009 追われる茜、木崎家へ
「あの姉さん、ちょっといいですか?」
「ん? どうしたんだ?」
夜の事だった。
部屋で鈴に声をかけられ茜は振り返った。
「最近、姉さん機嫌がよさそうですけど、何かあったんですか?」
「え、分かるのか?」
「はい。分かりますとも。私がここまで近づいている事にも気づかないほど浮かれていますもの」
「そ、そうか。それはある意味危険だな。気を付けるよ」
「そうですね」
何気ない笑顔の鈴はその後、一変する。
「と言っても、もう遅いですが!」
鈴は茜の胸元に飛び突き、刃物を指し込もうとした。
だが、茜はすんでのところで、交わす。
そして、鈴の腕を握りつぶす勢いで強く握り、刃物を落とさせる。
「いったい、これはどういうことだい? 鈴」
「いっ!」
鈴は苦痛に顔をゆがませて、答えた。
「姉さんは〈刹鬼〉から疑われています。あなたが恋人と会うところを私は見ました。私はそれをお上に伝え、お上はあなたを殺すよう私に命じました」
「そんな……私は……」
「なぜです。姉さん。どうして〈刹鬼〉を裏切ったんですか?」
「私は好きになった者ができたが、〈刹鬼〉を裏切った覚えはないぞ!」
「ではなぜ、裁き人なんかと会っているんですか?」
「それは……」
「あの方は、裁き人。〈刹鬼〉とは相反する存在。それを知っていながらなぜあの男と会うのですか?」
物凄い剣幕の鈴に茜はこう答えるしかできなかった。
「鈴、世の中にはどうすることもできない気持ちがあるんだ。それがたとえ無謀なのだとしてもつい相手の事が気になってしまう相手がいるんだ。それが納柴枝だった」
そこで茜は手を離す。
「私には分かりませんよ!」
鈴は茜に再び襲い掛かる。
「鈴、ごめんな」
茜はそんな鈴を軽くあしらい、首の後ろを叩き気絶させた。
そして〈刹鬼〉を出て、夜の道を出る。
追手が迫ってきていた。
後ろから多数の刃物が投げられた。
その一部が茜の腕をかすめた。
「つっ!」
追手に追いつかれそうになった茜は仕方なく森へ入る。
深夜に轟く、獣の唸り声を聞き茜は親を殺されたあの日の恐怖を思い出した。
命からがら逃げた森の中。
私は獣に追いかけられた。
そして運よく助かった。
あの時の事は鮮明に残っている。
あの時の恐怖がまだ体にしみ込んでいる。
体が震える。
「おさまれ、おさまれ!」
刃物を持つ手がおぼつかない。
まるで自分の手じゃないみたいにいう事を聞いてくれない。
納柴枝、納柴枝!
茜はここに決して来てくれないだろう彼の名前を心の中で呼んだ。
血が流れ出る腕、その血の匂いを探るように獣たちはくるくると茜の周りを漂う。
そして、震えとともに獣が襲いかかる時、
「茜!」
納紫枝は茜の前に現れた。
そして、獣を刀で切り裂いていく。
納柴枝に助けられ茜は安堵した。
「なぜ、お前がここに?」
「それはね。虫の知らせとは言うけど、私の場合は【化け物】の知らせかな」
「【化け物】がお前をここに導いてくれたのか?」
「うん、きらきら光る蝶がね。教えてくれたんだ。君が殺されかけているって。追われているって。さっきも桜の場所で誰かにつけられていたみたいだから心配になったんだ」
「ちょっと待て、なんで、そんなことまで知っているんだ」
「私は君の全てを知っているよ。君が殺しをしていることも知っている」
「じゃあ、お前は私を裁くためにやってきたのか?」
茜は納柴枝を警戒して見やった。
すると、納柴枝は、
「まさか、そんなことするはずがない。茜は私の大切な女だからね」
「そうなのか?」
「それに言ったでしょ。君が何者でもいい。私は今の君が気に入っている」
お互いの素性が明らかになった後も自分を受け入れてくれた納柴枝。
