母
佳奈恵からの手紙には最低限の事しか記載されていなかった。書かれていた事を更に端的にまとめればこういったものだ。
『全てを教える。その為に約束をしてほしい。この手紙に書かれた指示の通りに動いて』
親友の意図が分からない。そして、一致しないのだ。手紙の中の佳奈恵と、記憶の中の佳奈恵が。
私の学生時代を支えてくれた佳奈恵。いつも優しく、楽しく、私の横で笑っていた佳奈恵。常に私に気を配ってくれた佳奈恵。そんな明るく柔らかい彼女の笑顔が、この手紙の中には一つも存在していないのだ。
冷酷と言えるほどに冷え切った言葉に、温もりは一切なかった。
別人。
知らない。こんな人。
手紙を開いた瞬間、血の気が引いていく感覚を改めて思い出した。
知らない。いや、知らなかった? 佳奈恵の事をちゃんと、私は知っていなかった?
怖い。それが素直な感情だった。
でも、だからこそ私は答えを知らなければならないと思った。親友の事を、ちゃんと知る為に。
最初の指示の場所に来た。
――懐かしい。
私が当時通った家は、自宅と今目の前にある佳奈恵の家の二件ぐらいだった。
『私の母と会って、同封した二通目の手紙を渡しなさい』
佳奈恵からは二通の手紙が送られてきていた。二通それぞれ封の外に記載があった。一通目に、「先にこちらを開く事」。二通目には、「こちらは絶対に開かない事」と書かれていた。
不思議に思った。送っておいて開くなというのはどういう事かと。一通目の手紙を開いてその意味を理解した。
佳奈恵の母親。佳奈恵に似て明るい人物だったと記憶している。
いつもおいしい和菓子とお茶を出してくれた。暗い顔をした私は、同年代だけでなく大人達からも敬遠されていた。そんな中で佳奈恵の母親は佳奈恵同様私に優しくしてくれた。
村の家にインターホンなんて立派なものなどもちろんないので、戸をこんこんと叩いた。
返事はない。いないのか? もう一度戸を叩いてみる。するとごそっと、家の奥の方で何か音が聞こえたような気がした。
ど……ど……ど……。
木の板の床を、ゆっくりと踏みしめるような音。その音が戸の方に近づいてくる。
ガラッと、戸が向こう側から開かれた。
――え。
私はその場に立ち尽くした。
目の前に立つ女性。ぼさぼさの髪と、よれよれの服。服には沁みが所々についたままで、生ごみのような匂いが目の前からつんっと匂ってくる。
――誰だ、これ。
頭の中で思いながら、ちゃんと分かっている。認めたくないだけだ。面影は残っている。記憶の中の彼女と、目の前の女性が重なっていく。
すっかり別人だ。十年の間に、ここまで人は醜く変わってしまうのか。少なからずショックだった。
「お久しぶりです。十年前この村に住んでいた、江藤です」
くっと彼女の目が私の顔を見た。濁って光のない、死んだ目。私の事をちゃんと認識してもらえているだろうか。ただでさえ過ぎた年月がある。記憶としてちゃんと残っているかという問題に加え、目の前の人物が正気を保っているのかどうかも怪しい。
困った。やるせない気持ちになりながら、どうしようかと考える。
とりあえず、佳奈恵の言う通りにするしかない。
「あの、これ。佳奈恵から送られてきて、渡すようにって」
私は佳奈恵から受け取った『開けないように』と言われた方の手紙を差し出した。
彼女の目玉がぬるぅっと私の手元におりていく。
「かなえ」
ひしゃげたそれが声である事が一瞬分からなかった。おそらくは、長い間声というものを使っていなかったのだろう。彼女が久しくして発した娘を呼ぶ声。
失礼ながら、彼女に正常な判断能力も処理能力もあるようには思えなかった。だが、佳奈恵という言葉に彼女はちゃんと反応を見せた。
ばっと、気付けば手に持っていた手紙がなくなっていた。何が起きたのか分からなかった。見れば、手紙はいつの間にか彼女の手の中にあった。凄まじい勢いで手紙が奪い去られた事に遅れて気付いた。えっと思った時には、ばあんと目の前で戸を思いっきり閉められた。
なんだ。どういう事だ。
佳奈恵という言葉が彼女を刺激してしまった事はなんとなく分かる。ただ、何故?
