第二十四話:迷いの森と、猫ネットワークの真骨頂 ~睡眠不足と精神ダメージでボロボロの騎士団~
みんなを森へ見送った後、私は重い大扉を背にして一つ大きな深呼吸をした。
夜の冷たい空気は、この屋敷にかけられている、クロの土魔法で完全に遮断されているはずなのに、なぜか足元が少しだけスースーとするような気がする。
私以外の頼りになる仲間たちが外に出てしまったことで、屋敷の中がやけに広く感じられた。
広い玄関ホールには、私と銀色の子猫、それに寝箱の上で大あくびをしているハク、そしてお留守番の避難猫たちだけが残されている。
「さて、私たちもやるべきことをやりましょうか」
私が声をかけると、避難猫たちが元気よく返事をした。
『任せておくニャ! 屋敷の隅々まで、ネズミ一匹入れさせないニャ!』
『姉ちゃんは、安心して奥の部屋にいるといいニャ』
彼らはしっぽを高く上げて、それぞれ一階や二階の廊下へとパトロールに向かっていった。
小さな体だけれど、とても頼もしい。
私は彼らの後ろ姿を見送ってから、銀色の子猫を抱いたまま食堂へと戻った。
食堂のテーブルの上には、エルフの青年が森へ行く前に渡してくれた小瓶が置かれている。
中には、うっすらと青い色をした液体が入っていた。
これは『水鏡の魔法薬』と呼ばれるものだ。
エルフたちが普段使っている道具で、これを水に垂らすと、森のあちこちの様子を遠くからでも見ることができるという。
「ハク、これを使ってみるわね」
『ふん、そんなものを見なくても、我の力ならすぐに人間どもを追い払えるものを』
ハクはテーブルに飛び乗り、小瓶を鼻先でつんつんと突いた。
『まあよい。我が直々に出向くべき時かどうか、その水面とやらで確認してやろう』
私は厨房から大きくて平たい木のお皿を持ってきた。
そこに水属性魔法の『ウォータ』で綺麗な水をたっぷりと注ぎ込む。
水面が静かになったのを見計らって、エルフからもらった小瓶のふたを開けた。
ポチョン。
青い液体を一滴、水の中に落とす。
すると、水面が波打ち、次第に別の景色が浮かんできた。
それは、昼間のように明るくはっきりと映し出された、北の森の入り口の様子だった。
「すごい……森の木々がこんなにはっきりと見えるわ」
『音は聞こえないようだな。まあ、状況を把握するだけなら十分か』
水鏡の魔法薬は、どうやら音を伝えることはできないらしい。
それでも、映像はとても鮮明だった。
しばらく水面を見つめていると、森の入り口に、重い鎧を着た人間たちの集団がやってきたのが見えた。
王立騎士団の精鋭部隊だ。
先頭を歩く騎士団長のような男は、大きな剣を腰から下げ、偉そうに部下たちに指示を出している。
彼らは誰もが自信に満ちた顔をしており、これから魔女を討伐して手柄を立てようと意気込んでいるのが、画面越しにもよくわかった。
「ずいぶんたくさんいるのね……百人は軽く超えているかもしれないわ」
『あんな鈍重な鎧を着て森を歩くなど、愚かの極みだな』
ハクが前足をなめながら、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
水面の中の騎士たちは、隊列を組んで森の中へと足を踏み入れた。
最初はスムーズに進んでいた彼らだったが、すぐにその動きがおかしくなった。
エルフの幻惑魔法が発動したのだ。
騎士たちは真っ直ぐ歩いているつもりなのだろうけれど、映像を上から見ている私には、彼らが同じ場所を何度もぐるぐると回っているのがはっきりと見えた。
大きな倒木を乗り越え、息を切らして進んだ先が、また同じ倒木の前だった時の騎士たちの顔。
彼らは何度も地図を見直し、周囲の木を指さして口論のようなことを始めている。
「エルフのみんなの魔法ね。あれじゃあ、一向に前に進めないわ」
『見ろ、今度はクロの仕掛けだぞ』
