煙突掃除のフリック 第十五話
怪人はリビングに続くホールを出ながら、どうにかズボンのバックルを閉めようとする。しかし慣れない動作なので、なかなか捗らない。
「このド変態め! 今度こそ逃がしませんわ!」
サリエルは怒りに燃えていた。
怪人は全くサリエルの予想通り、性懲りも無くエレーヌのドレスルームに現れた。そしてお嬢様が脱がれたイブニングドレスを見て何をするかと思えば、おもむろにズボンを脱ごうとする。
怪人が何を考えているかなど、知りたくはないし考えたくもない。今はとにかく、二度と出没出来ないよう、二度とお嬢様に近づけないよう、今度こそ確実にとどめを刺さなくてはならない。
サリエルの部屋の扉は開いていた。ヘルダと五人のメイドはそこに潜んでいたらしい。怪人はその前を駆け抜ける。
さすがの怪人もこの展開には顔色を失くしていた。サリエルは完全に自分を殺す気で追い掛けて来る。
ここはとにかくサリエルを振り切るしかない。
このまま直進してオーギュスト伯爵の区画へ行くのか? いや、外へ逃げるべきだ。そう考えた怪人は、大階段を駆け下りる。
しかし怪人が階段の踊り場で見たのは、閉ざされた正面玄関と、ホールで待ち構えていたエドモン、ジェフロワ、ディミトリだった。
伯爵令嬢エレーヌは晩秋になると狩猟を嗜む事がある。大抵はエドモンを伴って猟場に入る……エドモンの射撃の腕は可も無く不可も無いといった所だ。
そのエドモンが、猟銃ではなく軍用のパーカッションロック式ライフル銃を構えて自分を狙っている。
ジェフロワとディミトリも屋敷の備品の拳銃を向けている……あれは決闘用と称した骨董品のでたらめな銃で十メートルも離れていればまともに当たるまいが、エドモンのライフルは百メートル離れていても当たる本物の軍用銃だ。
「観念しろ、怪人。そこに膝をつけ」
エドモンが低く呟く。エドモンは必要なら普通に引き金を引くだろう。
さすがの怪人も青ざめるしか無かった。
特に武器などは持っていない怪人は、言われた通り、その場に膝をつこうとしたのだが。
「お命頂戴!!」
やはり本来の指揮官である伯爵令嬢が居ないので、家人達は統制がとれていなかった。すなわち、エドモンの意図がサリエルに伝わっていなかった。
怪人はますます青ざめ、声のした方も見ずに、手摺りを飛び越え、階段の吹き抜けに天井から吊るされたシャンデリアに向かって跳んだ。
エドモンは引き金を引いた。大口径のライフルの銃口が火を吹く……怪人は一瞬、死を覚悟した。
しかしエドモンが銃口を向けていたのは怪人ではなく跳弾の心配の無い階段裏の納戸の扉だった。威嚇発砲である。
しかし怪人はシャンデリアに向けて飛んでいた……そうしていなければ、二階から踊り場目掛け飛び降りて来るサリエルに、銃の台尻で頭を割られていた。怪人が居なくなった踊り場に振り下ろされたサリエルのマスケット銃の台尻が、踊り場の床材を粉砕する。
そしてエレーヌはシャンデリアに飛びついていた。蝋燭式の古風なシャンデリアには、アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵への歓迎を示す為、全ての燭台に大きな蝋燭が灯されていた。
「熱ッ……」
蝋燭に炙られ怪人は一瞬地声で悲鳴を上げてしまったが、その声が誰かの耳に届く事は無かった。
古風なシャンデリアには、六十キログラム弱の重量物の追加に耐える耐久性は無かった。
――ガッシャアアアアアン!!