茜は嬉しくなった。
こうして、しばらく納柴枝の家でお世話になることになった茜は木崎家へやってきた。
納柴枝は玄関前でいう。
「ただいま、帰りました」
すると、奥の間から出てきたのは、長い髪に寝服をきた男と、付き人らしき男であった。
「ああ、おろかなる納柴枝よ。こんな遅くにまで出歩いていたのか? 危ないであろう。例えお前が強かろうとも、もしもの事があったらどうする」
「大丈夫だよ、私は強いからね」
「はあ、おろかなる納柴枝よ。お父様とお母さまがお前が帰ってこないことを心配してどんなに胸を痛めていたと思っているのだ。少しは、ん?……お前、後ろに何を隠している?」
話していた相手は、こちらに気づいたようで、納柴枝の後ろに身を寄せるようにして身を隠していた茜はそっと間に出る。
「私は茜と申します。夜分遅くにすみません。どうかしばらく泊めていただけないでしょうか」
「そういう事で、この子は茜っていうんだ。兄さま。私からもお願いするよ。どうか茜を止めてやってほしい」
「納柴枝よ。お前は恋人をうちに招きたいのであれば朝にしなさい。お前もそういう年だがことには順序が……」
「兄さま、茜は追われる身であります。どうか逃げ場としてこの我が家を貸してやってほしいのです」
「……そういうことか。追われるとはまた物騒なことだ。いったい何をやらかした」
「それは、言えませぬ……」
茜はそう言った。
「何か事情があるのだな。まあ、いい。そんなに緊張しなくてもよいぞ。納柴枝お前に免じてこの娘をうちでしばらく預からせてもらおう」
「本当に、兄さま。ありがとうございます」
納柴枝がそう礼をした後、納柴枝の兄は茜に向けて言う。
「茜といったな」
「はい」
「私は羊泉と申す。そなたをここで預かるにあたって、もし追手がここまで出向いた時には、私たちはそなたを見捨てる。それでいいか?」
「はい。それで構いません」
「そうか。なら、いつまでもそんな場所で突っ立っているのもなんだ。中へ入るがよい」
「はい、ありがとうございます」
茜と納柴枝は中へと入り、玄関の戸を閉めた。
羊泉は付き人の男に言った。
「佐丸、寝床の準備をしてくれ」
「はい、任せといてください、羊泉さま。早くとしたくしますよー」
そう言って、佐丸と呼ばれた付き人は廊下の奥へと消えていく。
茜はこうして、寝床に付き明日の事を考えた。
〈刹鬼〉の事を考えた。
自分は追われる身、納柴枝の事が知られている以上、この場所にもいつかは追ってくることは分かりきっていた。
もしそうなれば……
一瞬、茜は父と母が亡くなった光景を思い浮かべた。
もしそうなれば、納柴枝が死んでしまうんじゃないかと考えた。
その時は……
「逃げるか、戦うか……」
茜は呟いた。
そして、深い眠りへ次第に落ちていった。
茜は朝、ある違和感に気づき目覚めた。
「納柴枝……」
なぜか納柴枝が自分の横で寝ていたのだ。
「おい、起きろ、納柴枝。お前はいったい何をしている……」
茜は小さく納柴枝の体を揺さぶる。
「ん……ん? あれ、茜私の寝床で何しているの?」
「それはこっちの台詞だ。なぜおまえが私の寝床にいる」
「あ、そうだった。昨日私は君の様子が気になって、こっそり忍び込んだんだった」
「お前、私を襲うつもりだったのか? それは」
茜は挑発的に笑みを返した。
それに納柴枝がどんな態度をとるのか興味を持った。
そして茜は、納柴枝の頬に触れる。
「まさか、大切な君に了解も得ずそんなことするはずがないだろ」
「そう言われるといろいろ複雑になるんだが、女として」
「あはは、ごめんよ。昨日、君はうなされていたんだ」
「本当か? 夢なんか見た記憶がなかったんだが」
「君は知らずに不安を抱え込んでいるんじゃないかな」
