第23話 動き出した運命(5)
ノアと別れたあとも、リリアナの耳には、彼が最後に口にした名が残っていた。
元宮廷医を訪ねたかもしれない男。王宮に関わる人々の診療録を探していたという人物。灰色の髪と薄い瞳の者を気にしていたという話。
どれも、まだ形にはならない。
けれど、考えようとすると、必ずあの時間へたどり着いてしまう。冷たくなったエリオスの頬。触れても戻らなかった体温。あの時、自分の中から何かが抜け落ちていくような感覚。
学院の門が遠ざかり、馬車は王都の通りへ入った。人の声も、馬車の音も、いつもと変わらない。それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
バルディエの屋敷に戻ると、玄関広間には夕方の光が差し込んでいた。侍女に外套を預ける。その時、学院で使ったハンカチも一緒に渡した。
「少し汚してしまったの。落ちるかしら」
侍女はハンカチの端を確かめ、小さく頷いた。
「お預かりいたします」
リリアナはそのまま廊下を進んだ。応接室の扉の向こうから、アルマンとレオンの声が聞こえる。紙をめくる音がする。仕事の話をしている時の声だった。
扉を叩くと、短い返事があった。
「戻りました」
「ああ、おかえり」
アルマンは顔を上げた。レオンが、卓上の書類を脇へ寄せる。
「久しぶりの学院だっただろう。具合は悪くなってないか」
「うん。大丈夫」
「それならよかった」
レオンはリリアナの座る場所を空けた。
「今、ちょうど話していたところだ」
「何の話?」
「レイヴンハルト家の件だ」
リリアナの手が、膝の上で少し止まった。
イザベラのことだ。
交流会でのことは、もう学院の中だけの話ではない。エリオス殿下の名を使ってリリアナを呼び出し、教室に閉じ込めた。そのことは王家にも伝わっている。
「騒ぎ立てるつもりはない」
アルマンは淡々と言った。
「だが、このまま済ませる話でもない」
声は荒くない。けれど、リリアナには分かった。叔父は怒っている。閉じ込められたこと。イザベラがリリアナをそう扱ってよい相手だと思っていたことも。
リリアナは頷いた。
イザベラの言葉を、今さら細かく思い出すつもりはなかった。けれど、あれが彼女一人だけの考えから出たものではないことは分かる。
商いを下に見て、バルディエをただ金を持っているだけの家と見る目。
その目は、レイヴンハルト家の中に少なからずあったのだろう。
「王族との縁も、これで遠のくだろう」
アルマンが言った。
リリアナは顔を上げた。
「正式に決まっていた話ではない。だが、ノア殿下の婚約者候補に名が挙がる家ではあった」
レオンが続ける。
「王族の名を使って人をおびき出し、閉じ込めた。しかも普段から、相手の家業を軽く見る言葉を口にしていた。本人が謝って終わる話じゃない。家の空気まで見えた」
血筋や財だけではない。王家が身内に迎える家を選ぶ時は、その家が何を大事にし、何を軽く見るのかも見られる。
「放っておいても、あちらは失うものを失っている」
アルマンは言った。
「そのうえで、こちらは貸していた便宜を引き上げる」
「便宜、ですか」
「ああ」
レオンが、リリアナの前に一枚の紙を置いた。
それは、レイヴンハルト領から王都へ向かう荷の道筋をまとめたものだった。左端には領地の品、右端には王都の売り先や職人の名。その間に、倉、馬車屋、小さな商会、金を融通する者、支払いを受け持つ者の名が並んでいる。
レイヴンハルト家とバルディエ家が、大きな一本の線で結ばれているわけではない。けれど、荷が領地から王都へ向かう途中で、何度もバルディエの流通網を通っていた。
「レイヴンハルト家の品が、直接うちに来ているわけじゃない」
レオンの声は落ち着いていた。
「でも、途中でうちの倉を使う。うちが押さえている馬車を使う。足りない金を一時的につなぐ。支払いを待つ。職人を紹介する。そういう形で、バルディエの道を使っている」
リリアナは、紙面の線を目で追った。毛織物も、修繕用の石材も、レイヴンハルト家が直接バルディエに頼んだ形ではない。けれど、行きも帰りも、買う時も売る時も、途中のどこかでバルディエの道を通っている。
「領地の民を困らせるつもりはない」
アルマンは言った。
「契約された荷は動かす。必要な品も止めない。だが、あの家のために倉を空ける必要はない。急ぎの馬車を回す必要もない。金を貸し、支払いを待ち、腕の良い職人を先に回す理由もない」
