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呼ばれない名前

その日、

商会の帳場が、少しだけ慌ただしかった。

いつもの足音より、半拍速い。

声の落ち方も、どこか浮いている。


納品書の束が、

机の上に積み上げられていた。


布。

装飾品。

香料。

そして、花。


「神殿行き、先に分けておけ」

「室内分、足りるか?」

「百合、追加が入ったぞ」


リリアナは、納品書を手元へ引き寄せる。

頁を開く。


王家御婚約式 納品書。


婚約式。

分かっていたはずの言葉が、

紙の上で、急に重さを持つ。


納品書をめくる。


百合。

次の頁も、百合。

その次も、百合。


神殿用。

室内装花。

祝賀列席分。

予備。


白い花の名が、

整然と並んでいる。


数量が増える。


十。

二十。

三十。


追加。

追記。

再追加。


百合。


白。

祝福。


祝詞の下に飾られる花。

王家の婚約を飾る花。


指先が、

紙の上で止まる。


文字が、

ただの品名ではなくなる。


百合。


あのとき、百合の花に囲まれた神殿で。


「幸せにするから」


一度も逸れなかった視線。


指先に、わずかに力が入る。

文字の上を、無意識になぞった。

擦れた箇所が、かすかに滲む。


視界が、わずかに揺れる。


「……もういい。帰れ」


背後から、叔父の声が落ちた。


振り向く。


「……仕事は?」


「今の顔で、帳場に立つな」


短い言葉。

叱ってもいない。

慰めてもいない。


ただ、

見えているものを、そのまま置いただけだった。


「……はい」


帳場を離れる。


外に出ると、まだ陽は高い。


神殿へ向かう荷が、

静かに運ばれていく。


布。

箱。

装飾具。

そして、花。


白い包みの隙間から、

花弁がのぞく。


百合。


胸の奥が、強く揺れる。


歩きながら、視線を落とす。


そのまま帰るつもりだった。


けれど。


足が止まる。

道を外れる。


草の匂い。

土の湿り。

風が抜ける場所。


白い花が、

点々と揺れていた。


百合。


野に咲く、

小ぶりな花。


祝福の飾りではない。

ただ、そこに咲いているだけの白。


――時戻りしたばかりの頃。


声も構わず、

泣き崩れた場所。


胸の奥が、

きゅっと縮む。


近づく。


白い花弁が、

重なるように開いている。


手を伸ばす。

触れる。


冷たい。

やわらかい。


――「じゃあさ」


白い花を指して。


――「これは、リリーの花だよ」


声が、

胸の奥に落ちる。


――「ちゃんと、呼ぶ」


風に揺れる百合。


――「百合の花を見たら、リリーを思い出すね」


振り返って、

まっすぐに。


光を含んだ目。


そのまま、離れない。


風が、花を揺らす。


同じ白。

同じ形。

同じ輪郭。


なのに。


そこにいるはずの人だけが、いない。


名前も、

あの声では、もう呼ばれない。


指先が震える。


花弁に、雫が落ちる。


白が、ゆっくり濃くなる。


ひとつ、またひとつ。


重なり、縁からこぼれる。


言葉が、静かに落ちた。


「……嘘つき」

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