第1話 勝者と敗者の境界線
【この世界を最初からやり直しますか?】
目の前に表示されたメッセージに、一瞬思考が停止する。
やり直す? この世界を?
普段ならば、何かのイタズラだろうと鼻で笑うような内容のメッセージ。
しかし、その時ばかりは目が離せなかった。
一文字ずつゆっくりと読み直し、しっかりと確認する。
何度も読み直しても、内容に間違いはない。
俺はメッセージにゆっくりと手を伸ばした。
やり直せるならやり直したい──そんな願いを込めて。
♢
その日、普及の名作VRMMORPG:LastEdenOnline、通称LEOの世界では、全プレイヤーが熱狂するほどの盛り上がりを見せていた。
発売から十年。
度重なるアップデートの末、ようやくラスボスが実装されてからは僅か二年。
大手ギルド「紅の探究者」が、そのラスボスを倒したからである。
ゲーム内の主要都市に設置されたモニターの前には多くのプレイヤーが集まり、「全世界同時中継!」と銘打った紅の探究者たちへのインタビュー配信を喜々として見守っている。
「いやー、まさか本当に倒せるとは思っていませんでしたよ。でも、仲間たちと協力して、諦めずに努力した成果です」
紅の探索者代表、プレイヤー名「リオウ」。そんな注釈と共に画面に映し出された男がはにかんだ笑顔をカメラに向ける。
その後ろには彼の仲間たち、紅の探究者のメンバーが揃っていて、喜びに満ちた表情でリオウを見つめていた。
モニターを前にした多くのプレイヤーたちの瞳にも、羨望の色が浮かんでいる。
そんな中で、ただ一人。憎しみで焦げ付きそうな胸を必死に抑えながら、モニターを睨みつける男がいた。
「大事なのは信頼ですよ。仲間との信頼。それがあれば、どんな時でも大抵乗り越えられるんです」
画面の中でリオウがうそぶく。その胡散臭い作られた表情に気付く者は、男の他には誰もいない。
――何が信頼だよ。お前は、俺からすべて奪ったんだ。お前が……お前さえいなければ。
恨みを込めた呪詛のような言葉は、男の胸の内に溢れるように湧き出してくる。
憎い。憎い。憎い。
ここがゲーム内でなければ、男はついには血涙を流すほどに感情を高ぶらせていた。
男の名前は黒野悠、プレイヤー名「クロノ」。
時間だけで言えば発売日当日からこのゲームをプレイする最古参のゲーマーである。
発売日から、いつか実装されるはずのラスボス攻略を目指して、十年の時をこのゲームに費やしてきた。
ゲームの知識は誰よりも多いという自負がある。発売から今日まで、攻略サイトを見なかった日はないし、自分でもいくつかの有益な攻略情報を見つけて来た。
初めたばかりの新米ゲーマーには存在すら知られていないが、同じような古参のゲーマーにはそれなりに名が通っている。
しかし、彼が紅の探究者の元メンバーだったことを知る人間は驚くほど少ない。
正確に言えば、それはもう忘れ去られてしまっている。なかったことにされている。
――お前さ、暗いんだよ。やたらLEOに詳しいから入れてやってたけど、もういらねぇ。用済みなんだわ。
脳裏にあの日のリオウの言葉が浮かぶ。ラスボスの実装から一年後、攻略に関わるであろう重要な情報をクロノが発見してから一週間後のことだった。
当時、紅の探究者にはとある噂が流れていて、そのせいで人気に陰りが見え始めていた頃でもある。
噂の内容はありきたりなゴシップで、「代表のリオウはメンバーに手を出している」とか「何人もとっかえひっかえで、二股三股も当たり前らしい」とかそういう類のものだった。
その話の真相がどうなのか、クロノは知らない。はっきりしているのはその噂が無視できないくらいに大きくなったことと、リオウがそれを否定したことだけだ。
「その噂は事実ではありません」
ゲーム内に何人もの視聴者を持つ紅の探究者の公式チャンネルで、リオウは涙ながらにそう言った。
その後に続いた彼の言葉を、クロノは今でも夢に見る。
