第21話 見落としていたもの(2)
リリアナが生徒会室へ戻ると、ノアはすでに来ていた。エリックは机の前で書類を整理し、顧問教師も奥の机で書類に目を通している。先に顔を上げたのはノアだった。
「リリアナ」
リリアナは足を止める。
「研究棟の資料保管区画で、棚が倒れました」
室内の空気が変わった。エリックが立ち上がる。
「棚が?」
「はい。記録簿や木箱が床に散乱しています。そのままでは危険です」
ノアはすぐに一歩こちらへ来た。
「兄上は」
「肩にかすり傷を負われました。見た限りでは深い傷ではありません。ただ、念のため医務官に診ていただくよう、医務室で待機していただいています」
「……そうか」
ノアは短く息を吐き、それからリリアナを見る。
「君は?」
「私は無事です」
「ならいい」
その言葉に、胸の奥がざわりとした。自分は無事だった。けれど、エリオスは怪我をした。リリアナは指先を握りしめる。
「俺は医務室へ行く」
ノアはそう言って、生徒会室を出ていった。
顧問教師が静かに立ち上がる。
「では、こちらは資料区画の状況を確認いたしましょう」
エリックが頷いた。
「王立医療院へ渡す予定の資料も、まだあちらにあります」
「必要なものだけ先に移します。他の棚にも傷みがあるようなら、設備の点検と補強の手配が必要になりますね」
リリアナとエリック、そして顧問教師は、改めて研究棟へ向かうことになった。
資料保管区画へ戻ると、倒れた棚が通路をふさいでいた。木箱は床に落ち、古い記録簿が開いたまま散らばっている。先ほど、自分たちが立っていた場所のすぐ近くだった。
あと少し位置が違えば、あと少し逃げるのが遅ければ、棚の下敷きになっていてもおかしくなかった。
顧問教師は足を止め、倒れた棚と周囲の棚を見比べる。
「このままにはできませんね」
近くの棚を軽く押すと、ぎし、と嫌な音が鳴った。
「他もかなり傷んでいます。一度、資料区画全体を点検した方がよさそうです」
エリックが眉を寄せる。
「しばらく使えなくなりますか?」
「補強が必要でしょう。数か月は閉鎖することになるかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、リリアナの指先が止まった。
数か月の閉鎖。資料区画の補強。
知っている。この流れを、私は知っている。
「床に落ちているものは、無理に動かさないでください」
顧問教師が言った。
「棚がさらに崩れる恐れがあります。手の届く範囲のものだけ確認して、必要な資料を先に移しましょう」
「王立医療院へ渡す予定の資料は、こちらの箱です」
リリアナが、倒れた棚から少し離れた机の上を示す。そこには、先ほどエリオスとリリアナが取り分けておいた記録の束があった。
「生徒会室にある五年分と合わせて、明日までにはあらかた整理できると思います」
エリックが言う。
「準備が整いしだい、王立医療院へ貸し出す形になりますね」
「貸出目録の作成と正式な手続きは、私の方で進めます」
顧問教師はそう言ってから、資料区画を見回した。
「まずは資料を生徒会室へ移しましょう。それから、会長のお怪我について医務官へ確認を取ります」
その時、資料区画の入口側で扉が開く音がした。振り向くと、ノアとエリオスが戻ってきていた。エリオスの肩口の布は少し裂けている。それでも、顔色はいつもと変わらなかった。
その姿を見た瞬間、リリアナの胸の奥から張り詰めていたものが少しだけ抜けた。ふと視線が合う。エリオスは一瞬だけ何か言いたげに眉を寄せ、リリアナは小さく頭を下げた。
無事でよかった。本当に、そう思った。
同時に、胸の奥には冷たいものが残っていた。自分がそばにいたから流れが変わったのだとしたら。守ろうとして近づいたことが、別の危険を呼んだのだとしたら。その考えだけは、どうしても消えてくれなかった。
エリオスは倒れた棚へ視線を向ける。
「私の怪我の件は、報告しないように」
顧問教師が息を止めた。
「ですが、殿下」
「医務官には、少し擦ったとだけ伝えてあります。大事にする必要はありません。ただ、安全点検は進めてください。古い棚が他にもあるなら、このまま使わせるわけにはいかないでしょう」
顧問教師は少し黙り、やがて頷いた。
「……承知しました」
「資料区画は一度閉鎖します。点検と補強が終わるまで、立ち入りは禁止にしましょう」
エリックも頷く。
「王立医療院へ渡す予定の資料は、こちらで整理しておきます」
「頼みます」
エリオスは短く答えた。その声は落ち着いていて、本当に何でもなかったかのようだった。けれど、リリアナの指先はまだ冷えたままだった。
生徒会室へ戻ると、運び込んだ箱は窓際の机に置かれた。顧問教師は事故報告と資料区画閉鎖の手続きのため、一度職員室へ戻ると言った。
「正式な掲示はこちらで出します。今日はもう、皆さんも早めに帰宅してください」
エリックもすぐに動き出す。
「研究棟の管理担当へも、こちらから連絡しておきます」
