第12話 平成元年、早すぎた遅刻
「じゃ、行ってきます!」
慎太は門を出ていく。
「九時半開始だから、まだ早いんじゃないの?」
縁側から見送る母が、時計の針をチラリと見て声をかける。文字盤は、八時半を回ったところを指していた。
「いや、初参加だからさ。早めに着いて準備しとくよ」
慎太が出ていき、家の中に朝の静けさが戻る。
居間では、起きてきたばかりの父が朝刊を広げていた。湯呑みから上がる湯気の向こうで、父がふと顔を上げる。
「慎太のやつ、ずいぶんゆっくり出たな。ソフトボールは八時半開始じゃなかったか?」
「え? ……そう? 会長さんから電話があって、九時半ってカレンダーに……あ!」
母は慌てて、居間の黒電話の上に吊るしたカレンダーを覗き込んだ。乱雑に書きなぐられたメモ。
「やだ、私……八時半を、九時半って読み間違えてた!」
「またか! お前、だから数字は丁寧に書けって言ったんだ。……これ、9の書き出しがくっついてて、8にしか見えねえだろ」
「どうしよう、慎太に悪いことしちゃった。あそこのコーチ厳しいし、怒られるかも……」
「今更しゃあんめえ。……まあ、最近の慎太は妙に肝が据わってるし、なんとかなるだろ。あとで謝っとけよ」
「うん……」
母はバツが悪そうに、冷めかけた味噌汁を啜った。
初夏の陽気がアスファルトを熱し始めていた。背後からチリンと小気味いいベルの音が響いた。
ナショナル製、真っ赤なフレームの自転車に乗った女子が、速度を緩めて隣に並ぶ。同じクラスの学級委員、佐々木真佐奈だ。
「慎太くん!」
「おはよう」
前世の記憶では接点が薄かったはずだが、今世の彼女は時折、声をかけてくる。
「珍しいね、ソフトボールのユニフォームなんて着てるの」
「ああ、練習に行ったことないからな。これも初めて着た」
俺が答えると、真佐奈は不思議そうに目を丸くした。
「え? そうなの? あれって全員強制参加じゃなかったっけ?」
「いや、法律で決まってるわけじゃないし、出欠が通知表に響くわけでもない。子ども会もPTAも、本来は希望制のはずだぞ」
「そうなんだ……よく知ってるね」
真佐奈は感心したように頷く。
そうだ。インターネットもスマホもないこの時代、大人が「当たり前」と言えば、子どもはそれを疑う術を持たなかった。世の中は、曖昧な口コミと思い込みで動いていた。
「まあ、たまたま知ってただけだ」
真佐奈は自転車を降り、ペダルを足に当てないよう慎重に手押ししながら、慎太の歩調に合わせた。
「ねえ、ついて行ってもいい?」
「え? 真佐奈も用があるんじゃないのか?」
「うん、女子のポートボールの練習だよ。でも、これも本来は希望制なんでしょ?」
いたずらっぽく笑う真佐奈を見て、内心で苦笑した。
こいつ、結構したたかなタイプだな。
前世でも今世でも「先生に気に入られる優等生」というイメージで敬遠していたが、意外な一面を見た気がした。
「ついてくるのは勝手だけどさ、……つまらないことになりそうだぞ」
「……どうなるの?」
「なんとなくの予感だ」
「……男子ソフト、荒れてるのと関係してる?」
不意を突かれ、足が止まった。
「知ってたのか?」
「六年生が怖いとか、コーチが怒鳴るとか。友だちの弟が泣いて帰ってきたって聞いたよ」
「ああ、そこに行く。……来なくていいんだぞ?」
「行くわ。……ドッジボールのときみたいに、なにかやってくれるんでしょ?」
重なる驚きに、俺は顔をしかめた。
「お前、あれ見てたの? てか、前も同じクラスだったっけ?」
「ひどーい! 三年のときからずっと一緒じゃん!」
「いや、あれは俺の……黒歴史だから」
「なに? クロレキシって?」
しまった。この時代、そんな言葉はまだ存在しない。
「いや、まあ……俺、浮いてたろ? 忘れてくれ」
「ううん、かっこよか……じゃなくて! ほら、私も見えてたの! 福島くんがボールちゃんと避けてたの! でも、みんなに……先生にまで当たったって責められてたでしょ? 私、怖くて本当のこと言えなかったのに、慎太くんだけが……」
捲し立てる真佐奈の早口を、慎太は片手で制した。
「わかった、わかった。じゃあ、好きにしろよ」
「う、うん。……でもさ、これ、完全に遅刻だけど……狙ってる?」
「いや、三十分早く着く計算だ。九時半開始だからな」
真佐奈の顔に、同情の色が浮かんだ。
「……違うよ。男子ソフトは毎週八時半。もう練習、始まってると思うよ……」
心臓がドクリと跳ねた。
脳裏に、あの読みづらい母のメモが鮮明に浮かび上がる。
母さん……またやってくれたな!
「悪い! 先に行く!」
「ちょ! 待って、私の方が自転車だから、ついていけ……」
真佐奈が呼びかけるより早く、慎太は地面を蹴った。
砂埃を上げ、はるか先を全力疾走していくユニフォーム姿の背中。
「う……嘘……。なに、あの速さ……?」




