幕間『カルロ・リース』
悲鳴。いや、あれは悲鳴じゃない。悲鳴と言ってしまえばそれは侮辱だ。
「カルロ! 逃げなさい!」
今思えば、映画みたいに感動的なセリフなんてものはなかった。もしかしたら、そのあとに続いた言葉がそれだったのかもしれない。だけど、吐き出す血に溺れた声は、僕にはとても言葉として聞き取れなかった。
ぼやける視界。がちがちとうるさいのは、打ち鳴らされる僕の歯。突然視界が落下して、初めて自分の腰が抜けてしまったことに気付いた。
もはやお母さんは何も言わない。咀嚼されるままに頼りなく揺れて、僕と同じ金髪をゆらゆらさせて、うつろな目から流れる涙が、口元であぶくを立てる血液と混ざり合って。だらりと垂れた痩せた腕が少しずつ引き寄せられて、地面に赤い線を引く。
いつもと変わらない裏路地で、お母さんが黒魔に、喰われていた。
ただただ声を張り上げて、僕は黒魔から、そしてお母さんだった何かから逃げていた。まだ抜けたままの腰では走れなくて、元々ぼろきれみたいな服をもっとボロボロにしながら。這って、這って、立って走って、物陰にいちいち怯えながら、逃げた。
流す涙はお母さんが死んだからじゃなくて、ひたすらに怖かったから。
これは、そんな僕の昔話。六歳の僕が、助かるまでのお話。
◇◆◇
僕は落ちぶれた娼婦の息子だ。お母さんは仕事をする中でのトラブルでしかなかった僕を、わざわざ産んでくれた。なんで降ろさなかったのかは結局聞けずじまいだったけれど。あまり笑わない人で、ガリガリに削った鉛筆みたいな人だったから、きっとそのお金もなかったのだろう。
そんな彼女だから、仕事もろくに取れなかった。のっぺらぼうなビルの群れから離れたスラム街の暗い路地を歩き回って、泥酔したやつ、お金の余裕のないやつを狙ってやっと。彼女の仕事仲間が言うには、僕を産んだ時のストレスが原因だ。
そんな貧乏な僕らだから、そんな汚らしい僕らだったから、黒魔からの避難のバスには乗せてもらえなかった。
「私を恨まないことね。私のところに生まれたあなたが悪いのよ」
赤茶色の平原に走る、ひび割れた黒光りのアスファスト。その上を歩く僕の耳に、懐かしくも恨めしい彼女の声が聞こえる。恨み言を漏らす元気だって残っていない。時折靴の下でかさつく乾いた血。あいつら、何も装備を含めて全部食うこともないだろう。僕を置き去りにする風が運んだ砂の匂いは鼻にむず痒く、高く上った太陽がじりじりと肌を焼く。
――あっ、死体だ……。
人ではなく、黒魔の。道路の脇に、黒魔が動かずに横たわっている。どちらにせよ、ここでも戦闘があったのだろう。これを辿るしか、僕の生き残る道はない。最初は小さく悲鳴をあげたりしたけれど、もうすっかり慣れてしまった。何日も何日も何日も見続けてきたから。
もはや死体を避けて通るのも面倒だから、一度止めてしまった重い足を引きずり引きずり、脇を通り抜ける。
その時だ。僕の耳が何かを捉えた。
振り返る。開けた視界はどこまでも見通せる。遠くに蠢く黒い点も。
脳裏にフラッシュバックする光景。背筋を駆け上る悪寒に、悲鳴は声になることすらできない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
追いつかれてしまった。こんなに一生懸命歩いたのに。
思考が定まらない、視線が定まらない。身を隠すものなんて見当たらない。
そこで僕ははたと気づく。
隠れるものなら一つ、あるじゃないか。
足音が近づく。あまりに数が多いから、地震が近づいてくるみたいだった。
不安。焦燥。圧迫感。
