第二十六話:遠くの王都の崩壊と、変わらない日常 ~自業自得の元婚約者たちより、今日のトマトの収穫です~
王立騎士団の精鋭部隊を森から追い出してから、数週間の時間が流れた。
北の離宮には初夏の暖かさが本格的に訪れており、過ごしやすい日が続いている。
あの騒動の後、王都からは何の音沙汰もなかった。
新たな使者が来ることもなく、報復の兵士が攻めてくることもない。
私たちは念のため警戒を怠らなかったが、周囲の森はいつもの穏やかな静けさを保っていた。
おかげで、私たちはようやく自分たちのペースで、誰にも邪魔されない平穏な日常を取り戻すことができていた。
澄み切った青空から、ぽかぽかとした太陽の光が降り注ぐ午前中のこと。
私は今、大きなガラスの温室の中で土にまみれながら、大きく育った初夏の野菜の収穫作業に汗を流している。
温室の中は、植物たちの青々とした命の匂いに満ちており、深く息を吸い込むだけで体の中の空気が綺麗に浄化されていくような気分になる。
私の目の前には、いつの間にか私の背丈ほどにまで成長したトマトの苗が、ずらりと横一列に並んでいた。
大きな緑色の葉っぱの隙間から、真っ赤に熟した大きなトマトがいくつも顔を覗かせている。
「うわあ、今日もたくさん実っているわね。どれもすごく美味しそう」
私が感嘆の声を上げると、足元で小さな鳴き声がした。
視線を下げると、そこには元気いっぱいに走り回る小さな銀色の毛玉の姿があった。
銀色の子猫は、私が水やりをした後に葉っぱから落ちる水滴を不思議そうに見つめ、短い前足でえいっと捕まえようとしては空振りを繰り返していた。
「こらこら、あまり泥んこにならないでね。後で体を拭くのが大変になるから」
私が優しく声をかけると、銀色の子猫は「ニャン!」と元気よく返事をして、今度は私の足首にじゃれついてきた。
私は子猫の頭を指先で軽くかいてあげてから、手に持った木の籠を地面に置き、一番赤くて大きなトマトに手を伸ばした。
指先で優しく実を包み込み、ヘタの部分を少しひねるようにして摘み取る。
ぷつり、という小気味良い音とともに、ずっしりとした水分の重みが手のひらに伝わってきた。
表面はパンパンに張っていて、顔を近づけると太陽の光をたっぷり浴びた甘くて濃い香りがする。
『姉ちゃん、こっちの赤いのも採っていいかニャ?』
すぐ横から声がして振り向くと、王都から避難してきた茶色のトラ猫が、下の方の枝になっているトマトを前足で指し示していた。
「ええ、お願い。でも、ヘタの周りにまだ少し緑色のところがあるものは、明日まで待ってちょうだいね。完全に赤くなったものだけを籠に入れてもらえるかしら」
『わかったニャ! 赤いお野菜、探すニャ!』
私の足元では、王都から避難してきた猫たちが、こうして毎日収穫のお手伝いをしてくれている。
彼らは器用に牙や前足を使って、下の方に実っているトマトやキュウリの茎を切り離し、私が置いた籠の中に次々と入れていった。
小さな体で一生懸命に働く姿は、とても愛らしくて頼もしい。
彼らもこの北の離宮での生活にすっかり馴染んでおり、今では立派な農作業の助手として活躍してくれている。
少し離れたふかふかの土の上では、いつものように真っ白で大きな毛玉がのんびりと日向ぼっこをしていた。
ハクだ。
彼は温室の中で一番日当たりが良く、風通しもちょうどいい場所を自分の特等席にして、大きないびきをかいて昼寝をしている。
長いしっぽが、すう、はあ、という深い呼吸に合わせてパタパタとゆっくり動いていた。
あの時、前庭で凄まじい威圧を放ち、大勢の騎士団を恐怖で追い散らした伝説の魔獣とは、とても思えないほどのんきで無防備な姿だ。
『ハク様、少し汗をかいておられるようですね。冷たいお水をご用意いたしました』
漆黒の毛並みを持つクロが、どこからか木のお皿にたっぷりと綺麗な水を入れて持ってきて、ハクの顔の前にそっと置いた。
さらにクロは、自分の前足を使って、ハクの背中の毛並みを優しく梳かしてあげている。
