煙突掃除のフリック 第十四話
黒髪のかつらに付け髭、大きな帽子に大きな上着。
ナッシュの姿のエレーヌは隠し通路を戻ろうかと思ったが、少し考えて、そのまま屋敷の外周沿いに、正面玄関の方へと歩いて行く。
伯爵屋敷のロータリーには黒塗りの馬車が一台止まっている。馬車には御者が二人居たが、屋敷の事には関心が無いらしく、向こうを向いて何事かぼそぼそと話し合っている。
エレーヌが玄関に近づいても、こちらを見る様子も無い……恐らく、見たとしても気にも留めないのだろう。
そう思ったエレーヌは、開いたままの両開きの玄関扉から中の様子を伺いつつ、壁際を伝うように、屋敷の中に忍び込んで行く。
いつもの玄関ホールでは、全てのオイルランプに灯りがついている。
水力発電に恵まれたカトラスブルグでは街灯がほぼ電化を終えており、中心部の集合住宅や裕福な家にも電力が供給されている。
しかし伯爵屋敷では厨房など一部の作業場以外には電灯はついていない。伯爵令嬢がスイッチ一つで灯りがつく電灯を好まないのである。
屋敷では夕方になると方々のオイルランプにメイド達が火を灯し、夜が更けると一つずつ消して行く。
エレーヌは物陰からホールを見渡す。あれだけの大騒ぎの後だというのに、誰も居ない。一体皆どこへ行ったのか。
二階への大階段、ダイニングの入り口へ続く廊下……ホールから覗ける限りのどんな場所にも人影が無い。
そして静かだ。耳を澄ましても、使用人の足音一つ聞こえない。まさか皆で隠し通路を探し回っているのか? もしそうなら一刻も早くやめさせないといけない。
エレーヌは考える。とにかく早くイブニングドレスの所に戻ればいいのだ。そして着替えて姿を現せばいい。
大階段は大きなホールの壁際に沿い、踊り場を経て二階へと続いている。
壁際を伝い忍び足で慎重に、階段を登るエレーヌ。
やがて見えて来る二階の廊下にも、人の気配が無い。
そして階段と廊下の曲がり角からそっと顔を出すエレーヌ。
廊下のランプは一つ置きの点灯になっている。オーギュストの区画からエレーヌの区画まで……やはり、二階廊下にも人影は無い。
次第に大胆になったエレーヌは廊下を普通にすたすたと歩き、自分の区画への両開きの扉の前までやって来て、扉の引き手に手を掛ける。
「……」
あまりにもすんなり行き過ぎではないか? さすがのエレーヌもそう考えた。エレーヌは後ろを振り返る。やはり廊下には誰も居ない。音もしない。
人影と言えば、窓ガラスに映る自分だけだ。
結局、顔には少し煤がついてしまった。付け髭を剥がしたらその部分のメイクもし直しだろう。そういう時間も考えないといけない。
エレーヌは何となく、廊下の突き当たりのリビングの扉から離れ、廊下の途中のサリエルの部屋の片開きの扉の方へ行き、そのドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。
――カチャリ……
小さな音が響く。エレーヌはそのまま握力を緩める。ドアノブは元の位置に戻り、扉は開ぬまま……エレーヌは手を離す。施錠されている訳ではないのだが、エレーヌはサリエルの部屋の扉を開けなかった。
エレーヌは自分の区画の両開きの扉を開ける。最初は小さなホール。そこからまた両開きの扉を開ける。次が控えの間。次の扉の先がリビング……
扉を開けたエレーヌは今一度、慎重にリビングを覗き込む。
先程一騒ぎあった場所なのだが……やはり今は誰も居ないように見えた。アンドレイも、サリエルも姿が無い。
そういえばサリエルはともかくアンドレイはどうしたのか。まさか地下室で迷ってはいないだろうか。
やはり一刻も早く事態を正常化しないといけない。エレーヌはそう思った。気になる事は色々あったが、まずはイブニングドレスに戻る事が先決だ。
書斎、寝室、浴室、書庫……リビングから通じる様々な扉の中から、エレーヌはドレスルームの扉を選び、開いた。
やはりそこにも、人影は無い。
姿見には先刻急いで脱いだイブニングドレスが掛けてある……
エレーヌは安堵の溜息をつく。何も心配する事など無かったと。エレーヌは、男物のズボンのベルトに手を掛け、バックルを外して、おもむろに脱ぎ出す。
――バーン!!
