四章八話目
ミゲロは背中から床に落ちる。
「ぐほっ」
ミゲロの巨体が床に叩きつけられ、ものすごい音がする。
教室の扉からのぞいていた生徒達も、目を丸くしている。
「て、てめえ!」
ウルベールが拳を握りしめ、弟に殴り掛かる。
弟はわずかに横に避けただけで、ウルベールの拳をかわす。
殴ってきた勢いを流し、ほとんど力もかけずに投げ飛ばす。
そのあまりの見事な手際に、レインも止める間がなかった。
教室の扉の前で立ちつくし、言葉もなく見守っていた。
「うぐっ」
ウルベールも背中を床に打ち付け、動けないでいる。
床に転がった二人を前に、弟は冷たく見下ろす。
「次に姉さんを侮辱するようなことを言ったら、二度とその口を叩けないようにするぞ。今回はこの位で勘弁してやるが、命があるだけ幸運だと思うんだな」
まるで悪役のような台詞だったが、過去の映像で弟の人並外れた身体能力を見たレインは、その言葉がとても冗談には聞こえなかった。
全身からにじみ出る殺気と、ためらいのない行動に、レインは弟にそら恐ろしささえ感じていた。
いつの間にか隣クラスの生徒も廊下に出て、一部始終を見守っていた。
「こら、お前達何をしている!」
騒ぎを聞きつけたイヴン先生が廊下の向こうからこちらへと走ってくる。
その後ろに生徒指導のマムーク先生が続く。
「ほら、お前達、さっさと教室に入れ。授業が始まるぞ」
廊下に出ている生徒たちを教室の中に追い払う。
先生二人は廊下で倒れているミゲロとウルベールに歩み寄る。
立ち尽くしているレインと弟とをマムーク先生が睨みつける。
「お前らがやったのか?」
マムーク先生に睨まれ、レインは縮み上がる。
弟が手を上げる。
「僕が、やりました」
レインは驚いて弟を見、マムーク先生の眉が吊り上る。
「そうか。シェス・スミルノフ、お前がこんな事態を引き起こした張本人か」
マムーク先生の問いに、弟は無表情にうなずく。
「はい」
短く答える。
「では、懲罰室まで来てもらおう。詳しい話はそこで聞こう」
マムーク先生は弟の肩をつかみ、廊下の向こうに歩いていく。
レインはマムーク先生の背中に呼びかける。
「マムーク先生! 僕も」
――シェス君は、僕を助けようとして、こうなったんです。
喉まで出かかった言葉は、マムーク先生の険しいひと睨みで引っ込む。
「レイン・アマナギは授業に戻れ。イヴン先生、そちらの二人の手当ては頼みます」
倒れている二人の様子を見ていたイヴン先生はうなずく。
「わかりました」
弟がマムーク先生に連れられて行くのを、レインは黙って見守っていることしかできなかった。
――どうしよう。僕のせいなのに。
レインはマムーク先生に言いたくても声が出ない。
「ほら、お前ら授業に戻った戻った」
ワン先生やオリヴィエ先生などのクラスの担任の先生が来て、廊下に出ている生徒たちは散らされていった。
レインも例外ではなく、ワン先生に言われ、教室に入って行った。
お昼頃、弟は教室に戻ってきた。
ミゲロとウルベールを投げ飛ばした件は、懲罰室行きだけで済んだらしい。
学生食堂でもレインは話しかける機会はなく、午後の授業の始まる前にようやくレインは弟に話しかけることができた。
「さっきは、ごめん!」
レインは次の授業の準備をしていた弟に頭を下げる。
弟はわずかに顔を上げる。
「何のことだ?」
レインは頭を下げたまま答える。
「朝のミゲロとウルベールのことだよ。僕があの時マムーク先生に事情を話していれば、君が懲罰室行きになることはなかったかもしれないのに。本当にごめん!」
弟は小さく息を吐き出し、肩をすくめる。
「何のことかと思えば、そのことか」
呆れたような口調で言う。
「別に気にしてないよ。あんな自己顕示欲の強い奴、ここが学校じゃなければ、鼻っ柱を折ってやってるところだけど。人の目があったから、あれぐらいにしておいた。あんたもあんな奴をいちいち真面目に空いてしてたら気が持たないだろう? 今日の朝ことは、蜂にでも刺されたと思ってさっさと忘れるんだな」
弟は次の移動授業の教科書やノートをまとめる。
「う、うん。ありがとう」
レインは少々拍子抜けして、釈然としないながらもうなずく。
話題の糸口を見失ってしまったレインは、視線を泳がせる。
人の良いレインは、何とか弟にお礼がしたいと考える。
「そ、そうだ。午前中の授業、出れなかったよね? もしよれければ、今日の午前中の授業のノートを貸すけど」
弟はちらりと横目でレインを見る。
「別にいい。今日やった範囲さえ教えてもらえれば、姉さんに教えてもらう方が手っ取り早いから」
「そ、そっか」
レインは再び話の糸口を失ったレインは、がっくりと肩を落とす。
そこでこの弟が極度のシスコンであることを思い出す。
姉の話題を振る。
「そ、そういえば、君のお姉さんは、目が見えないのに、学校の授業についていくのは大変だよね。何か授業についていくコツ、とかあるのかな?」
学年の中でも真ん中くらいの成績のレインは、目の見えない姉がどうやって授業についていくのかに興味があった。
弟は次の授業の準備の手を止める。
「姉さんは頭がいいし、努力家だから、コツということはないと思う。大抵の授業は聞いただけで覚えてしまう。わからないところは授業後に先生に聞いて、教えてもらっている。一応点字の教科書も持っているけれど、先生に直接聞いたほうが早いからって、僕と違って問題も起こさないし、先生たちと仲がいいんだ」
弟は目を細め、穏やかな表情を浮かべる。
姉のことを話す弟は、わずかに寂しそうな顔をしているようにレインには見えた。
姉に対する憧れと共に、どこか自分を蔑んでいるようなところが見えて、レインは胸が痛んだ。
「そ、そんなことないよ! スミルノフ君も、勇気があって、行動力があるじゃないか。お姉さんは確かに優しくて、頭がいい人かもしれないけれど、スミルノフ君だって今朝僕を助けてくれたじゃないか。あの件で、先生には睨まれてしまったけれど、人として正しいことをしたんだし、少なくとも僕は恥じることはないと思うけど」
身を乗り出すレインに、弟は呆気に取られる。
小さく息を吐き出し、口元に笑みを浮かべる。
「勇気がある、か。そうだな。一般人から見たら、そう見えるかもな」