僕の上にのしかかるものは予想以上に重くて、自分が急に小さくなってしまったようだった。それがとてもとても嫌で、ぎゅうと、今までになく強く、目をつむる。
近づく。
暗い。胸が締め付けられるようだ。丸めた体の真ん中、自然と手は祈る形になる。
近づく。
目元にじわり、涙が滲む。あぁ、もうすぐ――
「何やってる! 死にたいのか!」
僕の上にあった黒魔の死体が取り払われた。
まぶたの裏を日光が赤く染めて、目を開くより先に手を引かれる。その手は武骨で、力強く。強引さが僕を走らせる。
「な、何するんだ!」
「うるさい! 置いていくぞ!」
「……うぅっ」
そこには脅しの気配がなく、余裕がなかった。背後に押し寄せる音の群れ。下手なことをすれば、僕はあそこに投げ込まれる。
泣きじゃくりながら、僕は走り続ける。やがて後ろに聞こえる音が変わった。
ごりごり、ぶちぶち。
力なく揺れていたあの人を思い出す。思い出させる。頭の中で、僕も力なく揺れている。仲良く黒魔に咥えられて。
もつれそうになった足に力がこもる。そして、初めて僕の手を引く誰かを見上げた。
日の光と涙にぼやけてはいても、黒い髪と、なぜか威圧感のある瞳ははっきりと見えた。
これが、僕と狭霧さんの出会いだった。
たどり着いたのは、寂れたモーテルだった。電源も落とさずに逃げ出したのか、耳障りな音とともに明滅する看板が何もない夜でよく目立つ。僕が隠れ蓑にしていた黒魔が食われている間にひた走って、僕らはここまでたどり着いたのだった。
ここに来るまで、一言だって話さなかった。慣れた様子で直角に折れたモーテルの部屋を物色して回る彼について回って、やっと狭霧という名前だと知った。
都合よく鍵のあけっぱなしだった部屋を見つけ、上がり込む。とりあえず泊まれればいいだろうと言わんばかりの、手狭な部屋だった。狭霧さんが荷物を置く間に、荷物のない僕はベッドに倒れ込んだ。硬いけれど、ベッドを滅多に使えなかった僕にすれば贅沢すぎた。瞬く間に心が緩んで、安心がゆっくりと、全身に染みわたる。
そこではっと、狭霧さんに怒られたらどうしようと不安になる。なると同時、意図せずお腹が鳴ってしまった。
「おい」
「はいっ!」
ばね仕掛けの人形もかくや、僕が枕にうずめた顔をあげると、僕の鼻っ柱に直撃するものがある。涙目になって拾い上げると、それは銀の包装に包まれた棒状の何かだった。まったくもって、見たことがない。
「何ですか、これ……?」
「食料だ。軍用食だから、味は期待するなよ」
狭霧さんの声はあくまで事務的で、胸をひとまず撫でおろした。思わず軍用食を握りしめていた手から力が抜ける。同じ袋を剥いて小麦色のバーを頬張る狭霧さんを見ていると、味に期待するなと言われてもよだれが出る。ここ最近、何も食べていないのだ。
とはいっても、押し固めた砂のようにぱさぱさで無味のそれは、本当にまずかったけれど。
モーテルの冷蔵庫に残されていた水を口の端から零しながら飲み干すと、今までの疲れがどっと押し寄せてくるみたいだった。
「――落ち着いたか?」
「……少しですけど」
正直な話、僕にとっての狭霧さんはまだ怖い人だった。なんで僕のことを助けたかわからない。優しい人だとは、助けられたときに感じたあの感じが引っかかる。つまりは得体が知れなかった。
今だって、二つあるうちのベッドの片方に座って、ナイフを研いでいる。視線が僕を捉えることはない。近寄りがたさの塊みたいな人だ。
でも、ずっと立ってるわけにもいかなかったから、ためらいながらも僕はベッドに寝転がった。
背中越し、耳に心地よい音。砥石と刃物の擦れる音が子守歌になる。ベッドランプのみが照らす部屋で、僕の意識は微睡に落ちていく。
