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No.03 訪れる人

 雨が降っている。

 空は明るく空気はひんやりと澄んで冷たい。こんな日には訪れるひとがある。

 もてなしの用意をしなければ──



 そのひとは点前てまえ座に座り、居ずまいを正した。

 風炉に小振りな丸釜をかけ、桑小卓くわこじょくには甲赤こうあかを載せ、水指みずさしは涼やかな染付そめつけだ。小さく切った釜の蓋からは一条の湯気が静かに立ち上っている。

 そのひとは微笑んだ。いずれもお気に入りの道具だった。風炉先窓の外にはしっとりと雨に濡れ、落ち着きと本来の美しさを取り戻した庭木や下草が見える。遠来の客人をもてなすにふさわしい、静かな午後である。

 みし……っ、とかすかに畳を踏む気配があり、点前座のそのひと──和津かづは目を上げて客席を見た。

 やって来たのは年若い男である。客席に座ったその男は目元も涼しげな優しい面立ちで、清潔な短髪に単衣ひとえのお召しをすっきりと着付けている。

「ようこそおいでくださいました……こんな日には、あなたが必ずおいでくださると心待ちにしておりました」

 和津は微笑んで言った。

 和津はそろそろ七十半ばを過ぎた頃だろうか。塩沢紬に博多をきりりと締め、背筋はまだすっと伸びているが、ていねいに結った髪はすっかり白くなり、皺もめっきり深くなった。

「あなたはいつまでもお変わりありませんね。私は……すっかり年老いてしまいました……」

「いいえ、あなたもいつまでも変わりない、私の大切なひとです」

 男も穏やかな笑みを浮かべ、静かに応えた。

 薄器を取り蓋を開ける。よくふるった、抹茶の良い香りが和津の鼻腔をくすぐる。

 釜の湯にも煮えがついてきたようだ。雨が塵も雑音も吸い取るのか、しんとした澄んだ空気の中、松涛にもたとえられる湯の沸く音のみが茶室に満ちた。

 かつん、と小さく乾いた音がした。和津が茶杓を茶碗の縁で打ったのだ。

 男は茶筅を振る和津の手元を優しく見つめている。

「どうぞ……」

 和津が茶碗を差し出した。それは八橋が描かれたものだったが、大きく金で接いであった。

「これは……」

 男が言い止した。

「覚えてらっしゃいますか? ふたりで菖蒲を見に行った帰りに、あなたが買って下さったものです」

「ええ……よく覚えています……このような安物を、あなたはまだ大事に持っていて下さったのですか」

 そういいながら男は目を細め、愛おしげに茶碗を撫でた。

「あの時、にわか雨に降られて……」

「そうでした。あなたはおろしたてのお召し物が濡れると泣きべそをかいてらした」

 男は人懐っこい笑顔を浮かべた。

「雨宿りに入った道具屋で、この茶碗を買ったのでした。茶碗の善し悪しなど、何もわからないのに……」

「あなたはあの時、仰った……雨は恵みだと……

 命を育み、この世の汚れを流し浄めてくれるものだと」

 和津が静かに言った。

「それで私も、雨の日が好きになったのです」

 男がゆっくりと茶をむのを、和津は見ていた。


 ──雨が降るとき、私はあなたを訪れましょう。そしてあなたの肩を優しく濡らすでしょう──


 男からの最後の便りにはそうあった。

 その手紙を書き終えて男は出撃し、異国の海に散ったと聞いた。

 ──私は海のひとしずくとなり、やがて雲となってきっと祖国へ、あなたのみもとへ帰ります──

 和津は何度もその手紙を読み返し、そのたびに涙にくれた。

 雲となり、雨となって私に寄り添ってくれたとて何になろう。優しく私を見つめる目、名を呼ぶ低く艶のある声、私を抱く強い腕も熱い胸もなければいやだ──

 だがある時、和津は確かに感じたのだ。音もなく降りしきるあたたかな雨に、確かに愛しい男の気配を……

 和津の思いは、近づいてきた軽やかな足音に遮られた。

 襖が開いた。そこにいたのは華やかな振り袖の少女である。大きな瞳にくっきりとした眉、花のような唇をきゅっと結んだ様子は少し利かん気にも見える。肩の辺りで切りそろえたおかっぱがかわいらしい。

