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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第一章 発火
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予定表の国

 四月の東京は、妙に清潔だった。

 清潔、というより、漂白されていると言うべきかもしれなかった。冬の濁りをわずかに残した風が、高架とビルの隙間を通り抜け、街路樹のまだ薄い葉を撫でていく。空は青くもなく灰色でもなく、何かをはっきり断定する気のない色をしていた。朝の光はやわらかいのに、そのやわらかさには温度ではなく管理の匂いがあった。誰かが一日のはじまりにふさわしい明度を計算し、その通りに空まで整えてしまったような、嫌に整った朝だった。


 風が弱く、空は薄く白み、通勤電車はいつものように遅れていた。遅れているにもかかわらず、誰もそれを異常とはみなしていなかった。遅延の掲示を見て、舌打ちをする者、スマートフォンを見下ろしたまま微動だにしない者、無理に割り込んで押し潰される者、押し合うことに飽きながらも毎朝同じように押し合う会社員。そうした細部まで含めて、それは既に一つの儀式になっていた。


 柊亮助(ひいらぎ りょうすけ)は、ホームの端に立っていた。


 落ちるつもりはなかった。少なくとも、そのつもりで来たわけではない。だが、線路の上に視線を落とすたびに、そこには奇妙な吸引力があった。銀色のレールが、二本の冷たい直線として、どこまでも続いている。あれは交通のための設備であると同時に、社会という巨大な機械が、人間を一人ずつ正しい方向に送り込み、世界を寸分違わず予定通りに運行させるための器具のようにも思えた。


 時刻表。運行情報。接近放送。乗車位置。整列乗車。優先席。弱冷房車。女性専用車。

 この国では、すべてのものに線が引かれていた。


 大学受験にも。就職活動にも。昇進にも。結婚にも。家族にも。老後にも。幸福にも。


 高校のとき、担任が言っていたことを、柊はふと思い出した。


「いいか、お前たち。人生には順序がある。順序を間違えなければ、大きくは失敗しない」


 あれは、教師としてはたぶん親切な言葉だった。実際、多くの親や大人が、ほとんど同じ内容を、もっとぬるく、もっと曖昧に、もっと感じのいい調子で言っていたはずだ。悪質だった。まったく親切な言葉だった。だからこそ、いっそう悪質だった。


 順序を間違えなければ失敗しないということは、順序から外れれば失敗だということでもある。社会はそのことを露骨には言わない。もっと穏当な言葉を使う。遠回しに言う。選択肢は多様化している、個性を尊重する、生き方は人それぞれ、挑戦は素晴らしい。そういう柔らかい包装紙で包む。だが、その実、そこにあるのは一枚の巨大な予定表だった。


 いい大学に行く。

 いい会社に入る。

 いい相手と結婚する。

 いい家に住む。

 いい子供を育てる。

 子供をいい大学に行かせる。

 それを繰り返す。


 その予定表から外れた者は、自由になるのではない。単に予定外になるだけだ。予定外の人間に、社会は自由を与えない。せいぜい自己責任という名前の空白を与えるだけである。


 列車が入線した。ホームに風が吹く。前にいた女のスカートの裾が揺れた。高校生の集団が笑い、サラリーマンのひとりが舌打ちした。誰も彼も、自分が乗るべき箱の位置を知っている。知っているというより、体が覚えている。列は乱れ、乱れながら再び列になる。これが都市の秩序だった。命令されなくても、勝手に自分を処理する人間たちの集まり。


 柊は車両に乗り込み、吊り革を掴んだ。車内には、朝の匂いがあった。整髪料、洗剤、化粧品、コーヒー人間が一日を始めるときに発する、みっともない総和だった。


 前に立つ若い男が、スマートフォンの画面を熱心に覗いていた。スーツは新しく、襟元の硬さがまだ取れていない。髪もまだ就活仕様の名残を引いている。おそらく新入社員だろう。彼は、何かの動画を見ていた。画面の中の男が、何かを言っている動画。中身に似合わない大きな字幕を付けて、内容がすぐに分かるようになっているようなショート動画だ。


