第8話 伸ばした手の先に(5)エリオス
王宮に戻る頃には、
祝祭のざわめきは、
遠い音になっていた。
馬車が止まる。
扉が開く。
侍従の声。
兵の足音。
明るすぎる灯り。
現実に、
引き戻される。
「殿下、お怪我は」
差し出された手を振り払いかけて、
わずかに止める。
何も言わず、
そのまま歩き出した。
部屋に通される。
医師が呼ばれ、
形式的な診察が始まる。
脈。
瞳。
呼吸。
どこも異常はない。
「外傷はございません。
念のため、
今夜はお休みください」
それだけ。
「……殿下は無事です」
無事。
その言葉が、
やけに軽く響いた。
医師が下がり、
侍従たちも退室する。
部屋に残ったのは、
控えていた兵だけだった。
エリオスは、
しばらく何も言わずに立っていた。
窓の外を見る。
灯りが揺れている。
街は、
何事もなかったように動いている。
そして。
「……あの子は」
声が出ていた。
兵が姿勢を正す。
「はい」
「今日、
俺の前に出てきた子だ」
言葉を探す。
うまく形にならない。
「……無事なのか」
一瞬だけ、
兵の視線が揺れた。
「それが……」
言い淀む。
胸の奥が、
わずかに軋む。
「分からないのか」
「はい」
兵は、正直に答えた。
「倒れている子どもがいたことは、
確認されています」
「だが」
「混乱の中で、
その後の所在が追えておりません」
「負傷者の確認も行いましたが、
該当する者は見つかっていません」
言葉が止まる。
「……いない?」
「はい」
兵は視線を落としたまま続ける。
「名も、
身元も、
不明のままです」
エリオスは、
何も言えなくなった。
いなくなった。
死んだ、とも違う。
助かった、とも言えない。
ただ、
“確認できない”。
まるで。
最初から、
そこにいなかったみたいに。
「……そうか」
それだけ言って、
兵を下がらせる。
扉が閉まる。
静寂。
ひとりになる。
胸の奥に、
重たいものが残る。
助かったのは、
自分だ。
それは事実だ。
けれど。
——代わりに、
誰かが傷ついた。
名前も知らない。
顔も分からない。
声も、
ほとんど覚えていない。
それでも。
布の隙間から見えた、
あの目だけが、
消えない。
恐怖じゃない。
助けを求める色でもない。
「……よかっ、た」
かすれた声。
あの瞬間、
自分を見ていた。
まるで、
確かめるみたいに。
「……なぜ」
問いは、
宙に落ちる。
答えはない。
エリオスは、
無意識に左手を握った。
指先に触れる。
小さな輪。
冷たいはずなのに、
そこだけが、
やけに現実だった。
眠ることは、
できそうになかった。