智香ともこちゃん」

 和津は微笑み、少女に声をかけた。

「よく似合っているわ……良かった。智香ちゃんもこちらへいらっしゃい。お茶を点ててあげましょうね」

 少女は素直に茶室へと入ると、男の傍らにちょこんと座った。

「これはかわいらしい……」

 男が相好を崩した。

 少女が纏っているのは肩揚げをした四つ身の振り袖である。薄紅や黄檗きはだ色の胡蝶が愛らしい、少女らしい柄行であった。

「孫の智香です。私の子供の頃の振り袖が出てきたので、もう古くさいかとも思ったのですが、仕立て直してみたのです」

 男は笑顔を和津に向けた。

「ええ、覚えています、この着物…… よくお似合いだった。このお嬢さんのようにかわいらしくて……」

 和津は頬が熱くなるのを感じた。

 このひとの前では、私も少女に戻ってしまうのだろうか……と思った。

 少女のために、和津は小服こぶくに薄目の茶を点てた。

 茶を受け取った少女は、作法に適った所作でゆっくりとそれを飲み干すと言った。

「お祖母ちゃま……私、結婚するの……」

 唐突な告白に、和津も男も少女を見た。

「……まあ……それは……」

 しばらくの後、和津が応える。

「おめでとう存じます。……末永くお幸せにね」

 少女はほっとしたような、はにかんだような笑顔を見せた。

「ありがとう、お祖母ちゃま……

 どうしても、お祖母ちゃまにはご報告したかったの」

「何かお祝いを差し上げねばなりませんね」

 男も笑顔で言った。和津は微笑むと戻ってきた茶碗を清め、また差し出して言った。

「智香ちゃん、お祝いにこのお茶碗をあげましょう」

「…………」

 少女の瞳が和津を見つめる。

「このお茶碗はね、お祖母ちゃまが娘の頃に大切な方から頂いたの。接いであって値打ちはないけれど、お祖母ちゃまとその方の気持ちだと思って、受け取ってちょうだい」

 少女は再び茶碗を手に取った。

「今日は本当に良いおもてなしを頂きました」

 男が嬉しそうに言った。

「本当に、今日は佳い日になりました……ありがとうございました」

 和津も晴れやかな笑顔で頭を下げた。



「智香、何をぼんやりしているの?」

 開いた障子から覗き込んで来た母に声をかけられ、智香は我に返った。

 ジーンズにTシャツのラフな格好、胸の辺りまである髪は無造作に後ろでひとつに束ねられている。それが気の抜けた風情にならないのは、智香のほっそりしたムダのない体つきのせいかも知れないし、勝ち気そうな瞳の強い光のせいかも知れなかった。

 いつの間にか雨は上がり、遅い午後の日差しが座敷の奥深くまで届いている。

「まあ……お茶の道具なんて並べて」

「形だけよ。お炭もないしね」

 智香は笑った。よく見れば風炉に五徳ごとくは入っているものの、灰もなく炭もない。上にかかった釜も空、水指も空であった。

 祖母が鬼籍に入ってもう十年あまりになる。生前、智香を目の中に入れても痛くないほどに可愛がってくれたそのひとは茶道の教授で身を立てていた。彼岸の人となってからは跡を継ぐ者もなく、こつこつと集めた道具も長く押入にしまい込まれたままになっていたのだが、それもとうとう明日、道具屋が来て引き取ることに決まった。両親は一人娘の智香の結婚をしおに家財を整理し古びたこの家を売り、もう少し住むに便の良い都会のマンションにでも引っ越そうという心づもりなのだ。

