煙突掃除のフリック 第二十話
トマは再び屋根の上に居た。
暖炉の方は一旦全て火を落としてあるので熱くはなかったが、煙突にかけられていた水で濡らし煤で汚れた麻袋は、担いで降りるには厄介な代物だった。
「酷いな、こりゃ……なるべく早く煙突掃除を呼んだ方がいいな」
トマは煙突の中を覗いてつぶやく。
◇◇◇◇◇
伯爵屋敷の大ダイニング。蝋燭はまだ灯っていたが、部屋は先程よりかなり煙臭く、床にも灰や煤が散っていて、正餐に相応しい場所とは言えなくなっていた。
アンドレイは燕尾の上着を脱ぎ、ネクタイとベストのボタンも外した姿で、先程の席に座っていた。そこに、ブルーノが蒸しタオルを持って来る。
「どうも」
アンドレイは雑に礼を言い、タオルを受け取って顔と言わず首と言わずぐいぐいと拭く。タオルはたちまち薄黒くなる。
「それと、何か冷たい物が欲しいのだが。井戸水でも何でもいい」
「シャンパンでしたら、よく冷えた物がすぐに……」
「そんな気分ではないよ、勘弁してくれ」
アンドレイはテーブルの上に放置されていたブリキの騎士を手に取り、まだハサミを振り上げているオマールロブスターの前に置き、レバーを引いて一太刀浴びせる。
やや貧相なロブスターのヒゲが、ハサミが落ち、頭がもげて、身の甲羅がポタポタと落ちる……しかしエレーヌの皿の時はこれが全部綺麗に落ちたのだが、今度は右半分の甲羅が身の側に残ってしまった。
「……あっ!」
ブルーノは思わず声を上げてしまう。その額にたちまち冷や汗が浮かぶ。
「暖かいうちなら綺麗に広がったのだろう。君のせいじゃない」
アンドレイはそう言ってフォークの背で、ロブスターの甲羅を軽く叩く。残っていた甲羅も綺麗に落ちた。
「凄まじい腕前だ」アンドレイは言った。「あの飴細工のエレーヌ殿も君が?」
ブルーノの額にたちまち脂汗が浮き、冷や汗と交じり合う。この話は絶対他言無用と、伯爵令嬢から堅く言われていた。
「私の家にあったはずの蝋人形が何処かに行ったのは……たいした謎ではない。私の家はこの屋敷のような、互いの思いやりに満ち溢れた場所ではないのだ。使用人が小遣い欲しさに装飾品を持ち出す事も、日常茶飯事でね」
俯き震えるブルーノに構わず、アンドレイは虚空を見上げ語り始めた。
「最大の謎はあの飴細工の製作期間だよ。私の蝋人形は製作に四ヶ月かかったのだが。あの飴細工は何日で作られたのだろう。私の蝋人形で凹型を作り、それを利用したのだろうか? それにしても早い。早過ぎる……」
そこに、白いブラウスに紫のカーディガン、黒のロングスカートという、市井の者と変わらない出で立ちで、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは戻って来た。
「少々、お騒がせ致しましたわ」
軽く、頭を下げ、静々と元の椅子に座るエレーヌ。顔を洗って煤を落としたのはいいが、化粧が全部取れてしまった。
一方アンドレイは、会釈もせず話を続けた。
「私の屋敷の塔の最下層は岩盤の上にそのまま建っていてね。隙を見せるとすぐに蟻が湧く……だから私は、その部屋には絶対に酒や食べ物を放置しないようにしている。何が起きたか解るだろうか……」
アンドレイは虚空を見上げたまま、言葉を切る。
「ある日家に帰り、その部屋に降りてみると……私が蝋人形と思っていた物が、黒々と変色しているのだよ。一体何事かと思い、ランプを近づけてみると、その表面は黒ずんでいるだけではなく、何か蠢いているじゃないか。恥ずかしながら……私は悲鳴を上げてしまった。それは変色したのではなかった。その表面を覆っていたのは、十万匹は居ようかという蟻の大群だった……!」
――バターン!