ハクが前足で水面を指した。
言い争いを終えて再び歩き出した騎士たちの足元が、急に黒い泥の沼のように変わった。
クロの土魔法による泥濘のトラップだ。
重い鎧を着ている騎士たちは、一歩踏み出すたびに足が深く泥に沈み込んでいく。
足を抜こうとしても、泥が絡みついてなかなか抜けない。
無理に引っ張ろうとしてバランスを崩し、泥の中に顔から倒れ込む騎士もいた。
転んだ仲間を助け起こそうとした別の騎士も、足場が悪くて一緒に転がっている。
「あれはひどいわね。重装備であんな泥の中を歩くなんて、少し歩くだけで体力をすごく使いそう」
『当然だ。クロの土魔法はただの泥ではない。底なし沼のように足を引きずり込むからな。あの鎧連中にとっては地獄だろう!』
水面の映像は、夜の暗がりへと変わっていった。
魔法薬の効果なのか、夜でも映像は薄明るく見え、騎士たちの様子がよくわかる。
彼らは疲れ果てた様子で、森の少し開けた場所に座り込み、野営の準備を始めていた。
泥だらけになった鎧を脱ぐ力も残っていないのか、地面にそのまま転がって息を吐いている者も多い。
見張り役の数人が立っているが、彼らも船をこぐように頭を揺らしている。
「騎士たちは、すごく疲れているわね」
私がそうつぶやくと、水面の端の方で、小さな動物がいくつも素早く動くのが見えた。
山猫たちだ。
彼らは木の上や茂みの中から、音もなく騎士たちの野営地に忍び寄っていく。
見張り役の後ろを通り抜け、荷物が置かれている場所へと向かった。
山猫のリーダーが仲間に合図を送ると、彼らは一斉に食料が入った大きな袋に飛びついた。
鋭い爪で袋の布をズタズタに破き、中のパンや干し肉を泥の上に散らかしていく。
さらに、木箱に積まれていた水筒のひもを噛み切り、蓋を器用に開けて、中の水をすべて地面に流してしまった。
「うわぁ……見事な手際ね」
『ふん、あの程度で得意になられても困るがな。我なら一息で食料ごと燃やしてやるのに』
山猫たちは目的を果たすと、すぐさま茂みの中へと姿を隠した。
それからしばらくして、交代の見張りが荷物の異変に気づいたようだ。
彼は大慌てで仲間を叩き起こし、泥まみれの食料と空になった水筒を見て、頭を抱えてしゃがみ込んでいる。
騎士団長がものすごい形相で怒鳴っているのが、口の動きからわかった。
そして、猫たちの嫌がらせはそれだけでは終わらない。
疲れ果てて再び眠ろうとした騎士たちの周囲から、突然、気味の悪い遠吠えが起こった。
山猫たちが、少し離れた安全な場所から、声を合わせて鳴いているのだ。
水面からは音は聞こえないけれど、騎士たちがビクッと飛び起き、慌てて剣を抜いて周囲を見回していることから、どれほど不気味な声が上がっているのかが想像できた。
「眠らせないつもりね……」
一晩中、遠吠えは続いた。
騎士たちは目に見えない敵に怯え、武器を構えたまま一睡もできずに朝を迎えることになった。
物理的な攻撃は一切ないのに、彼らの精神的なダメージはえげつない。
私は、自分がもしあの立場だったらと想像して身をすくませた。
道に迷って泥だらけになり、ご飯も水もなく、さらに一睡もできない。
相手の命を奪うことのない、ただ徹底的に疲労させるためのやり方。
猫たちの恐るべき有能さに感心しつつ、私は少しだけ騎士たちに同情してしまった。
◇
それから数日間、私は屋敷から一歩も出ず、水鏡の魔法薬と、頻繁に戻ってくる山猫の伝令を通じて戦況を把握していた。
『姉ちゃん、奴らの様子はどうだ?』
お留守番をしてくれている避難猫の一匹が、テーブルの上に飛び乗って水面を覗き込む。
「二日目よりも、もっとひどい状態になっているわ。もう、歩くのもやっとみたい」
水面の中の騎士団は、悲惨なことになっていた。
