四章九話目
「え?」
レインは言っている意味がわからなかった。
その意味を尋ねる前に、弟が席を立つ。
「次の授業は法術実技だろう? イヴン先生にこれ以上怒られないように、早く行った方がいいと思うけど」
教科書やノートなどを持ってさっさと歩いていく。
「あ、うん。そうだね」
レインも慌てて荷物をまとめ、教室を後にした。
レインが法術実習教室に着くと、レインのクラスの生徒だけではなく、他のクラスの生徒も集まっていた。
「法術理論のノートゥン先生が急用で休みのため、今日の授業は二クラス合同で授業を執り行う。ほら、お前達、さっさと席に着け」
鐘が鳴って教室に入ってきたイヴン先生が立っている生徒達を追い払う。
レインは先に席に着いていたオルグたちの隣に座る。
席に着いたレインに、隣の席のオルグが小声で話しかける。
「レイン、遅かったね。それでスミルノフ君に、お礼は言えたの?」
レインは教科書を机の上に置きながら、うなずく。
「う、うん、おかげでね」
「それは良かった」
オルグは柔らかに笑う。
親友のレインだけではなく、オルグは誰に対しても優しかった。
困っている人がいると放っておけない性格で、その上勉強もスポーツも出来て、女子からの人気も高かった。
「レインも、あんな奴にからまれて災難だよな。まあ、今はクラスが別れているから、滅多に会う機会もないだろうけれど」
その向こうに座っているリャンが軽口を叩く。
鐘が鳴り止むか鳴り止まないかの時に、教室に人影が駆け込んでくる。
「すみません、遅れました」
息を切らせて走ってきたのは今朝会った太っちょのミゲロだった。
「遅くなりました」
次いで駆け込んできたのはのっぽのウルベールだ。
レインは二人の姿を見るなり、慌てて開いた教科書の影に隠れる。
「教室の変更で部屋を間違えたのだろうが、次回からもっと早く来るように。ほら、早く空いている席に着け」
イヴン先生は溜息を吐くと、空いている席を指さす。
「すみません、イヴン先生」
二人は謝って空いている後ろの席へと向かう。
レインはできるだけ体を小さくして、机の隣を二人が通り過ぎるのを待つ。
――ふう、気付かれなかったみたいだ。この調子で、授業が終わるまでは二人に見つからないように大人しくしてよう。
そう思って、レインが顔を上げようとした時、後ろの席から声が上がる。
「お前、今朝の!」
声のした方を振り返ると、ミゲロとウルベールの視線の先には、今朝二人を投げ飛ばした弟が座っている。
「何だ、お前達か」
弟はうっとうしげに二人を見る。
ミゲロとウルベールの二人はそれぞれ顔を真っ赤にする。
「な、何だとは、何だ! お前のせいでどれだけ痛い思いをしたか」
「慰謝料をふんだくってもいいくらいの痛さだったぞ!」
授業中なのも忘れて、口々に訴える。
弟の表情がさらに険しくなる。
「たかがそれくらいでぴいぴい泣きわめくな鬱陶しい。血が大量に出たわけでも、骨が折れたわけでもないだろう? 痛いのが嫌なら、受け身の練習でもしていろ!」
「スミルノフ」
イヴン先生は鋭い口調でたしなめる。
弟は苦虫をかみつぶしたような顔で、目を逸らす。
「お前達も、もう授業はとっくに始まっているんだぞ?」
ミゲロとウルベールもお互い頷き合って、弟の隣に大人しく座る。
その授業の間中、レインは三人のことが気になって、授業に集中できなかった。
ただひたすらその授業が早く終わるのを待ち望んだ。
「スミルノフ君」
放課後、レインは廊下を歩いていた弟を呼び止めた。
弟はゆっくりと振り返る。
「あぁ、あんたか。まだ何か用?」
弟はぶっきらぼうに言う。
「シェス!」
廊下の向こうから女性の声が響く。
見ると、杖を持ってこちらへ歩いて来る姉の姿が見える。
「姉さん」
弟は目を見張り、姉の元へと駆け寄る。
「姉さん、どうして。今日は合唱部の練習がある日だろう?」
目の見えない姉は目を伏せたまま弟の顔を見上げる。
「イヴン先生からお話は伺ったわ。あなた、今朝同じ学年の二人を投げ飛ばしたと聞いたけれど」
弟の顔が辛そうに歪む。
「それで、怪我はなかったの?」
姉は弟へと身を乗り出す。
弟は小さくうなずく。
「うん、二人に怪我はなかったよ。手加減したからね。無事だよ」
姉は眉をひそめる。
「わたしは、あなたに怪我がなかったかと聞いたのよ? お話はイヴン先生から聞いたと言ったでしょう。あなたはレインさんが二人に絡まれているのを助けようとして、間に入ったのでしょう。それで相手が手を出したから、仕方なくあなたは二人を投げ飛ばした。わたしは、そう聞いているけれど。間違っていたかしら?」
姉は小首を傾げる。
弟は面食らった顔をして、慌てて首を横に振る。
「ううん、その話は間違ってないよ。僕には怪我はないから、安心して」
姉は安堵したように息を吐き出す。
「そう、良かった。要領のいいあなたのことだから、何も心配はしていないのだけれど。叔母さまからあなたのことを任されている以上、何かあったらと思うと心配で」
弟は表情を和らげ、姉を見下ろす。
「僕は大丈夫だよ。それより姉さんこそ、コンクールが近いんだから練習に励まないと」
「ありがとう。でも、今日はシェーラ先生が忙しくてね。先に帰って家で練習しようかと思っているの。あなたには悪いけれど、今日は先に帰るわね」
「だったら、僕も今日の部活の練習は休んで、姉さんと一緒に家に帰るよ」
「駄目よ。あなたにこれ以上迷惑は掛けられないわ。通い慣れた道だもの。一人で帰れるわ。あなたは剣術部の練習があるんでしょう。真面目に取り組まないと、またイヴン先生に怒られるわよ?」
レインは少し離れた場所から二人のやり取りを眺めていた。
そして弟が姉を見つめる視線の中にひっかかるものを感じた。
――あれ? もしかして、スミルノフ君って、お姉さんのことが?
その意味を理解して、レインは顔を赤くする。




