三章二十六話目
「イヴンーーー!」
家具の影から恨みの声が上がる。
フェデリコ大司教、ムスタファ司祭、リシェンがいっせいにそちらを向く。
「教皇様、いつまで隠れているつもりですか? さっさと出て来なさい! あくまで出て来ないつもりなら、こちらから行きますよ?」
イヴンが怒鳴ると、声の主もようやく観念したらしい。
「わ、わかった。いま、出ていく」
家具の影から気弱な声が返ってくる。
物陰から白い聖衣に身を包んだアグラダが現れる。
首を垂れ、肩を落とし、気落ちした様子で歩いてくる。
アグラダはイヴンの前で立ち止まり、暗く青い瞳でにらみつける。
「イヴンの裏切り者~」
恨み言をつぶやく。
「何とでもおっしゃって下さい。私には枢機卿としての責任がありますので」
表情一つ変えないところには、初老に差し掛かった年相応の貫録があった。
アグラダはまだイヴンをにらんでいたが、小さな溜息を吐いた。
驚いた顔をしているムスタファ司祭とリシェンの二人に向き直る。
「あぁ、すまないな。君たちの期待を裏切るようで悪いが、わたしがこのラスティエ教国の教皇アグラダだ。いやまあ、自分でもわたしは教皇に向いてないと常々思っているんだが。できることならさっさと教皇の位を退いて、田舎に引っこみたいと思っているんだがな。この頭の固いイヴンをはじめ、枢機卿の面々が賛成しなくってな」
イヴンの表情が途端に険しくなる。
「あなたはまだそんなことを言っているんですか? 現実問題、いまのラスティエ教国が非常に危険な状態なのはあなたもご存じのはずです。いつ隣国の聖イストア皇国の皇帝がラスティエ教国の領土に侵攻してくるか、予断のならない状況が続いていると言うのに」
アグラダを険しい目でにらみつける。
フェデリコ大司教はアグラダの言葉を聞いて頬を赤らめる。
「もし、教皇様が田舎に行かれると言うのでしたら、ぜひ私もお供させてください。教皇様とご一緒でしたら、私は大司教の位を捨てて、どんな苦難にも耐えられると思うのです」
アグラダはフェデリコの言葉の真意を知ってか知らずか、平然と返す。
「あぁ、ありがとう、フェデリコ大司教。しかし残念ながら、わたしの願いは当分叶えられそうもない。隠居の話ももう少し先になりそうだ」
アグラダは銀色の髪をかきあげ、ぼやく。
「あ、あの」
今まで黙っていたリシェンが、アグラダの前に出る。
リシェンは緊張した面持ちでアグラダを見つめる。
「あの時は、すみませんでした」
リシェンは頭を下げる。
アグラダは青い目を丸くする。
「あの時?」
「あの、空船に乗せてもらった時です。元々あなたには助けられたのに、その恩も忘れて、あの時は、わたしが失礼なことを言ってしまった上に、空船から逃げてしまって。その、本当にすみませんでした!」
リシェンは身振り手振りをしながら、申し訳なさそうな顔で深々と頭を下げる。
アグラダはまさかリシェンから謝られるとは思っていなかったようで、どうすればいいのかわからない様子だった。
そこへフェデリコ大司教が口を挟む。
「あたしが教皇様に謝るよう言ったのよ」
アグラダは驚いた顔でフェデリコを見る。
フェデリコは得意そうに胸を張って話す。
「この小娘が、教皇様のことを人殺し呼ばわりするもんだから、教皇様がどれほど素晴らしい方なのか、どれほど多くの人々の命を救って来たのか、国のために尽くしてきたのか、人々の心の支えになっているのかを、この小娘に教え込んでやったのよ」
フェデリコの言葉に不信なものを感じ取ったのだろう。
アグラダは奇妙な顔で尋ねる。
「フェデリコ。それは、リシェンさんに手荒な真似をした、と言うことではないよな?」
フェデリコはにっこりと笑う。
「んもう、教皇様ったら、あたしがそんなことするわけないでしょう? 竜だって殺せないあたしが、小娘にわからせるために何をしたかなんて、女の子同士なら拳で語り合ったに決まってるでしょう?」
アグラダの顔からさっと血の気が引く。
「そ、そうか。女の子同士は、拳で語り合うものなのか。わたしも千年ほど生きているが、初めて聞いたよ」
苦虫をかみつぶしたような顔で、アグラダはうなずく。
ムスタファ司祭が困ったように笑う。
「リシェンさんの怪我は、跡が残らないように私が法術で治療しておいたので、大丈夫だとは思いますが。ムスタファ大司教も手加減をしてくださったので、それほど大怪我にはなりませんでしたが、普通ならば怪我の完治に一ヶ月ほどかかっているところです」
小声でアグラダにささやきかける。
「何から何まで、本当にありがとう、ムスタファ司祭」
「いえいえ、クリスティーノ様。あなたから受けた恩に比べたら、大したことはありません。お気になさらずに」