食料と水が尽きているため、彼らの顔はげっそりと痩せこけ、目の下には真っ黒なクマができている。
重い鎧を捨てて身軽になろうとする者もいたが、騎士団長に怒鳴られて無理やり着せ直されていた。
彼らはエルフの幻惑魔法で同じところを歩かされ、クロの土魔法で足を取られ続けている。
もはや隊列を組む余裕もなく、フラフラと歩いているだけだ。
『ざまあみろだニャ! 俺たちを蹴っ飛ばした罰だニャ!』
避難猫がしっぽを振って喜んでいる。
夜になると、山猫たちの嫌がらせがさらに効果を発揮した。
極度の疲労と睡眠不足で、騎士たちは少しの物音でもパニックを起こすようになっていた。
山猫が茂みをカサッと鳴らしただけで、騎士たちは剣を振り回し、味方同士でぶつかって転んでいる。
もう、部隊としての体をなしていなかった。
「誰も怪我をしていないのに、ここまで戦う気力を奪うことができるのね」
私は温かいお茶を飲みながら、水面をじっと見つめた。
この数日間、私は屋敷の掃除をしたり、お留守番の猫たちにご飯を作ったり、とても平和な時間を過ごしている。
一方、森の中の人間たちは地獄のような苦しみを味わっている。
この差を思うと、エルフと魔獣たちの力の恐ろしさを改めて実感させられる。
『おい、カトリーナ。今日の昼飯はまだか。我が腹を空かせているのがわからないのか』
ハクが私の膝の上に飛び乗り、前足で私のお腹をぽんぽんと叩いた。
「もう、ハクはいつもお腹を空かせているのね。今、お肉を焼いているところだから、もう少し待ってちょうだい」
『うむ、大きく焼くのだぞ。我は最強の王なのだからな』
この大事件の最中にあっても、ハクのマイペースさは全く変わらない。
彼のこの堂々とした態度のおかげで、私も変に緊張することなく過ごせているのは事実だ。
◇
そして、騎士団が森に入ってから数日目のことだった。
水鏡の魔法薬の映像に、変化が現れた。
エルフの幻惑魔法の範囲をどうにかして抜け出したのか、ボロボロになった騎士団の先頭が、この屋敷へと続く獣道へとたどり着いたのだ。
彼らの数は、森に入った時よりも少し減っているように見えた。
途中で動けなくなり、森の中に置いていかれた者もいるのだろう。
「ついに、抜けてきたわね」
私がつぶやくと、ハクも水面を覗き込んだ。
『ふん、ずいぶんと時間がかかったものだ。それに、あの無様な姿を見ろ。あれが精鋭部隊だというのだから笑えるな』
水面の中の騎士たちは、泥だらけで、足を引きずりながら歩いていた。
剣を杖のようについて、なんとか立っている者もいる。
数日間の森での足止めと、飢えと渇き、そして極度の睡眠不足により、騎士団の士気はすっかり崩壊していた。
彼らがようやく見つけた森の出口の先には、私たちが暮らす北の離宮の大きな門がある。
「みんなが頑張ってくれたおかげで、相手はもう戦う力なんて残っていないわ。でも、ここからが最後の仕上げね」
私は立ち上がり、深呼吸をした。
ここまで相手を追い詰めたのだから、あとは彼らに二度とここへ来ようと思わせないくらいに心を折って、追い返すだけだ。
『カトリーナ、我も行くぞ。あいつらに真の絶望というものを教えてやらねばならんからな』
ハクがテーブルからひらりと飛び降り、扉の方へと歩き出す。
「お留守番のみんな、屋敷の中はお願いね」
『任せておくニャ! 姉ちゃんも気をつけてニャ!』
避難猫たちに留守を頼み、私はハクと一緒に玄関ホールへと向かった。
最終防衛ラインには、クロがすでに立っているはずだ。
重い大扉の前に立ち、私は両手でしっかりと取っ手を握った。
外の様子はどうなっているだろうか。
私が力を入れて大扉を開けると、そこには冷たい風と、緊迫した空気が待ち受けていた。
いよいよ、決戦の時だ。
私は背筋を伸ばし、ハクとともに、私たちの離宮を守るための最後の戦いへと足を踏み出した。




