第21話 見落としていたもの(3)
翌朝、リリアナはいつもより早く屋敷を出た。
学院の門はすでに開いており、朝の準備に入る使用人や教師たちがまばらに行き来していた。生徒会室の鍵は、必要があれば役員が借りられることになっている。リリアナは守衛に一礼し、まだ人の少ない校舎へ入った。
廊下は薄暗く、足音だけがやけに響く。生徒会室の扉はまだ閉まっていた。
リリアナは借りてきた鍵を取り出した。金具が静かな廊下で小さく鳴り、鍵を回すとかちりと音がする。その音まで、やけに大きく聞こえた。
扉を開けて中へ入る。
窓際の机に置かれた箱は、昨日のままそこにあった。リリアナは鞄から貸出記録の原本を取り出し、急いで同じ束の間へ戻そうとした。
その時、背後で扉が開いた。
「リリアナ」
振り向くと、ノアが入口に立っていた。その視線がすぐに彼女の手元へ落ちる。
「やはり君だったか」
リリアナの手には、まだ戻しきれていない原本があった。
「昨日、帰り際に確認しようとした。上の方の記録が数冊抜けていた」
ノアは窓際の箱へ視線を移す。
「君が持って帰ったんだろうと思っていた」
リリアナは原本を両手で持ち直した。
「申し訳ございません。王立医療院へ貸し出される前に、確認しておきたくて」
「それはいい。何か見つかった?」
リリアナは頷いた。
「七年前の研究補助学生の申請書です。担当教員は、サヴィーヌ先生です」
「歴史の合同講義の? 確か、古代文字と王国史が専門だったな」
「はい。サヴィーヌ先生の補助に入っていた学生が借り出した資料は――」
リリアナは記録へ視線を落とした。
「王太子名授け儀礼。祝祭時事故録。古王朝期の祭祀記録。失われた銘文の読解控え。それから――災厄鎮めの儀に関する民間伝承集」
ノアの表情が消えた。
「災厄鎮め」
「はい」
「補助員が借りた資料の中に、その名が混じっていたのか」
「偶然かもしれません」
そう言ってから、リリアナは首を振った。
「でも、見過ごせません」
ノアは原本へ目を落とし、紙面を追う。
「災厄鎮め。王太子名授け。祝祭事故録。王太子の短命と、何か関係しているかもしれない」
「私も、そう思いました」
「薬師が言っていたな。学院の中にも、呪いを調べている者がいるらしい、と」
リリアナは頷いた。
ノアは申請書へ視線を移す。
「この学生は、その後どうなっている」
「そこまでは分かりません。申請書の記録は、三年生に上がる前で途切れていました」
「それ以降の補助記録がない?」
「はい」
ノアは少し黙った。
「途中で研究を止めたか、外されたか」
「教授が知っているはずです」
「ああ。話すかどうかは別だろうけど」
朝の生徒会室はまだ静かだったが、遠くの廊下から登校してきた生徒の声がかすかに聞こえ始めていた。
リリアナは、申請書の文字をもう一度見る。
王太子。名授け。祝祭事故録。災厄鎮め。そして、七年前の研究補助生。
どれもまだ、はっきりした答えではない。それでも、同じ場所へ向かっている気がした。
リリアナは原本を閉じる。
「必要な箇所は控えてあります。原本は戻しましょう」
「そうだな」
ノアが頷く。
リリアナは申請書を元の束に戻し、箱の蓋を閉じた。
「授業の後で聞こう」
「はい。今日は、名授けの儀式についての講義だったはずです」
「なら、そこから話を向ける」
「古代王家の祭祀に興味を持った。名授け儀礼と災厄鎮めの関係を知りたい。そう尋ねるのはどうでしょう」
「そうだな。それから、研究補助に入っていた学生の名前を出す」
「反応を見るのですね」
「ああ」
二人の間に沈黙が落ちるうち、廊下の向こうから登校してきた生徒たちの声が近づいてきた。
朝が始まる。何事もなかった顔をして、授業を受けなければならない。
リリアナは鞄を持ち直し、ノアも扉の方へ視線を向けた。
「行こう」
「はい」
二人は何食わぬ顔で生徒会室を出た。
午前最後の講義は、統治学課程と民政課程の合同講義だった。
大講堂の講義室には昼前の光が差し込んでいる。前列には空席が多く、誰もあまり前に座りたがらない。
リリアナは迷わず前の席に座り、その一つ後ろの列に、いつものようにノアが腰を下ろした。
教壇に立ったのは、サヴィーヌ教授だった。
古代文字と王国史を専門とする教授。痩せた指に銀縁の眼鏡、少し猫背気味の姿勢だが、教壇に立つと声だけはよく通る。
「今日は、古王朝期から続く王族儀礼について触れます」
リリアナの筆先が紙の上で止まりかけ、すぐに動き出した。
教授は黒板に古い語を書く。
「名授けは、単なる通過儀礼ではありません。子どもが名を授けられることは、神々と国の前で、その生を認められることでもありました。皆さんも幼い頃に受けているはずです」
講義室の学生たちは、いつもと変わらずノートを取っている。
「とりわけ第一王子の場合、七歳の名授けを経て、王太子として正式に記録へ刻まれます」
教授は黒板の語を指した。
「つまり名授けは、王位継承の始まりを示す儀礼でもあったのです」
王族の制度。古い儀礼。歴史の一項目。
他の学生には、それだけに見えている。
「古王朝期には、名を与えることは、その者を国の秩序に結びつけることだと考えられていました」
教授は続ける。
「名を授けられた者が息災に育つように。また、国の秩序に結びつけられた者が災厄を招かぬように。名授けの後には、清祓い、厄除け、災厄鎮めなど、地方ごとにさまざまな儀礼が残っています」