物音に驚き、ブルーノは振り向く。見ると、先程着席したはずのエレーヌが居ない。それもそのはず、何か恐ろしい想像をしてしまった伯爵令嬢は椅子から滑り落ち、身悶え、床の上をのたうち回っていた。
「お嬢様。はしたのうございます」
ダイニングに居たのはアンドレイとブルーノとエレーヌだけではなかった。ディミトリはきちんと身だしなみを整えて給仕をしており、ちょうど今、アンドレイの為に氷水のデキャンタとグラスを持って戻って来た。
「はは。変態男爵にお気遣いは無用だよ」
アンドレイは氷水のグラスを受け取ると、一気に飲み干す。かなり喉が渇いていたようだ。ディミトリはすぐにおかわりを注ぐ。
エレーヌは何とか寒気を抑え、椅子の上に這い上がる。
「アンドレイ様、これはその、決して私の意図したものではありませんの、私はローゼンバーク家とストーンハート家の末永き友誼を……」
「エレーヌ殿」
珍しく素直に焦りの表情を浮かべるエレーヌを、アンドレイは視線で制する。
「私はアンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク。その事と私が卑怯者の変態である事には何の関係もありません。私が男爵家の使命を果たさずに逃げ出すかもしれないと? 見縊られては困る。貴女の心配は最初から無用の長物でした」
エレーヌは低く小さな溜息をついた。
「重ね重ね、申し訳ありませんでしたわ」
「貴女こそ、慣習と因縁に縛り付けられたこの国を見限り、新大陸へ行かれたら如何ですか。彼の国では古い名札や亡国の勲章など、何の力にも障りにもならない」
アンドレイは掌を開いて見せる。エレーヌは無表情で答える。
「それも……素敵ですわね」
「気の無い御様子ですが。オーギュスト伯爵も貴女がそうなさるのなら、一緒にこの国を離れる気になるかもしれませんよ」
エレーヌは瞳を閉じる。
ディミトリは無言で意匠の凝らされた風変わりなブランデーのボトルにナイフをあて、封印を切る。蝋で封をされていたガラスの栓が、テーブルにポトリと落ちた。
「失礼致しました」
ディミトリは小声で詫びるものの、グラスを二つ並べる時も。コト、コトと。静かな主人と賓客の前で、敢えて少し、音を立てる。
やがてディミトリはグラスに注いだブランデーを、まずアンドレイの元に、それからエレーヌの元に置く。
先にグラスを手に取ったのはエレーヌだった。薄目を開け、エレーヌはグラスを口元に近づける。地元産ブランデーの果実味の強い芳香が鼻をつく。
アンドレイもブランデーグラスに触れ、それをやや乱暴に掲げる。その琥珀色の液体がグラスの中を波打ち、燭台の蝋燭の光を乱反射させる。
「エイル河に炎の風が吹く。古代帝国時代からあるような慣用句ですが。今まで河に本物の炎の風が吹いた事などはなかった……アヴェリナ戦役で使用された銃弾の数はユルゲン戦争の七倍にも達した。僅か十年の間の話だ」
アンドレイは長い伝統を持つカトラスブルグ陸軍師団の参謀である。それは決してただの名誉職などではなく、彼はむしろ師団きっての開明派であり、師団の現代化に尽くしている人物だった。
「次の衝突ではどれほどの命が失われるのだろう。まさに想像もつかない。市民と市民が、誰にでも撃てる銃砲を持って殺し合いをする。一体、誰がそんな事を望んだのだろうか」
アンドレイは目を閉じ、ブランデーを一口運ぶ。
エレーヌは憂いを帯びた視線を、グラスのブランデーの水面に落とす。
「隣人との不毛な殺し合いの後、人々の憎しみは何処に向くのかな。古来、殺し合いを始めるのは貴族だが、実際に殺し合いをするのは貴族とその信奉者だけだった」
アンドレイの言葉を、一つ一つ耳に刻みつつ。エレーヌはブランデーを口に含む。甘美な苦みと芳香が、口の中に広がる。
少し後。アンドレイとエレーヌは屋敷正面のホール外の、ロータリーの前に居た。
「愉しい夜でした。お招きに感謝します。エレーヌ殿」
「騒がしくしてしまいまして、申し訳ありません」
ローゼンバーク家の馬車がロータリーを周って来る。エレーヌは過去にその馬車をバルタザールの店の近くで見た事があったのだが、今御者をしている二人は、その時の者とは別の人物のようだった。
「いや。今夜は本当に楽しかった」
アンドレイがそう呟いた瞬間。
――きゃあああぁぁぁぁ!
裏庭の方から、乙女の悲鳴が響いて来る。
「今のはサリエル嬢の悲鳴ではないだろうか」
「お構いなく。どうせまた脱走を企てたのですわ」
エレーヌは先程、トマに言って自分を捕まえていたねずみ捕りをサリエルが通りそうな所に仕掛けさせておいたのだ。サリエルが作った二機目のねずみ取りは一機目程の殺傷力は無かったが、人を捕まえるには十分な威力があった。
「賑やかな屋敷ですね」
アンドレイは帽子を被り、馬車に乗り込む。
「おやすみなさい、エレーヌ殿」
ローゼンバーク家の馬車が走り去って行く。
いつもお読みいただきまして誠にありがとうございます。
なななななんと! 当作品に! ファンアート(もしくは誕生日プレゼント)をいただいてしまいましたああああ!
描いて下さいましたのは朱風様! 朱風様のページはこちら!
https://mypage.syosetu.com/1443299/
そして
「ゆりせんせいは猫耳サイテー勇者を教育します!」
https://ncode.syosetu.com/n2380fm/
私もコッソリ読ませていただいております……本来は女性読者向けの御話という事で……
だけどファンタジー小説としてはむしろ硬派の部類に入る、読み応えのある物語なのです。丁寧に織り込まれた世界観と美しく変化する展開、そして何と言っても魅力的な登場人物の多い、素敵なストーリーなのです!
朱風様、誠にありがとうございました! 小さいサリエルがまた可愛い(笑)
2021/3/23追記
さらになんと! サリエルのイラストもいただいてしまいました!!(こちらは朱風さんのイラストプレゼントに応募させていただきました!)
ありがとうございます! ありがとうございます!
本当は新しい本文に掲載したいんだけど、第三部を書き出す覚悟がまだ……
(A;´ω゛)




