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呼べない名前

夜。

エリオスが部屋に戻ると、

静けさだけが先にあった。


婚約式は、

滞りなく終わった。


神殿での宣誓。

形式に則った言葉。

内外へ向けた、公的な確認。


結婚ではない。

宝飾や証の授受もない。

正式な婚約の成立だけを、

内外へ示すためだけの儀式。


政治として、

必要な形だった。


サラの家が進めている国家規模の事業――

アルヴェイン公爵家の鉄路計画。

それが本格的に動き出す前に、

王家の後ろ盾を、公に、明確に示す必要があった。


本来なら、

学園を出てからでもよかったはずの婚約が、

在学中に前倒しされた理由。


国の流れを考えれば、

遅らせる選択はなかった。


サラも、それを理解している。


二人の間にあるのは、

合意だ。


感情ではない。


それでも、

王太子の隣に立つ者としての責任を、

迷いなく引き受けてくれている。


自分も同じだ。


国のために受け入れる。

それでいい。


――そういうものだと、

思っていた。


外套を外し、

机の脇に置く。


視線が止まる。


花瓶。


白い花が、

静かに挿されていた。


百合。


婚約式の装花の残りを、

侍女がそのまま運び込んだのだろう。


窓から差し込む月明かりが、

百合の花弁を静かに縁取る。


胸の奥が、

強く締まる。


理由は分からない。


目を逸らそうとして、

逸らせなかった。


白い花弁。

ただ、

そこにあるだけの静けさ。


その瞬間。


ふと。


夜の光景が、

重なる。


灯り。

石畳。

刃の軌道。

押された衝撃。


崩れ落ちた小さな身体。


「……よかっ、た」


かすれた声。


息のように、

零れた言葉。


顔は、

思い出せない。


名前も、

知らない。


男か女かさえ、

分からない。


それでも。


最後に、

こちらを見ていた目だけが、

消えない。


あのあと。


探した。


祝祭の通り。

路地。

診療所。

商家。


兵にも、

人にも聞いた。


王太子自らの捜索としては、

長すぎるほど続けた。


だが、

見つからなかった。


記録も、

残っていない。


立場の問題もあった。


これ以上の行動は、

混乱を招くと判断され。


やがて、

捜索は打ち切られた。


七年前の出来事。


忘れていたわけではない。


ただ、

考えないようにしていただけだ。


月明かりが、

花弁の縁を、静かになぞる。


視線が、

離れない。


胸の奥に、

言葉にならない何かが、

沈んでいる。


――呼びたい。


なぜか。


理由もなく。


誰かの名前を。


喉の奥まで、

音が上がる。


けれど、

形にならない。


名前がない。


呼ぶべき相手が、分からない。


それでも。


呼ばなければいけない気がして、

言葉だけが胸の内側で空回る。


――――


そこで、止まる。


続かない。

分からない。


声にならないまま、

胸の奥で引き裂かれる。


ただ、

呼びたかったという衝動だけが残る。

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