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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第一章 発火
3/69

幸福な少年

 三角(みかど)京太郎(きょうたろう)は、自分が幸福であることを、ほとんど認識していなかった。


 認識していないというのは、謙虚だという意味ではない。むしろ逆だ。彼にとって、恵まれている状態は空気と同じで、常にそこにあり、あるからこそ意識されない。家は裕福で、両親は過干渉でも放任でもなく、学校はそれなりに名門で、顔立ちは良く、頭も悪くない。スポーツもそこそこできたし、女の子に嫌われることもなかった。友人関係で致命的に失敗した経験もなければ、金に困ったこともなく、進路について「現実的に無理だ」と言われたこともない。


 人生とは、だいたいこのくらいのものだろう。彼はそう思っていた。本気でそう思っていた。


 高校の帰り道、京太郎は友人たちとカフェにいた。制服のまま、アイスコーヒーを飲み、進路の話をし、誰それが可愛いだの、担任がだるいだの、そんな話をしていた。窓際の席には西日が差し込み、店内には軽い洋楽が流れている。店員は笑顔で、机は清潔で、飲み物は冷えていて、外はまだ明るい。若者が、自分の若さが失われる前提をまだ実感しないまま過ごしている空間だった。


「で、お前結局どこ受けんの」


 友人の一人が言った。


「まだ迷ってる」と京太郎は答えた。「法でもいいし、経済でもいいし」

「迷えるのすごいな。こっちは学部で迷ってる場合じゃないんだが」

「別にそんな大したことじゃないよ」


 彼は本気でそう思っていた。学歴というものが、ある一線を越えると、選択肢の幅そのものになることを、彼は肌では理解していなかった。

 もう一人の友人が口を挟んだ。


「お前さ、その“別に”ってやつ、結構腹立つからな」

「なんで」

「選べる側の人間が、それを普通みたいに言うからだよ」


 窓の外では、署名活動をしている学生たちがいた。プラカードには、「学費値上げ反対」「雇用の安定を」と書いてある。ひとりが拡声器を持ち、熱心に訴えていた。だが、通行人の反応は薄い。視線を向ける者はいても、立ち止まる者は少ない。


「まだああいうのやってるんだな」と友人が笑った。

「暇なんじゃない?」別の友人が言った。

「意味あるの、あれ」

「ないでしょ」


 京太郎も、曖昧に笑った。


「あいつら、大学生でしょ。就活で忙しくないのかな」

「そういうのやるやつって、就活しないで済むやつじゃない?」


 意味があるのかないのか、彼には分からなかった。分からないというより、分かる必要がなかった。自分の生活圏の外で起きている政治や運動や思想というものは、遠い場所の天気予報に少し似ている。知っていてもいいが、知らなくても大勢に影響はない。


 その認識自体が一つの()()であることを、彼は知らない。


 店を出た後、駅前の広場で、ひとりの若い女と目が合った。黒いコートを着て、資料を配っている。志門杏里だった。


「すみません、少しだけいいですか」


 志門に声をかけられて、京太郎は反射的に足を止めた。何という事はない。彼女の顔立ちが整っていたからである。人間の判断のかなりの部分は、思想ではなく視線の快不快に左右される。


「なんですか?」


 志門は、彼の顔を一目見て、どういう種類の人間かをだいたい把握した。育ちがよく、露悪的ではなく、自分を悪人だとは思っていない。だからこそ、自分が立っている場所を構造として見ない。こういう手合いは、この社会の典型的な維持装置である。自覚的な搾取者より厄介な場合が多い。


「この国って、公平だと思います?」


 唐突な問いだった。

 京太郎は少し笑った。


「難しい質問ですね」

「簡単ですよ。公平だと思うか、思わないか」

「いや、まあ、完璧に公平ではないんじゃないですか」

「じゃあ、不公平なんですね」

「そういう極端な話じゃなくて」


 志門は資料を差し出した。

 若年雇用、奨学金、住宅費、投票率、非正規率、出生率。数字が並び、簡潔な文章で「構造的搾取」と書いてある。


「あなたみたいな人って、たぶん善意はあるんですよ」

「は?」

「別に嫌味じゃないです。あからさまな活動家に話しかけられて足を止める時点で十分。あなたの高校は制服でわかる。恵まれた環境で育って、こういう活動は暇な奴がやってる無意味なことだと思ってる。そうでしょう」

「会ったばっかりで失礼ですね」

「そういうことを言える余裕があるのが、あなたの立場の証拠なんです」


 京太郎は、少しむっとした。

 だが同時に、完全には反論しきれない種類の苛立ちでもあった。自分が何か悪いことをしたわけではない。むしろ真面目に生きてきたつもりだ。なのに、目の前の女は、彼個人を糾弾しているようでいて、糾弾していないふりをする。