本当に、クロはいつでもハクに対して甲斐甲斐しい。
『んん……うむ、ご苦労』
ハクは目を閉じたまま、寝そべった姿勢で器用に水を少しだけ舐め、再び丸くなって深い眠りの世界へと戻っていった。
彼らがそうやってのんびりと過ごしているのを見ていると、私までとても穏やかな気持ちになってくる。
戦いの緊張感など微塵もない、平和そのものの光景だ。
「クロ、いつもハクのお世話をありがとう。あなたも少し休んだらどう? 朝からずっと温室の空気の入れ替えをしてくれていたじゃない」
私が声をかけると、クロは静かにこちらを振り向いた。
『お気遣いありがとうございます、カトリーナ様。ですが、これは執事としての私の喜びでもあります。ハク様が快適にお過ごしになられること、そしてカトリーナ様がこうして楽しそうに土いじりをされているお姿を見ることが、私にとっての何よりの安らぎなのです』
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいわ。今日の夕食は、この採れたてのトマトをたっぷり使って美味しい料理を作るから、楽しみにしていてね。お肉もたくさん入れるつもりよ」
『はい、とても楽しみにしております。カトリーナ様のお料理は、毎日食べても決して飽きることがありませんから。ハク様も、夕食の時間になればすぐに跳ね起きるでしょう』
私たちはそんな他愛のない会話を交わしながら、平和な午前中の時間を過ごしていた。
銀色の子猫はいつの間にか遊び疲れたのか、ハクの白い背中に寄りかかって、一緒にすやすやと眠り始めている。
私が用意した木の籠の中は、あっという間に真っ赤なトマトや、太くて立派なキュウリ、つやつやとした深い紫色のナスでいっぱいになった。
これだけあれば、私たち全員のお腹を十分に満たすことができるだろう。
私が土のついた手を水の入った桶で洗い、収穫した野菜の籠を持ち上げようとした、その時だった。
温室のガラス扉の向こうから、ものすごい勢いで土を蹴り上げて走ってくる小さな影が見えた。
それは、外の森のパトロールを任せていた山猫のリーダーだった。
彼は扉を乱暴に前足で押し開け、ひどく息を切らして温室の中へ飛び込んできた。
『人間の姉ちゃん! 大変だぜ!』
山猫のリーダーは、私の足元でピタリと急ブレーキをかけて止まり、大きく息を吸い込んだ。
「どうしたの? そんなに慌てて。また誰かが森に入ってきたの?」
私は籠を置き、少しだけ身構えた。
もし王都からまた別の部隊が送られてきたのだとしたら、すぐに対策を練らなければならない。
せっかく平和が戻ってきたというのに、また泥沼の嫌がらせをしなければならないのかと、少しだけうんざりした気分になる。
しかし、山猫のリーダーは大きく首を横に振った。
『違う、違うんだ。敵が来たわけじゃない。王都の猫ネットワークから、ものすごい噂が届いたんだよ!』
「王都から……?」
『ああ。すごいことになってるぜ。俺も話を聞いて耳を疑ったくらいだ。とりあえず、みんなを食堂に集めてくれ!』
山猫のただならぬ様子に、私はこくりと頷いた。
騒がしい声を聞きつけて、寝ていたハクも面倒くさそうに起き上がり、何事かとこちらへ歩いてくる。
私たちは急いで野菜の籠を運び、屋敷の食堂へと場所を移すことにした。
◇
食堂の大きなオーク材のテーブルの周りには、私、ハク、クロ、そして山猫のリーダーと避難猫たちがぐるりと集まっていた。
銀色の子猫は私の膝の上に乗って、私のエプロンの紐を前足で器用にいじっている。
みんな、山猫のリーダーの口から語られる情報に真剣な様子で耳を傾けていた。
『……猫ネットワークの噂によれば、王都の連中が自滅したらしい』
山猫のリーダーが、興奮冷めやらぬ声で話し始めた。
その言葉の意味がすぐには飲み込めず、私は首を傾げた。
「自滅って……どういうこと?」
私が尋ねると、山猫のリーダーはニヤリと口の端を上げて説明を続けた。