「不安がないわけでもない。追われている身だしな」
「そうか」
この後、納柴枝は立ち上がり、
「朝ご飯がいつごろできるか見てくるよ」
そう言って出て行く。
茜は言取りになり考えた。
自分は考え過ぎていたのかもしれないと。
納柴枝は強い。
簡単にはやられなどしないだろう。
むしろ、私の前にたち守ってくれそうな勢いだ。
「守られてばかりではいかんぞ、私」
一瞬でもそんな甘い光景を浮かべてしまった自分に茜は気を引き締めるように顔を叩いた。
「何しているの、茜?」
戸を開けた納柴枝はそっとこちらを伺っている。
「いや、何でもない」
「そう? ご飯もうできたから、おいで茜」
「分かった」
茜は食事をするところへと案内された。
そこにはたくさんの人が並んで座っていて、そこで、茜はある人物を見つけてしまう。
それは、噂で〈刹鬼〉から逃げ出したという、お上の一番の腕と呼ばれた人物。
「やあ、久しぶりやね、茜」
「桔梗姉さん……」
そこには前の方で羊泉の隣に腰かけている桔梗の姿があった。
一瞬茜は追手がもう忍び込んできたのかと錯覚したがその考えはすぐに捨てた。
「赤毛の少女が来たって聞いたから、もしかしてとは思ったけど本当に茜がここにいるとはね。驚いたよ」
「なんで〈刹鬼〉を追われていたあなたがここに?」
「その話はあとここではしないでおくれ」
一瞬の殺気が茜へと向けられる。
僅かなもののそれを感じられたのはたぶん、自分と納柴枝くらいだろう。
納柴枝を見ると、相変わらずの涼しげな顔で微笑を浮かべていた。
「……はあ」
「でも、これだけは話せるよ。私は今このお方の妻です」
そう言って桔梗は、横に座っている羊泉へと手を伸ばし、腕を掴む。
「こら、人前ですよ。桔梗」
「分かっていますとも、羊泉さま」
「さあ、茜どの、ご飯を召し上がってください」
佐丸と呼ばれた男が言ってくる。
「はい」
茜は食事をいただいた。
「あなた桔梗さんの知り合いだったんですね。道理で雰囲気が似ているはずですね。やっぱりあなたも〈刹季〉で働いていたんですか?」
「ええ、まあ……」
どうやら、桔梗は〈刹鬼〉ではなく〈刹季〉の方で働いていたことになっているようで、茜もそれに話を合わせようと思った。
朝食を済ませた後、茜は桔梗と二人きりで話した。
「桔梗姉さん、実は私……」
「〈刹鬼〉から追われているんでしょう。今日羊泉さまから聞いたわ。あなたは追われている身だって。私と同じだって」
「桔梗姉さんはいつからここにいるんですか?」
「二十くらいの頃、私は一番だった。だからもう〈刹鬼〉にいるのにも飽き飽きしていた。だから軽い気持ちで抜け出した。それがいけなかったわ。どんなに強くても、味方のいない戦いでは負けてしまう。いつか力尽きてしまうの。追っては幾度となく私を襲った」
桔梗は思い出すようにして、続けた。
「敵との交戦で深手を負った私は羊泉の家の前に倒れ込んだ。そして羊泉に助けられ羊泉の妻になった。私はこれまでにないくらい幸せになったわ。彼に恋をしたんですもの」
さらりと出るそんな言葉を聞き、茜もその気持ちがよく分かってしまったのであった。
「そうだったんですね。桔梗さんの気持ちは本物だったんですね」
「だから……」
桔梗は茜を真剣な目で見ると、こう言った。
「私がやっとつかんだ幸せを壊さないで茜。どうかすぐこの家を出て行って。お前がいるとその幸せが奪われそうで、私は怖い」
これが、かつて私が一度でも恐怖を感じた女の姿なのだろうか?
昔は怖くて近づけないほど上にいた圧倒的な力の持ち主。
やはり彼女も鬼になりきれない人間なんだ。
茜はそう思った。
「分かりました。傷が癒えたらすぐ出て行きます」