 やわらかな雨が降り出したのを見て、祖母のお気に入りだった道具を出したの

は智香だ。祖母は明るい雨の日が好きだった。

 雨の日には、祖母が帰ってくる……智香は祖母を送った幼い頃から、ずっとそう感じてきた。だから今日は、祖母の気に入っていた道具を、彼のひとが使っていたように置いてみたのだ。帰ってくる祖母を迎え、もてなし、そしてどうしても告げたいことがあった。

「そのお茶碗は……」

 智香が手にした茶碗を見、母が言った。

「そのお茶碗、まだあったの……お母さんがお嫁に来たばかりの頃に粗相をして割ってしまって……もうとっくに捨てたと思っていたのに……」

「お母さん知らなかったの……これはお祖母ちゃまのお気に入りのお茶碗だったのよ」

「そのあと一切茶室には近づかなかったからね。気が張るし、二度と粗相はごめんだったから」

 母は肩をすくめてあっさりと言った。智香が初めて聞く話であった。

「ねえお母さん、私……このお茶碗、貰っていい?」

「どうせみんな売っちゃうんだし、残っても誰かにあげるか捨てるかだからそれは全然構わないけど」

と、母がいぶかしげに答えた。

「そんな接いだお茶碗より、もっと値打ちのあるものが他にたくさんあるんじゃないの?」

 母の言葉に智香は笑った。

「ううん、これがいいの。思い出したの。このお茶碗……昔、お祖母ちゃまが、私の結婚のお祝いにこれをくれるっていったの」

「…………」

 母は怪訝な表情をした。

「まだ子供のうちから、そんな約束を……」

「お母さん、お道具は私が出しておくからここはいいわよ。買い物もまだ行ってないんでしょう?」

 話を切り上げるように言った智香の言葉に、母は立ち上がった。

「それじゃあお願いね。私が触るより、智香の方が扱いもきちんとしてるだろうし」

 母は座敷を出て行き、智香はまたひとりになった。

 見るともなく、手にした茶碗に視線を落とす。

 あの時、私はまだ十にもなっていなかっただろうか……

 そうだ、思い出した、と智香は思った。

 あの時も雨が降っていた。私は新しく仕立て上がったばかりの薄物の振り袖を祖母に見て欲しくて、祖母の茶室──この座敷へと来たのだった。

 あの時、座敷には不思議な気が満ちていた。

 襖を開ける前、確かに客人の気配を感じたが、座敷には祖母の他には誰もいなかった。明るい座敷で祖母はひとり茶を点てていて……

 お茶を点ててあげましょう、と祖母は私を座敷に招き入れた。お茶を頂き茶碗

を返すと、それを清めてまた差し出して、こう言ったのだ。


 ──智香ちゃん、結婚のお祝いにこのお茶碗をあげましょうね──


 そういった祖母はいつもと変わらない姿なのに笑顔もどこかしら輝いていて、まるで別人を見るようだった……

「…………」

 智香は手の中の茶碗を撫でた。あの時祖母がくれるといったのは、確かにこの茶碗だった。すっかり忘れていた幼い日の出来事を、今日思い出したのは偶然だろうか。雨が思い出を呼んだのか。それとも──


 やはり祖母は、私を訪れたのだ……と、智香は思った。

 私を祝うために、来てくれたのだ。

 日差しは一層長く伸び、空気は黄金きん色に染まりはじめている。

 智香は立ち上がり、縁側のサッシを開けた。草いきれを含んだひんやりした空気が室内に流れ込んでくる。

 遠く子供達に帰宅を促す声が聞こえる。

 雨上がりの、いつもの夕暮れである。


 ※桑小卓:茶道で用いる棚

 ※甲赤 :茶道で用いる茶器。薄器(薄茶用)の一種

 ※お召し・塩沢紬・博多:いずれも生地の名称。博多は帯用

 ※八橋 :互い違いに組んだ板橋と杜若(または菖蒲)・流水が描かれた文様

 ※四つ身:着物を仕立てる際の、子供用の反物の裁ち方

 ※薄物 :夏用の着物



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