第90話 暗い食卓
明日の夜からは、ずっと静養していた新人のフローレさんが、いよいよ受付としての仕事を始めるためにギルドにやってくる。私も明日からフローレさんの教育係として、夜の担当に変わる。
新人は最初、あまり混雑しない夜の部を担当するのが決まり。フローレさんは『ルナストーン』のギルドで働いていた経験がある二十歳の女の子だ。本当はもっと前にミルデンのギルドで働くことになっていたけど、偽物のフローレさんが彼女に成りすまして、ギルドに潜り込むという事件が起こった。
本物のフローレさんはこの事件の首謀者である『異端討伐者』たちに誘拐され、別の場所に監禁されていた。アレイスさんと街の衛兵の手によって救出され、以来ずっと支団長のアメリアさんの家で静養していたのだ。
これはあとで聞いた話だけど、監禁されていたフローレさんは、更にどこかへ連れていかれて売られる可能性があったらしい。救出されたと聞いたときは素直に嬉しかったけど、なぜ彼女を殺さなかったのかと考えれば、彼女そのものが『商品』だったからとすれば納得がいく。異端討伐者は恐ろしい人たちだ。人を売り買いするなんて、噂レベルの犯罪が本当に行われていることに、私は背筋が冷える思いがした。ミルデンの外は危ないとみんな言うけど、彼らのような犯罪者がうろついているのなら当然だ。
フローレさんはしばらく怯えていたようだけど、回復して仕事に戻ると聞いたときは安心した。思ったよりも早い回復だ。彼女をスカウトしたアメリアさんは、フローレさんのことを『彼女は強い』と言っていた。まだ二十歳なのに彼女は立派だと思う。
偽物のフローレさんは、仕事はできるけど盗み癖のあるとんでもない女だった。本物のフローレさんは真面目で勉強熱心な子だと聞いている。ここ数日、準備のためにギルドに来ていたフローレさんの姿を見かけることがあった。彼女と仲良くなれるといいな。
♢♢♢
仕事が終わって家に帰る。母はまだ『薬師ギルド』から帰宅していない。薬師である母は、いつも仕事で忙しい。家にいるときも植物の世話をしたり、本を読んだりと頭の中は薬のことばかり。でも凄く優秀な薬師で、私は母を尊敬している。
母が帰ってくるのを待つあいだ、私は夕食の支度にとりかかる。狭い台所に入り、かまどに火を起こしてから、今日は何を作ろうかと考える。大きなキャベツとベーコンがあったから、これで煮込み料理にしよう。
キャベツはざっくりと切り、ベーコンは厚切りにしてフライパンで焼き目をつける。香ばしい匂いが食欲を刺激してきて、私のお腹が早く食べたいと鳴いた。煮込み用のスープは、数日前に野菜のくずと香草を入れてじっくりと煮込み、布でこして瓶に入れておいたものだ。鍋に焼いたベーコンとキャベツを入れ、スープを注いで火にかける。あとはコトコト煮込んで、塩で味付けをするだけだ。母が帰ってくるまでには仕上がるだろう。
♢♢♢
母が帰宅し、ようやく夕飯だ。キャベツとベーコンの煮込みに、パンを添える。
「ドラゴンの様子はどうなってるの?」
ここ数日、母の関心もドラゴンのことばかりだ。薬師ギルドでもみんな不安がっているらしく、母は新しい情報を常に知りたがっていた。
「まだ監視班が戻ってないの。そろそろだとは思うんだけど」
「まだ戻ってこないの? のんびりしている間にドラゴンが目覚めたらどうするのよ」
「焦らないでよ。別にのんびりしているわけじゃないんだから。みんな精一杯やってるの!」
思わずムッとして母をたしなめる。大体、ドラゴンのことを私に聞かれても、私だって何も分からない。母が心配しているのは分かるけど、私に文句を言われてもどうにもならないのに。
「ミルデンは百年もドラゴンが目覚めてなかったから、前回のことを知っている人間が少ないのがね。記録があるとはいえ、細かいことまでは分からないし」
母は独り言のようにぼやいている。確かに、私たちが暮らす『ミルデン』があるこの領地はずっと平和だった。他の領地では、十数年から数十年に一度くらいの頻度でドラゴンが目覚めていた。だから他ではドラゴンへの対処にある程度慣れている。
一方でミルデンの人たちは、どこかドラゴンのことを他人事のように捉えていたかもしれない。私は討伐者ギルドの受付嬢として、もちろん当事者のつもりでいたけど、こうして実際にドラゴンの目覚めが近づいているというのに、どこか現実感がない。
前回の目覚めでは、ふもとの村が全て灰になったという記録が残っている。ミルデンの街はアルーナ地方から近く、ミルデンの街中にも灰が降ったという記録が残っている。多くの人がアルーナ村を捨て、ミルデンの街に移住したとか。
それ以前の記録も残っているけど、前回の目覚めほど大規模な被害はめったに起こっていない。でも千年以上前に、ミルデンの街も炎に包まれたという伝説が残っている。
「多分、アルーナ山周辺に住んでる人は避難になるだろうし、領主様も避難者を受け入れる準備を始めてるって話だよ」
「そうね……私たち薬師ギルドも薬の用意を急いで進めてるわ。薬の出番がないことが一番ではあるけど、準備はしないとね」
ここ数日、ずっと私たち母娘の会話はこんな調子だ。ドラゴンのことが心配で、楽しい食事にならない。母は大好きだった父をドラゴン退治で亡くしているから、ドラゴンの話になると冷静さを欠く。少し怒りっぽくなっているし、あまり眠れていないみたいで今も目の下に隈がある。
「お母さん、ドラゴンのことはギルドが必ずなんとかするから、安心して」
私が言っても説得力はないかもしれないけど、それでも元気づけたくて母にそう言った。母は気まずそうに微笑み「ありがとう、エルナ」と呟いた。




