第四章 口伝
長老の住む家は想像していた立派な家とは反対に、この村に来てからよく見る、ごく普通のこじんまりとした家だった。
私が長老の家の前に立ち躊躇していると、私が来たことを察したかのように長老が玄関を開けた。
そのまま誘われるがままに家にあがった。
「君が来ることは何となくわかっていた」
長老はそう言うと、湯呑みに茶を注いだ。
「……私がここに来ることを、ですか」
「ああ」
「私が何を調べていたのかも?」
長老は少しだけ目を細めた。
「君は村の記録を見ただろう」
驚きはなかった。
責めるような声でもなかった。
ただ、事実を確認しているだけだった。
「なぜ……私が見ても何も言わなかったんですか」
私が尋ねると、長老は不思議そうな顔をした。
「なぜ止める必要がある」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
「この村に隠し事などない」
「でも、あの記録には……」
「書かれている通りだ」
長老は静かに答えた。
「この村には昔から続いている決まりがある」
長老は淡々とそう言った。
「決まり……?」
「山へ人を送る」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……人を?」
聞き返した声が、自分でもわかるほど震えていた。
「それは……どういう意味ですか」
長老は私の反応を不思議そうに見つめた。
「そのままの意味だ」
「山へ送られた人は……どうなるんですか」
「戻ってくる者はいない」
長老はただひたすらに淡々と私の質問に答えるだけだった。
背中に冷たいものが走った。
祭礼記録に残されていた、曖昧な言葉。
『選ばれし者を山へ送る』
私はそれを、昔の人間が残した比喩表現だと思っていた。
いや、思い込んでいたのほうが近いかもしれない。
本当にそんな行為が今も続いているなどとは考えたくもなかった。
「……本当に、そんなことをしているんですか」
「している」
長老は迷うことなく答えた。
その即答が、何よりも恐ろしかった。
「なぜ、そのようなことを今もなお続けているのですか」
「必要だからだ」
「この村が、続くために」
長老は声色一つ変えず答えた。
まるで畑を耕すような、祭事の日程を決めるような、変哲もないことを語るような口ぶりだった。
長老の家をでた私はしばらく動けずにいた。
知ってはいけないことを知ってしまった。
踏み入れてはいけないところまで来てしまった。
そんな気分だった。
今聞いたことの整理ができないままでいたが、私は一度宿に戻ることにした。
今日はもう、何も考えずに眠りたかった。
それほどまでに、長老の口から語られた話は、私がこれまで信じていたものを根底から揺さぶるものだった。
宿に戻った私は、布団に入っても眠ることができなかった。
目を閉じるたびに、長老の言葉が頭の中で繰り返された。
『山へ人を送る』
その意味を理解してしまった今、これまで見てきた村の景色が別のものに見えた。
優しく声をかけてくれた村人たち。 穏やかな笑顔。 何気ない日常。
そのすべての裏側に、私の知らない何かが存在していた。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
私がこの村に来ることになった理由も。 長老と村長が、私をどう見ていたのかも。
そして――
私が山へ送られる存在として、すでに選ばれていたことも。
数日前。 村長の家では、二人の老人が向かい合っていた。
「村に若者が来ております」
「ああ、知っておる」
「私が招きました」
「……何のためだ」
「今年がその年だからです」
二人の間に沈黙が生じた。
再び村長が口を開く。
「以前から一つ気になっていたことがあります。」
「何だ」
「山のお方は、本当に二十年育てた子を望んでおられるのでしょうか。」
「何が言いたい。」
「今年は外の者を送りたいのです。」
「……あの若者か。」
「はい。」
「もし受け入れられれば、これからは二十年愛を注いで育てた子供を送る、その必要がなくなります」
「……。」
「お認めいただけませんか」
「もし失敗したら、取り返しのつかないことになるぞ」
「その責は、すべて私が負います」
「お前一人の命で済む話ではない」
「どうしても確かめたいのです」
二人の間で再び静寂がながれた。
「……分かった。」
長老は深く目を閉じた。
「今年だけだ」
「ただし、山のお方がお怒りになれば、お前も私も、この村も終わる。」
村長はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
山は今日も、何も語らない。
「迎える準備を始めます」
その時点で、若者の運命はすでに決まっていた。