『この前、俺たちとハクの旦那で追い返した騎士団の連中がいただろ? あいつら、武器も鎧も全部この前庭に捨てて、泥だらけのボロボロの姿で王都に逃げ帰ったんだ』
『ああ、あの無様な連中か。我が少し吠えただけで泣き叫んでいたからな。思い出すだけでも馬鹿馬鹿しい』
ハクがつまらなそうに口を挟む。
『その通りだ。でも、問題はあいつらが王都に戻った後だ。王都の大きな門をくぐった精鋭部隊の悲惨な姿を、大勢の民衆が直接見てしまったんだよ』
「民衆が……」
『ああ。王都の人間たちは、騎士団が恐ろしい北の魔女を討伐しに行くって聞かされていた。国を守るための正義の戦いだってな。でも、帰ってきたのは、丸腰でひどく怯えきっている負け犬の集団だ。しかも、誰一人として怪我をしていない。ただ、何かにひどく怯えきって、正気を失っているような顔をしていたんだ』
あの時、私たちは彼らに一切の物理的な攻撃を与えなかった。
エルフの幻惑魔法で森の中をひたすら迷わせ、クロの泥濘で体力を底まで奪い、山猫たちの遠吠えで夜も眠らせず、最後にハクの威圧で完全に心を折っただけだ。
外傷が一つもないのに、屈強な男たちの精神だけが完全に壊れている姿は、見ている市民たちにとってひどく異様で、気味の悪い光景だったに違いない。
『騎士団長は、人間の王の前で泣き喚きながら報告したらしいぜ。北の森には自分たちの手に負えない恐ろしい魔獣がいる、自分たちは一歩も離宮に近づけなかったってな』
山猫の言葉を聞いて、クロが静かに頷いた。
『当然の結果ですね。あれほどこっぴどくやられたのですから』
『そうなんだよ!これまで、力で圧政を強いてきた王族の騎士団が、武器も持たずに泣いて逃げ帰ってきたんだ。あんな腰抜けの集団だったってことが、民衆に完全にバレちまったんだよ』
私は静かに話を聞きながら、王都で何が起こったのかを頭の中で想像した。
民衆は、ただでさえ重い税金と、アレクセイ様やマリアたちの毎日のような贅沢な暮らしに強い不満を抱いていたはずだ。
そこにきて、莫大な税金を使って送り出したはずの精鋭部隊が、辺境の地から、武器すら捨てて逃げ帰ってきた。
「それで、王都の人たちはどうしたの?」
私が問うと、山猫のリーダーは少し声を落とし、真剣な顔つきになった。
『怒りが爆発したのさ。度重なる圧政に耐えかねていた民衆が、ついに大きな暴動を起こしたんだ。手に農具や棍棒を持って、怒りの声を上げながら王宮を取り囲んだらしい』
「暴動……」
『ああ。王宮の正門はあっという間に打ち破られ、大勢の民衆が中へ雪崩れ込んだ。精鋭部隊の騎士たちも森での行動で完全に戦意を喪失していて、誰も民衆を止められなかった。結果として、あの王宮は完全に陥落したそうだ』
王宮が、陥落した。
その言葉の響きは、あまりにも現実離れしていて、すぐには頭に思い浮かべることすらできなかった。
あんなに頑丈な石造りで、豪華な装飾に彩られ、絶対的な権力の象徴だったあの場所が。
力を持たないはずの民衆の手によって、あっさりと崩れ去ったというのか。
『それで、あの嫌な王子と女はどうなったニャ? 姉ちゃんをいじめてた悪い奴らニャ』
避難猫の一匹が、しっぽをピンと立てて質問した。
『捕まったよ。民衆からすべての責任を問われて、引きずり出された。そして、王族の身分を剥奪されたそうだ』
山猫のリーダーは、とてもスッキリとした顔で答えた。
『これまでの贅沢の数々、それを保つための重税、そして無意味な討伐隊を出して国庫を空っぽにしたこと。それらすべての罪を着せられて、最果ての厳しい辺境へと追放されたって話だ。もう二度と、王都の土を踏むことはできないだろうな』
最果ての辺境への追放。
それは、貴族にとって死に等しい、いや、それ以上に過酷な罰だ。
何もない荒れ地で、自分の力だけで生きていかなければならない。
豪華なドレスを着て、美味しい食事をただ待つだけで与えられ、今まで他人にすべてをやらせて、ぬくぬくと安全な場所で甘い汁を吸っていたあの二人が、そんな過酷な環境で生き延びることができるだろうか。