それは、信じられる相手にすることだ。
その一言で、リリアナには十分だった。
レイヴンハルト家は、おそらくすぐには困らない。大きな家だ。金もある。別の経路も探せるだろう。だが、今まで通りにはいかない。
前より高くつく。前より時間がかかる。売り時を逃す荷も出る。先に押さえられるはずだった職人や倉を、他家に取られる。これまで後払いで済んでいた相手から、前金を求められる。
バルディエが手を引けば、その近道は細る。
「商いを軽く見る家は、こちらが何を貸していたのかを知らん」
アルマンは低く言った。
「荷ではない。金と信用だ」
それ以上、イザベラの名は出なかった。
責める声も、怒りもない。ただ、貸していたものを引き上げる。それだけだった。
それだけで、レイヴンハルト家は今までと同じようには動けなくなる。
それが、バルディエ家のやり方なのだと思った。
レオンは、今度は別の束を手に取った。
「それと、もう一つある」
先ほどより、紙の量が多い。
「アルヴェイン家から話が来た」
「サラ様のご実家から、ですか」
「ああ。鉄路事業の件だ」
胸の奥が、かすかに強ばった。
鉄路。
王家の後ろ盾を受け、アルヴェイン家が進めている大事業。サラがエリオスの婚約者となったことで、その名は以前よりずっと大きく扱われるようになっている。
バルディエ商会は、その事業の表には出ない方針だった。ただし、まったく見ていなかったわけではない。アルマンは、念のため鉄材や一部の材料を押さえている。値が跳ねた時に周囲が困らないようにするためでもあり、いざという時に動けるようにするためでもあった。
それは、リリアナも知っている。
時が戻り、バルディエ商会の帳面に触れるようになってから、リリアナはこうしたものにも毎日のように目を通していた。どの領地に塩が足りないのか。絹はどの時期に王都へ出せばよいのか。薬はどの倉に置けば傷みにくいのか。支払いを待ってもよい相手は誰か。これ以上取引しない方がよい相手は誰か。
そういうものを見てきた。
けれど学院へ通うと決めた時、レオンに言われている。商会はもう回っている。お前が触った分も、ちゃんと回っている。ここから先は俺たちに任せろ。お前は、学業に集中しろ。
そう言われて、リリアナは商会の日々の動きから少し離れた。
だから、大きな方針は聞いていても、日々の荷の動きまでは追っていなかった。鉄材や木材の値が少し動いていること、職人の宿が押さえにくくなっていること、馬車の予約が取りにくくなっていることくらいは耳に入っていた。けれどそれは、大きな事業が動けば起きる範囲のことだと思っていた。
アルヴェイン家から正式に話が来るほどだとは思っていなかった。
「表向きは、事業を広げるための追加依頼だ」
レオンが言った。
「表向きは、ですか」
リリアナが聞き返すと、アルマンが控えの束を寄せた。
「鉄材、木材、石材、縄、油、薬品類。馬車、職人宿、倉、支払いの予定。アルヴェイン家が、うちに頼みたい部分だけが抜き出されている」
リリアナは一枚目に目を落とした。
工事全体の記録ではない。これだけで全てが分かるわけではない。それでも、数字と日付を追ううちに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
鉄材の搬入予定。木材と石材の置き場。馬車の手配日。職人宿の部屋数。油や薬品類の追加分。支払いの予定。
リリアナは、何枚かを見比べた。日付を指で追い、もう一度、最初の紙へ戻る。
材料を運ぶ日と、馬車を押さえている日が合っていない。職人の人数に対して、宿の場所が遠い。倉に入るはずの荷が、その前の日にまだ別の場所にある。支払いが遅れている相手に、さらに次の荷を頼もうとしている。
ひとつひとつは、小さな乱れだった。
けれど、重なれば止まる。
リリアナは少し考えてから、顔を上げた。
「……これは、追加で人や物を入れれば済む話ではないと思います」
レオンは何も言わず、続きを待った。
「たぶん、最初の段取りのまま、急に規模だけを大きくしています。材料を入れる順番と、人を動かす順番と、支払いの順番が合っていません」
アルマンも口を挟まなかった。
リリアナは、もう一度控えに目を戻した。
「これまで現場を回していた商会にも、甘さはあると思います。けれど、それだけではありません。急がされすぎています」