「どうしてだ」
「え……?」
音が止んだ。夜の静寂の中振り向くと、あの気圧されるような瞳が僕に向けられていた。油断していた僕は、小さく声をあげてしまう。けれど、狭霧さんはそれを無視して話を進めた。
「どうして逃げなかった」
「どうしてって」
「どうして、あの場にとどまった」
「だって……」
理由はなかったように思う。逃げられないと思った。できることは隠れることしかなかった。だから、あそこにいた。そう答えようとして、そう答えたら怒られるんじゃないかと、彼の目を見て直感する。
「諦めていたんだろう。もう助からないと。命を諦めただろう」
「ちがっ――!」
言いかけて、言い切れなかった。僕はお母さんに助けられたから。逃げろと言われたから、生き続けるのだ。生き続けたいのだ。
けれど頭の中でそう叫ぶ僕を、冷たく見下す僕がいた。僕は言うのだ。お前は黒魔が共食いをすることを知っていただろうと。お前は、黒魔の下に隠れていた時、最後何を思ったのかと。もうすぐ『死ねる』と、思いはしなかったかと。
「お前、何で親と一緒じゃない」
「それは……」
うろたえ、後じさる僕を黙って見ていた狭霧さんが、また唐突に口を開く。僕にとっては、僕の急所を確実についてくる狭霧さんが、もう怖くてたまらなかった。さっき食べたり飲んだりしたものが、きゅうっと握りつぶされるみたいで。声なんて、出なかった。
「別にお前の親なんて、俺は知らない。お前の親がお前を大事に思ってるはずだなんて、きれいごとも言わない。お前が親に憎まれていても、お前が親を憎んでいても変わらない」
ナイフをシースに滑り込ませながら、彼は一つ一つ、言い聞かせるように言う。その声には不思議な静けさがあり、夜によく似合っていた。僕の心が引き止められる。
そして、彼の言葉がやってきた。
「ただ、家族が死んだなら、お前は生きなければいけない。それは恩返しだ。あるいは責任、意趣返し。はたまた、それは復讐になるからだ」
――真正面からぶつけられる『彼』に圧倒された。
彼の人生がこめられているような重みだった。自分の惹きつけられたものはそこにあったのだ。
内容が心に響いたわけではない。僕は自分の生まれこそ恨んでも、お母さんは恨まなかったから。復讐だ、意趣返しだの、それが生きる理由になるという彼の言葉はわからない。
ただ、彼はそんな汚い感情を糧にしてでも生きている強い人なのだと、そう思った。
◇◆◇
「まぁ、精神的な意味だけじゃなく、生身のあの頃でもあほみたいに……って、やっぱり寝てますよね」
さっきまでは生返事もあったのに、今では僕の安眠を露ほども考えていないいびきが二つ聞こえていた。ほぼベッドだけで埋まったこの宿舎に差し込む月明かりがなくたって、ジャックとノリスの二人が寝ているのがわかる。まったく、僕をいびる時ばかり元気なのに、僕の話になるとすぐに関心を失う二人だった。
「まぁ、良かったのかもしれませんね」
薄いブランケットを被りなおして、ぼそりと言う。この先は僕が語るべきではない気がしていたから。というよりも、個人的に話したくなかった。かっこいい隊長こそ、僕が突き従ってきた隊長だ。
「じゃあ、狭霧さんはどうなんですか?」
あの時、僕は純粋な興味からそう聞いた。聞くなり、彼は面食らったように眉をピクリと動かした。隊長が目の奥に隠していた弱さが垣間見えていた。
それでも、彼は義理堅かった。
「俺は――」
その先を聞いて気付いたのは、彼は僕じゃなく、自分に言い聞かせていたのだということ。
そんな情けなさを、僕は話したくなかった。