エピローグ「陽だまりの少女」
柔らかな春の風が孤児院の中庭を吹き抜けていく。
庭の隅にある大きな樫の木が新しい緑の葉をつけていた。
木漏れ日が地面に優しい斑模様を描いている。
小鳥たちが枝の上で高く澄んだ声で鳴いていた。
リリアは樫の木の根元に座っている。
古い木の幹に背中を預けた。
ゴツゴツとした樹皮の感触が服越しに伝わってくる。
彼女は両足を軽く伸ばして目を閉じた。
太陽の熱がまぶたの裏をオレンジ色に染めている。
風が髪を揺らすくすぐったい感覚があった。
遠くから街のざわめきがかすかに聞こえてくる。
馬車の車輪が石畳を転がる音だ。
人々の笑い声や商人たちの活気ある呼び込みの声だ。
平和な日常の音が彼女の耳を心地よく満たしていく。
前世の記憶が遠い夢の彼方へ霞んでいくのを感じていた。
血と硝煙の匂いしか知らなかった暗い過去だ。
感情を殺し命令に従うだけの冷たい機械のような人生だった。
誰かに愛されることも誰かを愛することもなかった。
生きている実感など一度も抱いたことはない。
ただ死ぬためだけに生きていたような日々だった。
彼女はゆっくりと目を開ける。
視界に広がるのは鮮やかな青い空だ。
白い雲がゆっくりと流れていく。
手のひらを太陽の方へ向けてみた。
小さな子供の手だ。
血管が透けて見えるほど白い肌をしている。
だがこの手の中には確かな体温があった。
心臓が力強く血液を全身に送り出している。
血の通った温かな命の鼓動が、彼女の胸の奥底から静かに湧き上がってきた。
「リリア」
春風に乗って、マリアの優しい声が耳に届く。
リリアは首だけを動かして振り返る。
玄関の前にマリアが立っていた。
手には籠を持っている。
市場へ買い物に行くのだろう。
彼女の隣には数人の子供たちが手を繋いで並んでいた。
「一緒にお買い物に行かない」
マリアが優しく微笑みかけてくる。
リリアの唇が自然とほころんだ。
胸の奥にあった硬い氷のような塊が溶けて消え去る。
「行くわ」
リリアは幹に手をついて立ち上がる。
服についた草を軽く払い落とした。
彼女はマリアたちの待つ場所へ向かって歩き出す。
足取りは羽のように軽い。
足音を消すことも気配を殺すこともない。
地面をしっかりと踏みしめて歩く。
靴底が土を叩く確かな音が響いた。
マリアがリリアに向かって手を差し出す。
リリアはその温かい手を取り強く握り返した。
マリアの体温が安心感をもたらしてくれる。
子供たちが歓声を上げて駆け出した。
孤児院の門を抜けて明るい街の通りへと出て行く。
太陽の光が彼女たちの背中を眩しく照らしていた。
闇の中で生きてきた暗殺者の魂はここでようやく救済されたのだ。
彼女の歩む未来にはもう冷たい孤独はない。
愛し合う家族と共に歩む穏やかな日々が始まろうとしている。
リリアはもう一度空を見上げた。
どこまでも高く澄み切った青空が、彼女の新しい人生を祝福しているように見えた。