そこまで言って、リリアナはわずかに言葉を選んだ。
「王家の名が乗ったことで、準備より先に事業が動いてしまったのではありませんか」
部屋の空気が、少し重くなった。
「おそらくな」
アルマンは椅子の背に体を預けた。
「王家の後ろ盾がある。王太子殿下の婚約者の家でもある。引くに引けなくなったのだろう」
「ですが、ここで崩れれば、傷つくのはアルヴェイン家だけではありませんね」
「そうだ」
アルマンの声は、いつもより硬かった。
「王家の判断も疑われる。王家の名だけではない。国庫の金も入っている。民から集めた税を使い、王家の許可で土地を通し、王家の後ろ盾で人と物を動かしている事業だ。失敗すれば、アルヴェイン家だけの失態では済まない」
エリオスの名は、どこにも書かれていない。
けれど、この事業の傷は、いずれ彼のところへ届く。
王家はなぜ、アルヴェイン家に任せたのか。なぜ、止められなかったのか。そう問われる日が来るかもしれない。
そう思うと、胸の奥が冷えた。
「バルディエが助ければ、事業は立て直せるかもしれません」
「立て直せる」
アルマンは否定しなかった。
「だが、助け方を間違えれば、今度はバルディエが疑われる」
リリアナは顔を上げた。
「うちは、今はもう大きすぎる」
アルマンは静かに言った。
「王都と各地を結ぶ太い道の多くに、バルディエの名がある。倉、馬車、船、街道、商人、職人、支払い、紹介状。どこかでうちにつながる」
それは誇りではなく、確認だった。
リリアナも知っている。荷は、勝手には動かない。運ぶ者がいる。預かる者がいる。金をつなぐ者がいる。信用できる相手かどうかを見る者がいる。
バルディエは、その太い道をいくつも持つようになった。
だから、商会は大きくなった。
けれど、大きくなりすぎた力は、王家にとって便利なだけのものではない。
「バルディエは剣を持たない」
アルマンは言った。
「それでも、国を巡る物と金の道を握っている。だからこそ、前に出すぎれば警戒される」
リリアナは小さく頷いた。
「王家の事業を、バルディエの事業にしてはいけない、ということですね」
「ああ」
アルマンの目が、少しだけやわらいだ。
「材料と倉と支払いを見る。職人宿の手配も、必要な分だけ用意する。だが、工事そのものには口を出しすぎるな。アルヴェイン家の面子も、王家の面子も残す」
「助けるけれど、握らない」
「そうだ」
レオンが頷いた。
「その線を越えると、別の問題になる」
アルマンは、もう一枚の紙をリリアナの前へ出した。
「それでも、この事業を落とすわけにはいかない。王家の名が乗っている。いずれ国の道になるものだ」
リリアナは、その言葉を胸の中で受け止めた。
アルマンが欲しがっているのは、王家の力ではない。叔父が欲しがっているのは、必要なものが、必要な場所へ届く仕組みだ。
薬も、食べ物も、布も、木材も、鉄材も。どこかにあるのに届かない。金が止まり、道が止まり、人が迷う。そのせいで失われるものを、叔父はひどく嫌う。
だから商会を大きくした。
けれど、その仕組みが大きくなればなるほど、王家はバルディエから目を離せなくなる。
レオンが、控えの束をリリアナの前へ寄せた。
「リリアナ。この鉄路事業の立て直しに、しばらく力を貸してほしい」
「私が、ですか」
「ああ。相手と話をつけるのは、俺たちがやる。だけど、その前に段取りを組み直したい」
レオンは、指で項目を示した。
「どの材料を先に入れるか。どの馬車を押さえ直すか。どの職人をどこの宿に入れるか。支払いを先に済ませる相手はどこか」
「私に、その順番を見ろということですね」
「そうだ。どこから直すかを間違えると、また別の場所で止まる」
レオンは軽く笑った。
「こういう段取りを見るのは、お前が得意だろ?」
リリアナは、顔を上げた。
「無理はさせない。学院のこともあるから、動ける時でいい。まずは紙の上で、この事業を通る形に戻してほしい」
この事業に、バルディエがどこまで関わるか。その最初の線引きを、任されている。
リリアナは、もう一度控えの束を見た。
「分かりました。できるところから見てみます」
アルマンは短く頷いた。
卓の上には、レイヴンハルト家の書類と、アルヴェイン家の鉄路の書類が並んでいる。
一方は、貸していた信用を引き上げる話。
もう一方は、支えながら主導権を取らない話。
どちらも、バルディエの力が大きくなったからこそ出てきた話だった。




