前倒し
続き。福岡で決められた建国日は、まだ紙の上にしか存在しなかった。だが南半球の炎上は、その紙切れに、ようやく国家の匂いを与え始めていた。日本・韓国・中華民国の接近は、この時点ではまだ理想や友愛によって進んだのではない。もっと鈍く、もっと卑しいものによって進んだ。恐怖と計算と、そして、単独では生き残れないかもしれないという認識によってである。
四谷賢一は、構想が正しかったと考えたわけではなかった。
正しいかどうかは、彼にとって昔から二義的な問題だった。重要なのは、現実が自分の構想に追いつき始めているかどうかである。南半球の崩壊と米英の敗北は、その意味で、彼にひとつの確信を与えた。世界はもはや単独の国家が単独の国家として延命できる段階にない。日本という形のままでは遅い。韓国も、台湾も、それぞれ単体ではいずれ押し流される。押し流される前に、より大きな政治単位へ再編しなければならない。これまでなら狂信としか見えなかったその発想が、いまや軍事計画と経済計画と外交文書の中へ、自然な顔をして入り込み始めていた。
彼は執務机の上に、三種類の地図を並べさせた。
ひとつは軍事地図だった。対馬海峡、東シナ海、南西諸島、台湾海峡、黄海、朝鮮半島南岸、各航空基地、各港湾、レーダーサイト、弾薬集積地、造船所。
ひとつは産業地図だった。半導体、造船、鉄鋼、工作機械、石油精製、バッテリー、港湾コンテナ処理能力。
もうひとつは人口地図だった。若年層の分布、失業率、兵役適齢人口、理工系人材の偏在、都市圏の消費電力。
この三つを重ねると、国境の意味が薄く見えた。
日本の工業力だけでは足りない。韓国の動員だけでも足りない。台湾の技術だけでも足りない。だが三つをひとつの戦略単位として扱えば、話は変わる。海を持ち、工業を持ち、技術を持ち、人口を持ち、しかも世界秩序の崩壊に対して共通の恐怖を持つ。思想の純度はばらばらでよかった。まず必要なのは、同じ地図を見て同じ結論へ到達することだった。
「もはや統一は理想ではない」
四谷は、秘密会議の席でそう言った。
「遅延した動員概念だ。これまで諸国は、主権を保つことで自立できると思い込んできた。逆だ。いまや主権を小さく握りしめている国から死ぬ。国家規模が、そのまま防衛可能性と産業持続性に直結する段階へ入った」
それは、以前なら過激な演説として処理されたはずの言葉だった。だが、部屋にいた将校も文官も、誰一人として笑わなかった。南半球の戦争が、その笑いを先に殺していたからである。オーストラリアは海に囲まれていた。南アフリカには鉱物があった。アルゼンチンには穀倉があった。それでも足りなかった。ならば日本列島の狭さ、韓国の脆い後背、台湾の孤立は、もはや説明するまでもなく死角ではなく死因だった。
韓国側の変化は、まず軍から始まった。
維新軍政府の若手将校たちは、ユギオ動乱の段階ではなお、自分たちが韓国を救うと信じていた。国を若返らせ、腐敗した旧政治を打ち倒し、受験と就職と住宅ローンと兵役で磨耗した世代へ新しい神話を与える。そういう熱があった。日本との提携も、その神話を支える外部条件の一つにすぎなかった。日本は便利な後ろ盾であり、四谷は有能だが危険な先達であり、距離を取りつつ利用すべき相手だった。
その距離が、四月以後、目に見えて縮んだ。
縮んだのは感情の上で親日化したからではない。そんな単純な話ではなかった。彼らは依然として日本を完全には信用していなかったし、歴史の記憶も消えていない。だが、信頼などなくても接近は起こる。むしろ互いに疑っている相手同士のほうが、共通の外敵の前では計算高く近づくことがある。
ソウルの地下会議室では、海軍と空軍の幹部が、南半球の損害分析を何度も見直していた。
「米軍の洋上補給線がこれほど容易に乱されるなら、我々の輸入は一週間で詰まる」
「海上護衛だけの問題ではない。港湾処理そのものが止まる。保険が跳ね、民間船が逃げる」
「国内動員で耐えられる期間は」
「月単位ではなく日単位で考えるべきだ」
そこへ日本側が持ち込んだ試算は、さらに嫌な現実を突きつけた。韓国単独では、燃料備蓄も、長期戦用の弾薬生産も、海上封鎖への対応も足りない。だが日本の精製能力、九州の補給拠点、対馬海峡の共同哨戒、造船・整備の分担、通信規格の共通化を前提にすれば、生存可能性は一気に変わる。つまり韓国軍は、韓国国家だけを守るつもりで戦うより、日本を含めたより大きな戦略圏の一部として動くほうが合理的だという結論へ、嫌でも追い込まれていった。
その結論は、将校たちの自尊心を傷つけた。
だからこそ効いた。