「噂の発端はメンバーのクロノに関するものです。彼がギルド内で起こした不祥事が外に漏れ、尾ひれがついてしまい僕の話題にすり替わったのです」
証拠もない。事実不透明な話だった。当然だ。クロノには思い当たる節なんてまるでない、でまかせだったのだから。
すり替わった――すり替えたのはリオウの方だった。自分に降りかかる火の粉を、クロノを利用して躱したのだ。
悪意に疎かったクロノがその事実にようやく気付いた頃には、状況はもうどうしようもないほどに悪くなっていた。
根も葉もない噂が急速に広まって行く。
――クロノとかいう奴マジサイテーだよな
――紅の探究者から脱退させられたらしいぜ
――当然だろ。てかLEOからbanしてほしいよ
ゲームを起動するたびに、そんな声が聞こえてくるようだった。身に覚えのない罪が膨れ上がっていき、正義感に目を曇らせた者達の誹謗中傷が押し寄せてくる。
いくら否定しても、それに耳を貸す人は誰もいなかった。
噂は勝手に広がって、そして勝手に消えていく。
まるで、初めからそこには何もなかったかのように。
一年も経つ頃には誰もクロノのことを口にしなくなっていた。彼の存在なんて最初からなかったかのように、誰も思い出さなくなっていた。
そんな時に聞こえて来たニュースが「紅の探究者、ラスボスを討伐」である。
紅の探究者がまだ公開されていない攻略情報を基にラスボスに辿りつき、見事討ち果たしたという内容のゲーム内速報だった。
モニター越しにそのニュースを見て、クロノはようやく理解する。
リオウの思惑は噂の現況を自分に擦り付けて、逃げることだけではなかったのだと。
あの日、自分が脱退させられる前にギルドのためを思って入手してきた攻略情報を横取りするためでもあったのだと。
騒動のショックで一年間碌に頭が回らなかった自分を呪った。
自分の情報でラスボスを倒した紅の探究者を呪った。
全ての元凶であるリオウを呪った。
インタビュー配信では、なおも飄々とインタビューに答えるリオウの姿が映し出されている。
――そこに立つのは……お前じゃない。俺だったはずだ。
呪いの籠った目でモニター越しにリオウを睨みつける。しかし、呪いがリオウに何か特別な効果をもたらすことはない。
その時、クロノの視界いっぱいに白く四角い画面が表示される。
ゲームのポップアップウィンドウだ。通常ゲームからのお知らせや通知がある時に表示される画面。
何の操作もしていないのに勝手に開いた画面に驚きつつ、クロノは反射的に目を通した。
このタイミングで来るお知らせだ。いい予感はしない。
大方ラスボスに関するお知らせか、紅の探究者を褒めちぎる公式からのメッセージの可能性が高い。
しかし、そこに書かれていたのはクロノが予期しない文言だった。
【この世界を最初からやり直しますか?】
ポップアップウィンドウには確かにそう書かれている。ご丁寧に「はい」or「いいえ」の選択肢も表示されていて、実際に操作できるようになっているところを見ると、誰かのイタズラではなく運営からのメッセージで間違いはないようだ。
――どういう意味だ?
困惑した表情でクロノは周囲を見回した。これが全プレイヤーに送られたメッセージなら、同じように不振がっているプレイヤーがいるはずだと思ったのだ。
しかし、周りのプレイヤーはまだモニターに夢中で、メッセージに気付いた様子はない。
――俺だけ? なんで……。
右手が伸びる。
これがどういう意味だろうと試しに押してみるのも悪くない。
何しろ、クロノにはもう何も残されていないのだ。プレイヤーとしての評判も、ラスボスを倒す楽しみも、倒した後の名声も。
――イタズラならそれでいい。それならこのゲームを辞めるだけだ。
表示された「はい」の文字をクロノは右手の指先でわずかに触れた。
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