「じゃあ、俺が何か悪いことしたっていうんですか」

「個人として? 別に何も」

「ならいいじゃないですか」

「よくないの。あなたみたいな人が『自分は悪くない』で済ませてきた結果が今なんだから」


 京太郎は言葉に詰まった。腹が立つ。だが、どこに腹を立てればいいのかが定まらない。彼女は「お前は加害者だ」と言っているわけではない。言っていないのに、聞いているこちらにはそう響くように作っている。


 志門はそう言ってから、わざと少しだけ口元を緩めた。


「もっとも、あなた個人を責めても仕方ない。責めるべきは構造よ」


 その言い方に、京太郎は余計に腹が立った。

 個人を責めていないと言いながら、個人を不快にさせる言葉の選び方だった。


「そういうの、逆効果ですよ」

「かもね。でも、あなたはいま、私のこと少しは考えてるでしょう」

「変な人だなとは思ってます」

「それで十分」


 志門は紙を渡し、次の通行人へ向かった。


 京太郎は、しばらくその場に立っていた。

 手元の紙には、数行のスローガンが並んでいる。


 予定された人生を拒否せよ。

 失敗を個人の責任として受け入れるな。

 未来を予定表から奪還せよ。


 大袈裟だ。

 そう思った。


 しかし、妙に記憶に残った。

 それは、この手の言葉に彼が普段触れていないからでもあったし、どこかで、その言葉が自分のいる世界を否定していることを感じ取ったからでもあった。


 自分が属している世界は、自然なものではないのかもしれない。限られた人間だけが享受しているものなのかもしれない。

 そんな考えが、ほんの一瞬だけよぎる。


 だが彼は、その考えを深めなかった。深める必要がなかったからだ。


 彼は家に帰れば、温かい食事があり、静かな部屋があり、進学の相談に乗る親がいる。世界を疑うには、まず世界に殴られていなければならない。京太郎はまだ、その段階に達していなかった。


 電車に乗り、家路につく。車窓には夕暮れの住宅街が流れていく。マンションの明かり、整えられた道路、公園、学習塾、ドラッグストア、コンビニ。人が生きていくうえで必要なものが、必要な順序で並んでいる。少なくとも、彼にはそう見える。


 家に帰ると、母親が食卓の準備をしていた。父親はニュースを見ていた。流れているのは海外の紛争と国内の政治不信、経済指標の鈍化、若年層の生活苦についての特集。そのどれもが、リビングの暖かさを直接には傷つけない。ニュースは世界の不具合を伝えるが、伝えるだけで終わる。画面の向こうの崩壊と、食卓の湯気は、同じ空間にありながら接続しない。


「進路のこと、少し考えた?」と母親が聞いた。

「うん、まあ」

「法学部もいいんじゃない。公務員とか、安定してるし」

「でも経済も悪くないよな」と父親が言う。「民間行くなら、そっちも強いし」


 京太郎は曖昧に頷いた。


 恵まれている、というのはこういうことだ。世界の複雑さが、自分の人生に届く前に、家族と制度と金がワンクッション置いてくれる。自分はそのクッションを「普通」と呼ぶ。クッションを持たない人間だけが、それを特権と呼ぶ。


 食後、自室に戻って紙を机の上へ置いた。志門から受け取ったビラだ。美人から受け取ったものを、なんとなく捨てる気になれず、そのまま参考書の横に置く。


 未来を予定表から奪還せよ。


 その文言は、彼にはまだ意味が分からない。分からないが、少しだけ不穏だった。未来とは、奪還するものなのか。奪われているという前提があるのか。そんな発想自体、自分の中にはなかった。


 彼は机に向かい、模試の復習を始めた。英語長文、現代文、世界史の一問一答。蛍光ペンの色は三種類。ノートは整っている。解答欄には、正しい答えと間違えた理由が整理されて並ぶ。世界は、問題と解答の形をしていれば、まだ扱いやすい。


 だが、扱いやすい形をしているものだけが現実ではない。


 夜が更けるころ、京太郎はふと手を止め、机の端に置いたビラをもう一度見た。昼間に感じた軽い苛立ちが、今は少しだけ別の感触に変わっている。自分の人生は、本当に自分のものなのか。それとも、誰かが既に引いた線の上を、ただ滑っているだけなのか。


 その考えは、まだ浅い。浅いからこそ、すぐに勉強のノイズに押し流される。


 彼は再び参考書へ視線を戻した。


 世界を疑うには、彼はまだ幸福すぎた。


 そして、幸福な人間というものは、しばしば自分が何によって守られているのかを知らない。知らないまま、その防壁が永遠に続くと思い込む。だが、防壁とは、存在しているときほど見えないものだ。崩れ始めたときに初めて、人は自分が壁の内側で生きていたことを知る。


 三角京太郎は、まだそのことを知らなかった。

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