第8話 伸ばした手の先に(3)
夢を見ていた。
巻き戻る前の、
小さい頃の夢。
宮殿に来て、
しばらく経った頃。
人の名前や、
長い廊下の曲がり方を覚えて、
ようやく息の仕方が分かってきた頃。
エリオスやノアと、
宮殿の中を歩くことにも慣れてきて。
その日は、
好奇心のまま、
エリオスと二人で地下へ降りた。
あの日のこと。
宮殿の奥、
人の気配の途切れる区画。
重い扉の先。
使われなくなった保管室のような部屋は、
空気が少しだけ冷たかった。
古い石の匂い。
積まれた箱。
布をかけられた棚。
忘れられたものが、
静かに眠っている場所。
その奥で、
エリオスが、
半ば崩れた台の上に置かれた王冠を見つけた。
「……重いな、これ」
試しに頭に乗せて、
すぐに苦笑する。
似合っているのに、
嬉しそうじゃない。
少しの沈黙のあと、
「これを被ったら、
俺、俺じゃなくなる気がする」
ぽつりと落ちる声。
リリアナは、
その顔を見上げた。
理由は分からない。
でも、
少しだけ、
目が離せなかった。
「王様でも、
王様じゃなくても、
エリオスはエリオスだよ」
言葉は、
考えるより先に出ていた。
エリオスは、
一瞬だけ言葉を止める。
それから、
小さく笑った。
「……そっか」
それ以上は言わず、
近くの箱を開ける。
中には、
古びた小物がいくつか入っていた。
その中に、
指輪があった。
二つ。
飾り気のない、
細い輪。
「……あ」
リリアナが、
小さく息をこぼす。
そして、
そっと手に取る。
光にかざす。
「童話の、
王様と聖女さまの指輪みたい……」
一人で何度も読んだ物語に出てきた、
あの輪。
自分には、
触れることのないものだと、
思っていた。
エリオスは、
しばらくその様子を見ていた。
それから、
リリアナの手の中から、
指輪をひとつ受け取る。
そして、
リリアナの手に触れる。
壊れ物に触れるみたいに。
指先を、
確かめるように。
小さな指に、
静かに輪を通す。
ぶかぶかで、
そのまま、
左手の中指まで滑る。
そこで、止まった。
リリアナが、
顔を上げる。
目が合う。
エリオスは、
視線を逸らさないまま、言った。
「……リリー」
その呼び方は、
静かなのに、
胸の奥へまっすぐ落ちてきた。
名前を呼ばれた、というより、
そこに置かれたみたいに。
指先に残る体温と、
重ならないはずの鼓動が、
少しだけ早くなる。
エリオスは、
何か言いかけて――やめた。
言葉にならないまま、
そのまま輪を押さえる。
離れないように。
落ちないように。
触れた指先だけが、
わずかに力を帯びた。
「……ここなら、落ちない」
それだけを告げた。
もうひとつの指輪を、
リリアナの手に渡す。
「……それ」
一拍。
「俺にも」
リリアナは、
うなずく。
少し背伸びして、
エリオスの左手を取る。
同じ指に、
指輪を通す。
大きくて、
指の根元まで落ちる。
止まる。
二人の手が、
そのまま、
少しだけ重なった。
約束の言葉は、
交わしていない。
意味も、
知らないまま。
ただ、
そこに、
輪だけが残った。
──どうして。
この光景が、
いま、
こんなにもはっきり浮かぶんだろう。
灯りの中。
伸ばされた手。
その先で、
かすかに光っていた、
小さな輪。
意識を手放す直前、
最後に見えた光と、
重なっている。
まだ、
出会っていないはずなのに。
どうして、
あの人の手に、
あったんだろう。
理由なんて、
分からない。
指輪のことも。
あのときの言葉のことも。
でも。
あの時間は、
確かにあった。
あの場所で過ごした日々が、
消えないまま、
胸の奥に残っている。
胸の奥が、
静かにゆるむ。
同時に、
どこかがきしむ。
もう、
戻れない。
あの頃には。
あの場所には。
あの人の隣には。
それでも。
灯りの中で見た、
あの輪の光だけが、
夢の底で、
静かに揺れていた。