シャンデリアは数十本の蝋燭と怪人と共に、ホールの一階床へと墜落した。
たくさんの蝋燭が砕けて飛び散る。ほとんどの物は火がついたまま、ホールのあちらこちらへと転がってしまった。
その事はホールの照明の様相を一転させた。下から照らす明かりが、この場に地獄絵図のような演出を加える。
「ああっ、火を消せ!」
料理人として日頃から火元管理には厳正に気を使っているジェフロワは、シャンデリアの残骸から転がり落ちた怪人にも構わず、まず火を消そうと、ホールの赤絨毯の上に落ちた灯火を踏んで回る。
「う、動くな!」
一方ディミトリは拳銃の銃口を向けたまま、三メートル落下して激しく尻を打ち床にのた打ち回る、怪人の方へと近づいて行く。これでチェックメイトだ。
いくらでたらめな決闘用銃でも、これだけしっかり狙いをつけた上で至近距離まで迫って来れば、外れようが無い。怪人も降伏するより他には無い。
だがしかし。本来の指揮官である伯爵令嬢が居ないので、家人達は統制がとれていなかった。すなわち、ディミトリの意図がサリエルに伝わっていなかった。
「死ねェェェェェェ!!」
上空から急接近する死神の声に、苦しみのたうち回る怪人は命の限りの回避行動を取る。
怪人がぎりぎりで転がって避けた刹那の後に、階段の踊り場から跳躍して来たサリエルのマスケット銃の台尻が叩きつけられ……床材と共に砕け散る。
度重なる怪力メイドの打撃に耐えかね、古いマスケット銃の銃身は湾曲し始めていた。そんじょそこらの木材とは比べ物にならないくらい丈夫な筈の台尻も、今やほとんどが砕けていた。
「よせ、サリエル……」
ディミトリは叫ぶが既に遅かった。サリエルの乱入でディミトリの射線が切れたのを、怪人は見落とさなかった。
「怪人が逃げたぞぉぉ!」エドモン。
「誰か! 消火を手伝え!」ジェフロワ。
「サリエル、君はもう下がりなさい……」ディミトリ。
「お、の、れ……かい……じん……!!」サリエル。
一瞬の隙を突き、怪人は一階のエレーヌの区画の下の方向へと駆け出した。
上手く出し抜いた……というより、降伏したくてもサリエルがそれを許さず、家人の不手際も重なって無理やり逃亡させられているような按配である。
先程の一撃も、避けていなければ複数の肋骨を粉砕され、心肺まで叩き潰されていたかもしれない。
怪人は正面玄関から飛び出し、外に逃れて作戦を立て直そうと思っていた。しかし予想に反し玄関扉は閉ざされていた。怪人は階段の踊り場からそれを見た時に気付いていた。
アンドレイの馬車の御者達も家人に抱き込まれていたのだ。彼らは怪人が正面玄関から屋敷に入るのを、そ知らぬフリをして見送っておいて、外から扉を閉めたのである。
恐らく他の出口も。姿の見えない他のメイド達に封鎖されている。
時間が経てば、長屋に居る執事見習いや庭師見習いも増援に駆けつけるのだろう。
怪人は考える。必死に考える。すっかり青ざめた顔で、痛む身体に鞭打って走りながら考える。
どうすれば生き残れるのか? 自分が守りたい物を全部守るにはどうすればいいのか?
怪人は大廊下から、家事室や納戸、地下室への階段が連なる小廊下の角の方へ曲がろうとする。
そこに。
普段は施錠されているはずの納戸の一つの扉が、内側から開かれた。
そこから現れたのは……燕尾服姿の青年貴族。金髪の美男子……アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵、二十五歳だった。
「君は……怪人……」
アンドレイは怪人の姿を認めると、目を細めた。
不思議な静寂が流れた。
後方ではエドモンとディミトリが、すっかり頭に血が昇ったサリエルを押しとどめようとしていたが、サリエルは二人をズルズルと引きずったまま進んで行く。
「お前はもういい! 下がっていろ!」
「サリエル、もうやめなさい」
「私がッ……! 怪人の首を取るッ……!」
アンドレイは納戸で見つけた一振りの剣を携えていた。
彼は一度はそれで自害しようかとさえ考えたのだが、それは思い留まった。
アンドレイはそれを鞘から引き抜いて行く。これは実用的な剣というより、完全に骨董品だった。全長は百五十センチメートルもあり柄は長く、刀身も無駄に幅が広い。
かつて東から押し寄せて来た蛮族達は、こんな剣を当たり前のように振り回していたらしいが。近代戦では無用の長物である。
アンドレイは鞘を棄て、その剣を垂直に構え、騎士の礼を取る。
その表情は。明鏡止水の境地に達しているかのような、殺気一つ感じない、穏やかなものだった。
「ふっ……」
しかし。アンドレイは急に含み笑いを漏らしたかと思うと。
「クックックックッ……ハハハ……ハーッハッハッハ!」
突然顔を上気させ、唇を歪め、哄笑した……そうかと思うと。急にピタリと、笑うのをやめ……呟いた。
「最早……失うものは何も無い……」
怪人の背筋に特大級の悪寒が走った。これは……サリエルとは別の方向で、己の生命や立場、そういった普段無意識のうちに守ろうとしている全ての物から開放され、持てる能力の全てを武力に集中した人間の到る境地。
「アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク。冥土の土産に貴公の首を所望する」
そして。武神と化したアンドレイは、怪人目掛け突進を開始した。