自尊心を傷つけられた人間は、しばしば怒る代わりに、それを新しい誇りへ変換しようとする。維新軍政府は、そこを巧妙に利用した。日本への接近を屈従とは呼ばない。東アジア再編の主導的参加と呼ぶ。日韓共同防衛ではなく、新秩序建設の先導国家群と呼ぶ。言葉は変わったが、実態はもっと露骨だった。港湾の共同利用、対潜哨戒圏の調整、共同士官課程の拡大、軍需品規格の擦り合わせ、暗号表の暫定共通化。国家が近づくとき、まず詩ではなく書式が共通になる。
台湾側の接近は、もっと静かで、もっと深かった。
台北は最初から海で生きるしかない場所だった。だから彼らは、南半球の戦争が単なる遠方の戦況ではなく、海上秩序の再編そのものであることを理解するのが早かった。米英が海を当然のように支配し続ける時代は終わるかもしれない。そのとき台湾は、単独で海を守れない。ではどこへ寄るか。答えはほとんど自動的に出た。日本である。
改新政府の会議では、感情より先に数字が出た。港湾能力、造船ドック、航空優勢半径、対艦ミサイルの射界、半導体供給網、非常時の技術者避難計画。台湾が日本へ差し出せるものは多かった。先端技術、電子戦補完、人材、そして何より、中国本土を睨む前方の位置である。逆に日本から得るべきものも明白だった。後背地、艦隊、石油精製、食料備蓄、長期戦用の厚み。互いにないものを互いが持っていた。
改新政府のある高官は、密室でこう言った。
「我々は長く、米国の傘へ潜ることで国家を維持してきた。だが傘の布地そのものが裂け始めている。裂けた傘の下へ残るのは忠誠ではない。濡れ鼠だ」
そこで台湾は、日本への接近を、思想的にも正当化し始めた。孫文の革命は中国全体を想定していたが、現実の中国は既に革命の正統を失っている。ならば新しい革命的中心は、台湾単独ではなく、東アジアの反共・反欧米・反既成文明的再編の中にこそある――そういう理屈が、官製思想の中へ少しずつ混ぜ込まれていった。これは後の第二ソ連を先取りする議論だが、この段階ではまだ名称がなかった。ただ、台湾の支配層が「日本へ寄るのは必要悪ではなく、むしろ自分たちこそが新秩序の共同創設者である」という物語を必要としていたことだけは確かだった。
四谷は、その変化をよく見ていた。
彼は韓国も台湾も信用していなかった。信用する必要も感じていなかった。国家間の接近とは、心が近づくことではない。依存の形が編み直されることだ。韓国は日本の工業と海上後背へ依存し始め、台湾は日本の防衛厚みへ依存し始める。だが同時に、日本も韓国の動員力と台湾の技術へ依存し始める。その相互依存が、やがて政治的統合を「思想」ではなく「事務」に変える。そこまで行けば勝ちだと四谷は考えていた。人は理念には反抗するが、日常化した事務には意外と逆らえない。
だから彼は、壮大な宣言より前に、退屈な統合を命じた。
合同参謀研究会。
共通兵站計画室。
対EDF分析班。
東アジア航路監視委員会。
三国合同士官交流課程。
非常時産業配分試算。
港湾優先使用に関する秘密覚書。
通信規格統一のための技術折衝。
どれも新聞の見出しにはならない。だが国家を作るのは、たいていそういうつまらない部屋である。四谷は革命家であると同時に、そういう退屈さの価値をよく知っていた。レーニン=孫文主義がただの妄想に終わらないためには、激情より先に書類が必要だった。
日本国内でも、空気は変わり始めていた。
福岡での統一会議までは、多くの人間が東アジア再編を、四谷の誇大妄想に脚色された政治演出だと思っていた。やろうとしていることの規模は大きい。だが現実にそこまで行くはずがない。せいぜい対韓・対台の緩い軍事同盟か、経済協定の拡張で終わる。そう高を括る者は少なくなかった。ところが南半球の戦争は、その高笑いを止めた。オーストラリアすら崩れる世界で、日本が単独で主権を抱えたまま平穏に生き残れると思う者は、軍にも官僚機構にも、以前ほどいなくなった。
新聞はまだ慎重な言い方をしていた。
識者はまだ「拙速な統合には注意が必要だ」と書いていた。
だが防衛・通商・海運・エネルギーの実務線では、もう別の答えが半ば共有されていた。
大きくならなければ死ぬ。
その単純で、あまりにも野蛮な論理が、徐々に、しかし確実に真実味を持ち始めていた。
四谷の構想は、もはや将校の妄言ではなかった。
まだ国家ではない。
まだ国旗も国号も制度も完成していない。
だが日本と韓国と台湾は、互いの港と工場と基地と人材を、少しずつ自国の延長として計算し始めていた。
国家は、成立宣言の日に生まれるとは限らない。
しばしばその前に、他人の地図を自分の地図として見始めたとき、もう半分は生まれている。
南半球の炎は、東アジアにその視力を与えた。