「これからの時代に必要なのは、自分で考えて、自分でキャリアを切り拓く力です!」


 柊は、笑いそうになった。


 それもまた予定表の一部だった。自分で考えろという命令。自分らしくあれという規格化。主体性という名の従順。個性という名の制服。社会は昔ほど露骨に「従え」とは言わなくなった。代わりに「自分で選べ」と言う。そして、選ぶための選択肢は、あらかじめ綺麗に整列させてある。


 彼は窓に映る自分の顔を見た。痩せてもいないし、太ってもいない。目の下に少しだけ疲労が溜まっている。取り立てて優秀そうにも、無能そうにも見えない。東北大学を出て、大手通信インフラ企業のセキュリティ部門に入った。周囲からは成功者の部類と見なされる。自分でも、その見なされ方を否定する材料は乏しい。


 それでも、彼の内側には、ずっと腐った傷口のようなものがあった。


 今野沙奈(いまの さな)


 名前を思い出すだけで、胸の裏側に、錆びた金具を押し込まれるような痛みが走る。


 彼女は死んだ。高校三年の冬だった。自殺だった。原因については色々な噂が流れた。家庭問題だとか、進路不安だとか、いじめだとか、恋愛だとか。真実は曖昧だった。遺書もなかった。だから、その理由はもはや誰にも分からない。

 しかし警察も、学校も、世間も、そんなことには興味がない。死んだ者は死んだ者として処理され、生きている者は生きている者として次の予定に進む。卒業式は終わり、進学先は決まり、春は来る。世界は、何事もなかったように続く。


 だから柊は、ずっと世界そのものを疑っていた。


 誰かが死んでも、その死が十分に大きな記号にならない限り、世界はそれを呑み込み、何も変わらず回り続ける。死それ自体に意味はないのだ。

 ならば、問題は死ではない。

 問題は、死が足りないことでも、悲しみが足りないことでもない。

 問題は、この社会が、意味のないまま継続できてしまうほどに鈍感だということだった。


 車内アナウンスが流れた。乗換案内。遅延のお詫び。形式だけ整った声音が、隙間なく空気を埋める。どこまでも穏当で、どこまでも責任が薄い声音だった。


 柊はスマートフォンを取り出し、社内チャットを確認した。インシデント報告が二件。フィッシングメールの分析依頼が一件。社内システムの認証挙動の異常について照会が一件。どれも、ただちに世界を終わらせるような問題ではない。だが、この種の細かな異常が無数に積み重なって、ようやく社会というものは生きている。


 生きている。

 あるいは、辛うじて死んでいない。


 柊は、その日も会社へ向かった。


 オフィスは高層ビルの二十八階にあった。受付のガラスは磨き上げられ、エレベーターは静かで、執務フロアは適切な温度に保たれていた。窓の外には東京が広がっている。整然とした建物、幾何学的な道路、見渡す限りの管理。都市とは巨大な設備だ、と柊はよく思う。人間を住まわせるための場所ではなく、人間を処理するための施設。


 席に着くと、隣から声がした。


「おはよう、柊くん。朝から死んだ魚みたいな顔してるね」


 吉野理洋(まさひろ)だった。


 年齢は三十代半ば。柊の上司。ネットワーク設計とインフラ保守に強い男で、服装はいつも少しだけだらしなく、口調は軽く、目だけが妙に醒めていた。社内での評判は悪くない。だが、あまり深く付き合っている人間はいない。


「死んだ魚みたいな顔って、どういう顔ですか」

「死んだ魚を見たことがないのか?スーパーに陳列されてるだろ」

「魚なんか生きてても死んでても同じような顔じゃないですか。比喩として成立してないですよ」

「成立してないことが成立してるのが社会だよ」


 吉野はそう言って、紙コップのコーヒーをすすった。


 柊は、彼のこういう物言いが嫌いではなかった。嫌いではないというより、楽だった。正論を吐かないからだ。組織の中には、やたらと正しいことを言いたがる人間がいる。生産性がどうとか、再発防止がどうとか、社会的責任がどうとか。正しいことは、たいてい、言った本人がいちばん信じていない。吉野は、そういう臭みが薄かった。



