度こそ自分はお嬢様に仕える資格を完全に喪失した。サリエルはそう考えた。
そして裏庭の通用口から屋敷を飛び出そうとした所、自分が作りトマが仕掛けなおしたねずみ獲りを踏んでしまったのだ。
逃亡は失敗し、自分はお嬢様の手づから、屋敷へと引き摺り戻された。
「まだお解りになりませんの? アンタが地球上のどこへ逃げようとも、私は必ず見つけ出して連れ帰りますわ。そのような手間をかけさせないで下さるかしら? 私はエレーヌ・エリーゼ・ストーンハート。こう見えて大変多忙な伯爵令嬢ですのよ」
あの夜お嬢様は自分の胸倉を掴み、そう言って、狼犬のように歯を剥いて微笑みになられた。
そうかと思えば。
「お嬢様、おやつをお持ち致しました……」
「そこに置きなさい」
リビングに居るお嬢様の所へ、フルーツとクリームのたっぷり載ったプリンを持って来ても。お嬢様は近づかせてさえくれない。あれからずっと機嫌が悪いのだ。
◇◇◇◇◇
「そこに置きなさい」
エレーヌはリビングに戻って来たサリエルが近づく前にそう言った。サリエルはリビングの入り口の小さな丸テーブルの上に、そのプリンが載った皿を置く。
「あの……お茶をお煎れ致しますわ」
「自分でやるから結構。下がりなさい」
あれから数日。リビングはすっかり片付いてはいたが、エレーヌの気持ちは中々片付かなかった。
エレーヌは気持ちを落ち着けようと、ソファから立ち上がり、水差しの水を薬缶に汲み、石油ストーブの上に載せる。
それからエレーヌは、辺りを見回す。茶葉はどこに入れていただろうか。
「お嬢様、お茶の葉でしたら……」
サリエルが少し前に進み出て来た。
それを見たエレーヌの頭の中に、またあの言葉が蘇る。
――嫌ですわ……また大きくなってる
「下がりなさいと! 申し上げたでしょう!!」
エレーヌは突然逆上し、壁の乗馬鞭を取り、サリエルに襲い掛かる。
「きゃああっ!? 申し訳ありません!」
サリエルはリビングから逃げ出すが、エレーヌの怒りは収まらなかった。
廊下から階段へ。
サリエルがたまらず、クリスティーナ夫人の肖像画が飾られているストーンハート家の家族用リビングに飛び込むまで、エレーヌは乗馬鞭を振り回し、サリエルを追い掛けて行った。
煙突掃除のフリック編、終わり!!