生徒会室には何人かの役員も戻ってきていた。事故の話を聞いて資料の箱を移す者、連絡役として廊下へ出る者、研究棟の鍵を確認する者。部屋の中は小さく慌ただしくなっていく。
そのどさくさの中で、リリアナは窓際の箱へ視線を向けた。王立医療院へ渡す予定の記録は、準備が整えばすぐに貸し出される。自由に見られる時間は、ほとんどない。
リリアナは自分の席に置いていた鞄を手に取り、箱の蓋を少しだけ開けた。貸出記録の控えが数冊、上の方に重なっている。
明日には戻す。
そう自分に言い聞かせ、リリアナは控え記録を鞄の奥へ滑り込ませた。今は、規則を守ることよりも確かめなければならないことがあった。
結局、屋敷へ戻った頃には空はすっかり暗くなっていた。食事はほとんど喉を通らず、部屋へ戻るとすぐに机の引き出しを開け、綴じ紐のついた紙束を取り出す。
端は少し擦り切れ、指の跡が残っていた。時戻りしてから、何度も開いてきたものだった。
頁をめくる。日付の横には、小さな印をつける癖がある。危険だった日には必ず印を残してきた。
落馬しかけた日。式典の装飾の緩み。刃の不備。薬の重なり。そして、誕生祭の襲撃。
ほんの僅かに何かがずれていれば、取り返しがつかなかった出来事。自分が見たこと、覚えていること、防げたこと、変えられた未来。
その中に、研究棟の棚崩れはなかった。
「……違う」
なかったわけではない。
研究棟の資料区画が補強工事でしばらく使えなくなったことはあった。古い棚が交換され、資料が移され、数か月ほど閉鎖された。それは覚えている。
ただ、あの時の自分にとっては設備点検の一つでしかなかった。だから紙束にも書かなかったし、今まで思い出しもしなかった。
たしか、あの時。エリックが後で言っていた。
『危なかったですよ。僕と会長が行った時には、もう棚が崩れていて』
『タイミングが悪かったら、木箱の角にでもぶつけていたかもしれません』
怪我人が出たという話もなかった。老朽化による事故が起き、棚を補強することになった。あの時のリリアナは、そう受け取っただけだった。
あの頃の自分は研究棟にほとんど出入りしておらず、資料保管区画の場所も今ほど詳しくは知らなかった。だから、エリックも自分をエリオスの同行者には選ばなかった。
今回は違う。
ノアと何度も研究棟へ通ったことで、資料区画の場所も古い棚の分類もある程度は分かる。だから、エリックは自分を指名した。
本来なら、エリックが資料整理を終えてからエリオスと研究棟へ向かっていたはずだった。けれど今回は、エリックが五年分の書類をまとめることになり、代わりにエリオスと自分が先に行った。
そこで棚が倒れ、エリオスが怪我をした。
私が一緒だったから。
その考えが、一瞬だけ胸をよぎる。
不吉な色、災いを呼ぶ色だと、幼い頃からそう言われ続けてきた。
リリアナは、握っていたペンに力を込める。
まだ決めつけてはいけない。分からないなら、確かめるしかない。
老朽化した棚。誰かの予定変更。ほんの少しの遅れ。そんな小さなものの中にも、エリオスへ向かう危険が混じっていた。
「……見落としていた」
声が震えた。
リリアナは左手の指輪をそっとなぞる。家では手袋を外しているため、細い銀の輪が燭台の灯りを静かに返していた。
あの人は、生きる意味を持たなかった自分に言った。
――俺を、生きる理由にして。
あの時から、エリオスは私の光だ。たとえ今のエリオスが何も覚えていなくても、あの時間は本物だった。
エリオスがいなければ、生きる意味がない。どんなことをしてもエリオスを生かす。それだけは、絶対に譲れなかった。
リリアナは鞄の奥から、持ち帰った記録の控えを取り出した。燭台の灯りを近づけ、一枚ずつめくっていく。
薬理補助。地方施療院実習。薬草管理。古代文字研究。王国史研究。祭祀記録整理。
その中で、一枚だけ指が止まった。
七年前の研究補助申請書だった。
担当教員は、古代文字と王国史を専門とする教授。資料貸出記録には、古い王家に関する記録が並んでいる。
『古王朝期祭祀記録 写し』
『王太子名授け儀礼に関する注解』
『祝祭時事故録』
『失われた銘文の読解控え』
さらに下へ視線を落とす。
『災厄鎮めの儀に関する民間伝承集』
災厄を、鎮める。
薬師の声が耳の奥によみがえった。
――呪い。そう呼ぶ者もいた、と。
王太子の周りでだけ、似たことが起きている、と。
これは、呪いを消す儀式なのだろうか。王太子に降りる災厄を鎮めるためのものなのか。
まだ分からない。けれど、見過ごすことはできなかった。
申請書の端には担当教員の名が記されていた。統治学課程と民政課程の合同講義で、ノアと一緒に何度か受けたことがある教師だった。そして、補助学生の名前もある。
王太子。祭祀。祝祭事故録。災厄鎮め。
ばらばらに見える言葉が、同じ方向を向いている気がした。
リリアナは机の上の紙を見下ろす。夜は深く、今から動くことはできない。それでも、明日の朝を待つ時間がひどく遠く感じた。
「……ノアに、知らせなければ」