災厄鎮め。
何でもない講義の中で、その言葉が出た。
リリアナは一つ息を吸い、板書の続きを写す。一つ後ろの席でノアも顔を上げなかった。ただ、ページをめくる音が一度だけ遅れた。
講義はそのまま進んだ。
古い語の用例。王家の祭祀。地方記録に残る解釈の違い。
サヴィーヌ教授は、どこまでも学問として話している。迷信でも怪談でもなく、古文書を読む時の注意として。
やがて昼前の鐘が鳴り、学生たちが席を立って講義室の出口へ流れていく。
リリアナはノートを閉じた。ノアはすぐには立たず、人の流れが少なくなるのを待ってから静かに席を立つ。
「行こう」
リリアナも頷いた。
教壇では、サヴィーヌ教授が資料をまとめている。
「サヴィーヌ教授」
ノアが声をかけると、教授が顔を上げた。
「ああ、ノア殿下」
穏やかな笑みを浮かべ、その視線が隣に立つリリアナへ移る。
「バルディエ嬢も。先ほどの講義で、何か気になるところがありましたか」
「はい。名授けの儀式について、少し伺いたいことがございます」
教授の表情は変わらなかった。
「今日の講義で何か不明な点が?」
「はい。特に、王族の名授けと災厄鎮めの関係について」
教授は資料をそろえながら、ごく自然に頷いた。
「災厄鎮めですか」
「以前、ノア殿下と王家史の古記録を調べていた際、似た語を見かけたことがありました。今日の講義でも同じ語が出ましたので、もう少し詳しく知りたいと思いまして」
教授は少しだけ目を細めた。
「なるほど。それは、最近お二人が研究棟へよく通っていることと関係がありますか」
ノアが目を上げる。
「ご存じでしたか」
「主席と次席のお二人ですからね。目立ちますよ」
教授は手元の資料を抱え直した。
「この場で済ませるには、少し細かい話になりそうですね」
それから廊下の方へ視線を向ける。
「昼休みは、学生の相談が一件入っています」
「では、放課後に」
ノアが言うと、教授は少し考えてから頷いた。
「よいでしょう。放課後、研究室へいらしてください」
「ありがとうございます」
リリアナは礼をした。
教授は何事もなかったように講義室を出ていった。その背中が見えなくなってから、ノアが口を開く。
「俺たちのことを知っていたな」
「どこまでご存じかは分かりません」
「あくまで、王家史の調査の一環ということにしておこう」
「はい」
放課後、サヴィーヌ教授の研究室へ向かった。
本館二階の教員研究室が並ぶ廊下には、まだ人の気配がある。教師が書類を抱えて通り過ぎ、少し離れた部屋からは学生の相談に応じる声も聞こえた。
古代文字・王家史研究室と書かれた札の前に立つと、扉の隙間から古い紙の匂いがした。
ノアが扉を叩く。
「どうぞ」
中から声が返った。
研究室には本が多かった。壁一面の棚に、巻物や写本、古い紙片を挟んだ箱が並び、机の上にも何冊もの辞書と写しが積まれている。
サヴィーヌ教授は窓際の机から顔を上げた。
「いらっしゃい。座ってください。名授けの儀式でしたね」
ノアとリリアナは、勧められた椅子に座った。
教授は棚から一冊の古い冊子を取り出し、机の上へ置く。
「名授け儀礼そのものは、お二方も受けているでしょう。今も形を変えて残っています。ただし、古王朝期の資料に見える儀礼を、現代の制度に直接結びつけるのは危険です。古い儀礼は、後世の書写や民間伝承の中で、かなり形を変えていますから」
「災厄鎮めも、その一つですか」
リリアナが尋ねる。
「ええ。病や不作、事故。当時の人々は、原因の分からない不幸を儀礼で説明しようとしました。災厄鎮めも、その文脈で読まれることが多い」
「王太子名授け儀礼との関係は」
ノアが聞く。
教授はわずかに間を置いた。
「……王太子というより、第一王子の名授けですね」
静かな訂正だった。
「古王朝期から続くしきたりとして、第一王子は七歳で名を授かり、正式に継承権を持つ者として記録に刻まれます。時代によって細部は変わっていますが、その考え方自体は今も残っています」
教授は冊子のページを一枚めくった。
「その儀礼に伴う清祓いや災厄鎮めの記録が、一部の地方に残っているのです」
リリアナは手元の帳面を開いた。
「祝祭時事故録との関連はありますか」
教授の指が、机の上で一度だけ止まった。
ほんの一瞬だったが、リリアナは見逃さなかった。
「祝祭時事故録?」
「王立医療院へ貸し出す申請書を整理していて見つけました。古王朝期の祭祀資料と一緒に、借り出された記録の中にありました」
教授は眼鏡の奥からリリアナを見る。
「貸し出された記録」
ノアが静かに言った。
「七年前の研究補助申請です」
研究室の気配がわずかに変わる。
教授はすぐには答えなかった。
「七年前」
低く繰り返す。
ノアは続けた。
「教授の研究室に、一年近く補助に入っていた学生がいました」
教授の表情は変わらない。だが、先ほどまで冊子に添えられていた指は動かなくなっていた。
リリアナは帳面の間に挟んでいた申請書の控えを取り出す。
「その学生が借り出した資料の中に、王太子名授け儀礼、祝祭時事故録、古王朝期祭祀記録、災厄鎮めの儀に関する民間伝承集がありました」
教授は黙っていた。
ノアが、最後に名を告げる。
「補助学生の名は――」




