風邪の日 その2
「げほげほ……。それじゃ、授業をはじめます……」
教卓の前に立ったマスク姿の柊木ちゃんは、見るからに弱っていた。
昨日の夜、電話したときは何ともなかったのに。
どうやら風邪をひいてしまったらしい。
「先生、風邪ー?」
「だいじょーぶ?」
「咳すごいよー?」
女子たちが心配そうに声をあげると、柊木ちゃんが笑顔を作った。
あー、あれはかなりしんどいやつだ。
他の人からすると普通の女神スマイルに映るかもしれないけど、俺にはすぐにそうだとわかった。
「うん、大丈夫だよ。今日はB組の授業だから、頑張ろうと思って」
「えー、先生、すっごい健気……」
「アタシが男なら惚れてるってー」
「みんなー! 柊木先生の邪魔しないでね!」
クラスの中心的存在の女子が言うと、みんなうなずいた。
彼女が言ったからっていうよりは、全員同じ気持ちだったんだろう。
げほん、げほん、と咳をしながらも、柊木ちゃんは授業を進めていく。
辛いなら休めばいいのに、とつい思ってしまう。
仕事をきちんとすることと、無理して仕事をすることはまったくの別の話だ。
普段以上に協力的なクラスメイトたちのおかげで、授業はスムーズに進みチャイムとともに柊木ちゃんは、教室をあとにした。
しばらくして、職員室に行くと、柊木ちゃんがいなかった。
周りの先生に訊くと、保健室かもしれないとのことだった。
「失礼しやーす」
適当に挨拶して保健室の中に入る。
カーテンを閉め切られた場所があり、そこに顔を突っ込むと、柊木ちゃんがベッドで眠っていた。
こほこほ、げほげほ、と咳を続けている。
「そんなに具合悪いなら、休めばいいのに」
「……頑張って来たのにぃ……」
ずずず、と鼻をすすって、しんどそうに息をしている。
椅子を持ってきて、枕元に座る。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「誠治君に、会うために、頑張って来たのにぃ……」
うるうると涙目になっている柊木ちゃんの頭を撫でる。
あー。なるほど。クラスの授業もそういう理由だったのか……。
「早退する?」
「しない……!」
うぎぎ、とちょっと意地になっている柊木ちゃん。
「今日は、お昼休憩……家庭科室に行かない日で、久しぶりに二人きりのお昼休みだから……絶対に、しない……!」
しゅ、執念がすげえ……。
「早退するんなら俺も早退して、看病してあげられるんだけど」
「する。早退する」
早っ。
というわけで、フラつく体を起こすのを手伝った俺は、個人的理由により自主早退することにして、荷物をまとめて昇降口を出る。
ちょうどそのころ、柊木ちゃんも早退の手続き? が終わったらしく、職員玄関から出てきたところだった。
一旦帰ってから柊木ちゃんちに行こうと思ったけど、思った以上にフラついている。
こんな状態じゃ、車の運転もできないだろう。
携帯で、近くのタクシー会社に連絡して車を回してもらう。
「……手際がいいね……」
普通の高校生ならタクシーを呼ぶなんて発想は出てこないだろう。
二人で乗り込み、柊木ちゃんちへむかった。
到着すると、俺は柊木ちゃんの前でかがむ。
「はい、背中。どうぞ。おんぶ」
「重いから……いい……」
「いいから、いいから」
半ば強引におんぶして、俺は速足でアパートの階段をのぼる。
思った通り、全然重くない。
色々と限界だったらしく、おんぶするときの抵抗も弱く、今は背中でぜえぜえと息をしている。
「このまま……どこかに、あたしを、捨てに、行くんでしょ……」
「行かねえよ、俺は鬼か」
「やだぁ……捨てないで……ダイエットするからぁ……」
「重くない、重くないから。大丈夫」
超弱気モードに入ったらしく、しくしく、と背中で柊木ちゃんが泣いている。
柊木ちゃんちに入り、ベッドに直行。
なるべく見ないように着替えを済ませ、布団をかけてあげる。
「お腹は? 空いてない?」
「空いてるけど、食欲ない……」
「けど、なんか食べないと。キッチン借りるよ?」
返事を聞かないまま、寝室を出てキッチンを貸してもらう。
ご飯の残りと卵を使って、簡単におじやを作る。
「春香さん、作ってきたよ?」
「いいにおい……」
布団から顔をちょっとだけ出している柊木ちゃん。
「何で隠れてるの?」
「熱のせいで、顔がくちゃくちゃだからだよ……。誠治君に、こんな顔、見せられないよ……」
さっきまで余裕で見てたんだけど、それはノーカンでいいのか……?
「熱があっても春香さんは可愛いから、見捨てたりしないって」
「……ほんと?」
布団に隠れながら上目遣いってずるいな……! 可愛いぞ。
ほんと、ほんと、と俺は柊木ちゃんを起こして、作ってきたおじやを食べさせてあげる。
同時に、救急箱から見つけてきた体温計で熱を測ってもらう。
俺がれんげを口元まで持っていくと、はむ、はむ、ときちんと食べてくれた。
「どう、美味しい?」
「美味しい……」
なんか切なそうに言った。今度は何だ?
「お料理も、さりげなく上手で……誠治君、あたしがいなくても、もう、大丈夫だね……あたしなんか、要らないよね……」
「要る要る! 何寿命あと一週間みたいなこと言って――」
ぱたり、と柊木ちゃんは力なくベッドに倒れた。
え――――?
「先生……? 春香さん……? 柊木ちゃぁああああああああああああん!?」
ぴぴぴぴ、と体温計の音がする。
ちょっと失礼して脇の体温計を引き抜く。
『37°3』
「見事な微熱ううう!?」
ぱち、と柊木ちゃんがあっさり目を開けた。
「でも、体だるいの……」
「ほう、そうかい」
「うぅ……でも、でも、熱、あるから……ごほごほ……」
「超微熱な」
「ううう……誠治君の態度が一気に冷たくなったぁ……悲しい……」
まあ、けど、大したことがなくてよかった。
「真田君、先生の看病をお願いしてもいいですか……?」
「はい」
一人暮らしで病気にかかると、寂しさは五倍増しくらいになるし、何をするにしても自分で準備しなくちゃいけない。
その辛さは俺も心得ているつもりだ。
「優しい……」
「好きな女と病人には、優しくするのが俺の流儀なの」
「そういうところ、大好き……」
ちら、と俺を見ると毛布の中に逃げた。
そのくせ、毛布から手を出して、握ってほしいとアピールしてくる。
好きな女の要望なので、応えてあげることにして手を握った。
「迷惑かけちゃって、ごめんね……?」
「いいよ。俺も、春香さんがいないんだったら、学校にいる理由はとくにないし」
こもった声で、「大好き」とまた聞こえた。
「俺も」
「え、今なんて言った?」
ずもっと柊木ちゃんが顔を出した。
「治ったら教えてあげる」
「むーん、意地悪……」
それでも、俺の手は絶対に離さない柊木ちゃん。
「けど、大好き……」
小声で言うと、それからすぐに眠ってしまった。
本当に、可愛い人。寝顔を見ながらそんなことを思った。
翌日にはすっかり体調は戻ったらしく、しきりに柊木ちゃんは「愛の力だね! あたしたちの愛の勝利だよ!」と力説したのだった。