三章二話目
「うん、ありがとう。兄さん」
エトスの話を聞いて、少し元気が出てきた。
こんなことでくよくよするなんて、自分らしくない。
リシェンはうっすらと微笑む。
エトスはリシェンの金の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「母さんも、表向き強がって見せてるけど、本当はリシェンのことをとても心配しているんだぞ? そこんとこ、わかってるのか?」
「母さんが?」
リシェンは深緑の瞳を丸く見開く。
母のディリーアが心配していると言う話はリシェンにとっては初耳だった。
父クロフがいなくなってから、ずっと気丈に振る舞ってきた母だったが、リシェンは母がひそかに大樹ラスティエ様に父の行方を聞きに行ったのを知っている。
母が父の身を案じ、神殿に毎日お祈りに行っているのを知っている。
夜に母が暖炉の明かりで一人で繕いものをしている時に、窓の外を見てぼんやりとしているのを知っている。
父がいなくなっただけでも、家では火が消えたようだった。
数年前に兄のエトスが大樹ラスティエ様の神官に選ばれ、その上、リシェンが守り手としてまた家を出ていく。
家には母一人が取り残され、きっと母は寂しい思いをするのだろう。
そう考えると、リシェンは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ねえ、兄さん」
「ん?」
「わたしが彼の守り手を辞退したい、と言ったら、兄さんはどうする?」
リシェンの頭をなでていた手が止まる。
エトスは考える素振りをする。
「それは、まあ」
困ったように短い焦げ茶の髪をかく。
「一応は、ラスティエ様の神官である以上、止めるべきなんだろうな」
リシェンの頭から手を離し、雲海を黄金色に照らす太陽に目を向ける。
深緑の瞳をまぶしげに細める。
「でも、それはリシェンが一生懸命考えて出した答えなら、おれは反対しない。たとえ村の長老たちが反対したとしても、兄としていつだってリシェンの味方でいるつもりだ。きっと母さんに聞いたって、そう言うだろう」
エトスは照れくさそうに笑う。
リシェンは朝日に照らされた兄の横顔を見つめる。
暗い中に一筋の光明を見たようだった。
今まで苦しかった気持ちが、嘘のように消えていく。
「わたし、わたしは」
リシェンの白い頬を、一筋の涙が伝う。
本当は、外の世界に行きたくない。
いつまでもこの村で、優しい兄や母のそばにいたい。
それが今までのリシェンの真実の気持ちだった。
しかし兄の言葉を聞いて、リシェンの気持ちに迷いが生じた。
このまま自分のわがままのために、兄や母に迷惑をかけていいのだろうか。
あんなに母と仲が良かった父でさえ家を出る決心をしたのに。
兄や母も寂しさを我慢してリシェンを送り出そうとしてくれているのに。
自分は何でこんなところで迷っているのだろう。
これではただの子どものわがままだ。
リシェンが守り手を目指した時から、旅立つことは覚悟していたはずなのに。
まだ彼と会う前なのに、自分は何を迷っているのだろう。
リシェンは自分の心に問い掛ける。
――彼だって、決して悪い人ではないのに。
リシェンは見るからに人のよさそうなレインの姿を思い出す。
大樹ラスティエに導かれるままにレインと出会ったリシェンは、最初はレインを不審者だと思って剣を抜いてしまった。
あの時のことは、今思い出しても恥ずかしい。
下手をすればレインを不審者として一刀のもとに斬ってしまっていたかもしれないのだ。
後で神官たちから話を聞いたところ、あれが大樹ラスティエの啓示であったのだった。
すなわちレインがリシェンの守るべき相手であり、リタ・ミラの種が育つ十年近く行動を共にすることになるのだ。
守るべき相手にうっかり剣を向けてしまったことを、リシェンはひそかに落ち込んでいた。
レインに会うのが憂鬱で、リシェンが旅立ちに気が進まないのも、元はと言えばそれが原因だった。
――レインに会ったら、何て謝ろう。
リシェンはうなだれる。
――大体、自分が守るべき相手に剣を向けるなんて、普通はないわよね?
それはつまり、リシェンが幼い頃から野山を駆け巡り、魚や虫を取ったり、木登りをしたりするお転婆だという自覚からくるものもあった。
――わたしのせいで、レインに怪我をさせてしまったらどうしよう?
昔から生傷の絶えなかったリシェンは、誤ってレインに怪我をさせてしまうのではないかと、気が気ではなかった。