「昨日のログ、見ました?」と柊は尋ねた。

「認証サーバのやつ? 見たよ。妙な痕跡があるね」

「外部侵入じゃない気がします」

「うん。普通の侵入なら、もう少し目的が見える。これは……なんというか、勝手に増殖してる感じがある」

「自己複製コードですか」

「コードっていうより、振る舞いだな」



 吉野は端末を起動しながら続けた。


「情報ってさ、一定量を超えて、相互参照し始めると、変な癖を持つんだよ。変な感じで体系化されていくって言うのかな。整理されてないほうがむしろ厄介で。意味を持ってるようで持ってない断片が、勝手に集まって、なんか妙な塊になる。言うなれば、言語系の生成AIみたいなもんかなぁ」

吉野が両手で丸を描くようにしてジェスチャーをする。胡散臭い情報商材屋みたいだと柊は思った。

「集合知みたいな話ですか」

「そんな綺麗なもんじゃない。集合知っていうと聞こえはいいけど、実際のインターネットに溜まってるのは、断片化した悪意、願望、記憶違い、執着、恨み、広告、ミーム、仕事のゴミ、消し忘れた草稿、死んだ人間のアカウント、そういうのだろ」



 吉野は画面にいくつかのログを映し出した。


「見ろよ。普通、通信ってのは目的地がある。でもこれ、目的地がない。ぐるぐる回ってる。回りながら、似た断片を拾ってる。まるで、何かを形作ろうとしてるみたいだ」


 柊は身を乗り出した。


 そこには、異様な痕跡があった。認証エラーの連続の中に、自然言語の破片のようなものが混じっている。社内ナレッジの古いコメント、退職者の残したメモ、障害報告書の誤字、顧客問い合わせの定型文、仕様書の削除し忘れた履歴。それらが、通常の情報処理の経路を外れたところで、何度も反復されていた。

 痕跡はバグとして処理できなくもない。だが、バグにしては癖がある。方向がある。意思と呼ぶには粗すぎるが、無意味と呼ぶには粘りすぎている。何かが何かに近づこうとしているように見えた。


「バグ……ですよね」

「そう片づけてもいい。でも、俺は昔から思ってるんだよな」


 吉野は、少しだけ声を落とした。


「情報が十分に複雑になったら、何かが宿るんじゃないかって」


 柊は笑わなかった。

 馬鹿げた話だと切り捨てるには、その男の目が真面目すぎたからだ。


「何の話ですか?意識?魂?」

「言い方は何でもいい。意識でも、魂でも、幽霊でも。人間の脳だって、要は情報の塊だろ。だったら、ネットワークが脳に似た機能を持たない理由がない」


「そんなものが本当にあるなら、とっくに問題になってます」

 柊はためいき混じりに返した。

「問題になってないのは、存在しないからじゃない。まだ誰も困ってないからだよ。誰かが困るまで、この社会は現象を現象として認めない」


 柊は再び画面を見た。

 奇妙な断片群は、確かに、何かを探しているようにも見えた。


 あるいは、誰か……()()()になろうとしているようにも。


 そのとき、彼の頭の中に、不意に一つの考えが生じた。


 もし情報の塊に意識が宿るのだとしたら。

 もし、記憶の総体が人格の輪郭を生むのだとしたら。

 もし、人間が死んでも、その人間について残された情報、記憶、記録、会話、癖、文章、視線の痕跡、声の揺れ、そうしたものを十分に集めれば。


 今野沙奈を、もう一度。


 その瞬間、彼は自分の考えにぞっとした。

 ぞっとしながら、完全には退かなかった。


 それは悪い考えだった。明らかに。死者を記録から編み直すという発想は、倫理以前に、どこか根源的に冒涜的だ。人間が死んだという事実の最後の固さを、情報処理で溶かしてしまおうとする。そんなことは許されるはずがない。

 だが、悪い考えというものは、しばしば救済の形をしてやって来る。地獄への道は善意で舗装されているのだ。

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