泥にまみれて働く方法も、火を起こす方法も知らない彼らに待ち受けているのは、想像を絶する苦難の日々だろう。
私は、静かに息を吐き出した。
かつての婚約者だったアレクセイ様。
そして、私を陥れた異母妹のマリア。
彼らがすべてを失い、悲惨な末路をたどったという報告を聞いて、私の心にどのような感情が湧き上がるのか、自分でも少しだけ気になっていた。
私を北の森へ追いやった彼らへの、歓喜だろうか。
それとも、かつて家族や婚約者として過ごした情から来る、ほんの少しの悲しみだろうか。
だが、私の心の中は、驚くほど静かだった。
波一つ立たない水面のように、何の感情も揺れ動かない。
「そう……」
ただ一言、冷ややかで乾いた声が口からこぼれ落ちた。
復讐を成し遂げたという達成感は、全くない。
彼らを哀れむような悲しみも、同情も、微塵も湧いてこない。
ただ、「自業自得ね」という、事実に対する当たり前の感想しか浮かばなかった。
彼らは自分たちの欲望のために嘘をつき、他人を傷つけ、自分を大きく見せることしか考えなかった。
そして、勝手に自滅した。
それだけの話だ。
私にはもう、遠くの地へ追放された彼らのことを考える時間すらもったいなく感じられた。
彼らは私の人生とまったく関係のない、ただの過去の存在になったのだ。
『カトリーナ様、大丈夫ですか? 顔色が少し……』
クロが、少し心配そうな声で私を見上げた。
私は膝の上の銀色の子猫の背中を優しくなでながら、クロに向かって、心からの笑みを向けた。
「ええ、大丈夫よ。何の問題もないわ。むしろ、すごくすっきりしているくらい」
私は椅子から立ち上がり、テーブルの上に置いたままになっていた野菜の籠を引き寄せた。
「そんな終わったことよりも、今日の夕食の準備をしなくちゃ。せっかくこんなに大きくて美味しそうなトマトが採れたんだもの。お肉と一緒に、じっくり煮込み料理にしようと思うの」
私の言葉を聞いて、ハクが勢いよくテーブルの上に立ち上がった。
『おおっ! それは美味そうだな! 肉は多めに入れろよ、カトリーナ。我は今日、とても腹が減っているのだからな。人間の話などどうでもいい、早く飯を作るのだ』
「はいはい、わかっているわよ。ハクのお皿には、一番大きなお肉を入れてあげるわね」
私がそう言うと、ハクは満足そうに鼻を鳴らした。
山猫たちや避難猫たちも、「俺たちも食べるニャ!」「手伝うニャ!」と騒ぎ始める。
「じゃあ、みんなでお手伝いをお願いできるかしら。トマトを綺麗な水で洗って、ヘタを取る作業があるのよ」
『任せておけ! 俺たちの方が早いぜ!』
私たちは連れ立って、賑やかに厨房へと向かった。
外の遠い国で、かつて私を虐げた人間たちがどれほど落ちぶれようと、今の私にはどうでもいいことだ。
私の意識は、すでに目の前の生活に、今日の夕食をどうやって美味しく作るかということに向いている。
厨房に入り、かまどに太い薪をくべて火を入れる。
パチパチとはぜる心地よい音を聞きながら、猫たちが洗ってくれたトマトを包丁で手際よく切り分けていく。
フライパンで豚肉の表面を香ばしく焼き、大きなお鍋に移してから、たっぷりのトマトと一緒にコトコトと煮込む。
時間が経つにつれて、トマトの酸味とお肉の脂が溶け合った、最高に美味しい匂いが部屋中に広がり始めた。
みんなが嬉しそうに鼻をひくひくさせ、まだかまだかと鍋の周りをうろうろしている。
この温かい空間。
美味しい手作りの食事。
そして、私を信頼し、一緒に笑い合えるたくさんの仲間たち。
これ以上の幸福が、世界のどこにあるだろうか。
王都の崩壊という大きな知らせを聞いても、私たちのこの日常は、何一つ変わることはない。
私たちは今日も、明日も、この北の離宮で、自分たちの手で豊かな生活を作り上げていくのだ。
お鍋から立ち上る真っ白な湯気を見つめながら、私はこれから始まる賑やかな夕食の時間を、心から待ち遠しく思っていた。




