三 荒れ寺の怪 ④
「そ、そ、そんなこと、私に分かるわけないでしょう!?」
真葛は櫻花以上に狼狽え切っていた。
怯えた顔で肩を強張らせながらも、竹筒を両手で掴んで口を前へと向けながら、勝手に顕現してしまった使役獣へとそろそろと近づいてゆく。
「――疾風、どうして現れたんです?」
まっすぐに白狐を見つめながら震える声で訊ねる。
白狐は鬼灯のような赤い目で真葛を見あげながらウルルっと低く唸った。
現実の狐そのものの唸り声と重なって、櫻花の脳裏に声なき声が響いてくる。
――呼ばれたからだ……
「呼ばれた?」
真葛が眉をよせる。
生まれついての見鬼である櫻花の耳に図らずも届いた声は真葛にも届いているらしい。
櫻花は安心した。
そうなると、疾風は決して使役者である真葛の支配を断ち切ったわけではない。
同じことを察したらしい真葛が、安堵と困惑の入り混じった表情で重ねて訊ねる。
「何に呼ばれたのです? 私は呼んでいませんよ?」
跪きながら手を差し伸べた真葛のもとへと白狐がとことこと駆け寄り、人に馴れた子犬みたいに膝に頭を擦り寄せる。
そしてあの声なき声で応えた。
――※※※にだ……
「え?」
真葛がきょとんとする。
櫻花も虚を突かれた。
疾風が伝えようとした呼び手の名称が全く聞き取れなかったのだ。
音としては確かに脳裏に響いている気がするのに、目の粗い笊に水でも流したかのように頭のなかを通過して、聞いたと思った次の瞬間には何を聞いたのか思い出せなくなってしまう。
「真葛どの――」
「何です?」
「今の名、聞こえたか?」
「いいえ、全く。人の耳には聞き取れない名です」
「つまり、いずれかの神の?」
「ええ。真名でしょうね」
真葛が疾風の喉元をわしゃわしゃ撫でながら答える。「疾風、御札はどこに?」
真葛が訊ねるなり、白狐は飛び跳ねるように彼女の膝を離れ、軽やかな足取りで稲荷の社のほうへと走っていった。
――ここだ……
白狐が古ぼけた祠の前で足を止める。
ボロボロの白木の家形を乗せた石積みに、これも大分ボロボロの注連縄がかかっている。
その縄のすぐ下に、これだけは妙に新しい白い札が貼ってあった。
稲紋を押した方形の朱印の上に「王子稲荷」と墨書した真新しい札である。
真葛の手にする竹筒に貼ってあるのと全く同じものだ。
「――どうやらここは王子の神狐さまの斎庭になっているようですわね」
真葛が御札をしみじみと眺めながら呟き、しゃがみこんだまま白狐の首を抱きしめながら訊ねた。
「疾風、お前を呼んだのは神狐さまね?」
そうだ――と、言うように管狐が頷く。
「私に何の御用で?」
重ねて訊ねても管狐はもう答えなかった。
まるで普通の獣に戻ってしまったようにウルルっと喉を鳴らし、真葛の掌をペロッと舐めてから、散歩をせがむ子犬みたいに、ふさふさした尻尾を振りたてて跳ねまわりはじめた。
――兎の臭いがする……
「ああもう、好きになさい!」
真葛が焦れたように応える。「この境内なら好きに走り回って結構! 外に出るんじゃありませんよ?」
――兎の臭いがする……
声なき声でまたしても繰り返してから、白狐は飛び跳ねるような足取りで稲荷の参道を駆け戻っていった。
フサフサとした白い尾が奔放に茂る夏草のなかに消えるのを見届けてから、櫻花と真葛は顔を見合わせた。
「……――真葛どの」
「なんでしょう?」
「要するに、このたびの狐火騒動の源は王子の神狐さまだということなのか?」
「ここに御札がある以上、そうである可能性が高い気がしてきましたわ」
真葛は眉をしかめて応え、はーッと長いため息をついてから頷いた。
「櫻花どの」
「な、なんであろうか?」
「何が起こっているにせよ、次の聞き込みのために取り急ぎ必要なものが分かりました」
「なんだ?」
真葛は静かな諦めに充ちた声で応えた。
「油揚げです」