誰かがワードローブの扉を内側から蹴り開けた。
「ここに現れると……信じていましたわ!」
脱ぎかけていたズボンを反射的に引き上げたエレーヌの前に現れたのは、その濃茶色の瞳に冷たい炎を宿した武神、サリエル・サルヴェールだった。その手に握られているのは、フリントロック式のマスケット銃だったが……
「天誅!!」
サリエルはマスケット銃の銃口をつきつけるのではなく、その台尻でエレーヌの頭蓋骨を叩き割りに来た。エレーヌは間一髪避けたが、四、五キログラムの棍棒でもあるマスケット銃の台尻でその勢いで殴られたら、本当に頭蓋骨が割れる。
――ガランガラン! ガランガラン!
「怪人が現れました! お嬢様のリビングに怪人が現れました!」
屋敷の最年少メイドのポーラはエレーヌの浴室に潜み必死に息を殺していたが、サリエルが交戦を開始した事を皆に知らせる為、勇気を振り絞りリビングに飛び出してハンドベルを振り回す。
「ポーラ! こっちに!」
リビングの出口の方から、ヘルダが叫ぶ。
次の瞬間、怪人はリビングに飛び出して来た。それを追ってマスケット銃を両手で握りしめたサリエルも飛び出して来る。
「天誅ー!!」
明確な殺意を込めた一撃が怪人を襲うが、怪人は再びそれを間一髪避ける。そして身代わりとなってしまった肘掛付きの古風な椅子の背もたれが、サリエルのマスケット銃の一撃で砕け散る。
「怪人! 降伏しなさい!!」
怪人は顔を上げる。リビングの入り口で叫んだのはヘルダだった。その横にはメイドが五人……全員、マスケット銃を構え自分に狙いをつけている!
さすがにこれでは逃げられない。怪人は一瞬、観念して両手を上げ掛けたのだが。
「天誅!!」
本来の指揮官である伯爵令嬢が居ないので、メイド達は統制がとれていなかった。すなわち、ヘルダの意図がサリエルに伝わっていなかった。
――ガシャアアン!!
怪人はサリエルの殺意全開の一撃を転倒からのローリングでぎりぎり避けた。怪人の代わりに粉々に砕かれたのは、現代造りのガラスのサイドテーブルだった。
サリエルは尚も、マスケット銃を振りかざし怪人に襲い掛かる。
怪人は仰向けになったまま必死で後ろに這いずる。サリエルは全速で追いすがり、マスケット銃を振りかぶって跳躍する。
「死ねええええぇぇぇぇ!!」
怪人の目に、一瞬死神の姿が見えた。
――グワシャアアアアアアアン!!
間一髪、いや、今度の攻撃は怪人の肩を掠めた。火で焼かれたような痛みが皮膚に走る。しかしこの攻撃もどうにか避けた。
サリエルの跳躍からの一撃は、リビングの木目のパネル張りの床に、軽い砲丸でも着弾したかのような穴を開けていた。粉砕された木片が飛び散る……
「くっ……」
怪人にとっては幸運だった事に、舞い上がる粉塵でサリエルは一瞬怪人を見失った。怪人はその隙に、マスケット銃の物理打撃をかすめられた肩を押さえ、立ち上がる。
「こっ、降伏なさい! 撃つわよ!」
リビングの入り口のヘルダはミスを犯す。この位置でマスケット銃を斉射したら後ろのサリエルも巻き込まれる。
撃てない位置のはずなのに撃つと言い出したという事は? 怪人は確信した。メイド達のマスケット銃には弾は装填されていない。
「きゃあああ! こっちに来る!」
怪人は迷わず、マスケット銃を構えるメイド達の列に突進する。確信はあったが、賭けは賭けだった。もし本当に装填されていたら……この距離ならメイドの射撃でも自分は蜂の巣になる。
「くっ……道を開けて!」
しかしやはり、ヘルダはそう指示した。サリエルを除くメイド達は戦闘員ではないし、彼女達に実包を装填したマスケット銃は荷が重過ぎる。
五人のメイドは抵抗せず、ヘルダの指示に従い道を開けて怪人を通す。
「天誅ーッ!!」
少し遅れて、古いフリントロック式マスケットを握り締めたサリエルが追い掛ける。こちらは最初から弾など入っているはずも無かった。しかしその殺傷力は、大口径の軍用ライフル弾にも劣らない。