こんな形で戸を閉められてしまった以上、もう一度戸に手をかける事はためらわれた。しかしぼんやりと何も考えていないように見えて、急に機敏な動きを見せたり、彼女の挙動は全く読めない。いきなり暴れ狂ったりなんてされたら抵抗出来る自信もない。
とりあえず、待つしかないか。私は佳奈恵の家から少し離れ、ちょうど腰掛けるのに程よい置き石に腰掛けた。
ふぅっと一息つく。落ち着いて改めて佳奈恵の母の姿の事を考える。
十年でここまで人は変わってしまうものなのか。
十年もあれば様々な事が変わっていく。人も世界も。しかし、彼女の姿は単純な時の経過ではない。人生において致命的な何かを経験した事は明らかだ。
それは何だろう。ここまで一気に衰えてしまう理由とは。
おそらくは、佳奈恵の事だろう。全てを教える。その経路の中に自分の母も組み込んだ事に、なんらかの意図は含まれているだろう。佳奈恵の母の姿を見て、私は思った。
佳奈恵は私に、自分の母の姿を見せたかった?
その意味は分からない。でもそれが、彼女が言う答えとはおそらく無関係ではない。
嫌な予感がよぎる。不明瞭で、どんな悲劇が起こるかなんてはっきりとは見えていない。ただただ漠然とした予感。
――ここに来るべきじゃなかったかもしれない。
今更に思った。いずれにしても手遅れだ。答えを知るまで帰る気はない。
がらがら。
途端、戸が開く音がした。佳奈恵の母が、私の方をじっと見ている。先程と同じく、何を考えているか分からない表情。ただ微動だにせずこちらを見ている。
――行くべきか。
急に襲い掛かってきたりはしないだろうか。不安は大きいが、ここで退いては先に進めない。恐る恐る彼女に再び近づく。
「あの……何が、書かれたんですか?」
無言。答えてくれるとは思わなかったが、やはり何が書かれているのかが気になった。しかし、口を開かない代わりに彼女は私に向かって腕を差し出した。その手には何かが握られている。
「……私に、ですか?」
じっと私を見据えたまま、腕を私に突き付ける。私も同じく彼女に手を伸ばし、それを受け取る。
――手紙?
渡されたのは便箋だった。また手紙だ。しかしそれは最初に私が彼女に渡したものとはまた別の手紙。
なんだ、これは?
本人は現れず、手紙だけで私の行動を導く佳奈恵の真意が全く分からない。これじゃ何かのゲームだ。どうしてこんな回りくどい事をするんだ。
というか、そもそも……。
「佳奈恵は、いないんですか?」
そうだ。私はここに来れば、佳奈恵に直接話を聞けると思ったのだ。だがいざ来てみれば彼女はおらず、変わり果てた母親が対応し、娘からの手紙を受け、また別の手紙を持ってこられる始末だ。答えに行き着く為に、これは全て本当に必要な事なのだろうか。
「むすめはもういない」
途端しゃがれつつ、まるでテープの早送りのような奇妙な彼女の声が答えた。しかし今回ははっきりそこに感情がのっていた。
憎悪。
彼女の表情は崩れない。しかし印象は大きく変わっている。彼女を支えているもの。それがとてつもなく歪で巨大なものであるという事を。
もういない。もういない。モウ、イナイ。
それはつまり――。
彼女は再びぴしゃりと戸を閉めた。今度は二度と開かないだろう。用は済んだ。そう言わんばかりに。
手の中に残った便箋を見つめる。これを残した佳奈恵は、もういない。そして、頭の中に佳奈恵の母が最期に呟いた言葉が残り続けた。
「…………れば」
ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。だが彼女が発した数少ない言葉の中で、一番そこには情念が籠っていた。私の中で、彼女の言葉が勝手に組み立てられていく。
彼女の態度。そして、”娘はもういない”という言葉。
“お前さえ、いなければ”
ほぼ直感的に近い。だが、おそらく間違ってはいない。
私が感じた、彼女からの強烈な憎悪。
それは全て、私に向けられたものだ。




