二章三話目
レインは夢を見た。
崖の上に生える巨木のすぐそばに一人で立っている夢だった。
足元には大小の石が転がり、辺り一面は濃い霧で覆われていた。
その巨木は、空いっぱいに枝葉を張り、見上げるばかりの大きさだった。
レインの故郷の北方群島にも、古い木はたくさんあったが、今までにそれほどまでに巨大な木は一度も見たことがなかった。
その木の根元は苔むし、太い根はがっちりと大地をつかんでいた。
木の幹も巨大で、大人十人が手を広げても余るほどだった。
――何の木だろう?
レインはその巨木を見上げる。
樹形や葉の形からスミニア杉によく似ていたが、はっきりした木の種類はわからなかった。
レインは巨木の幹周りを眺める。
不意にレインの目に金の光が横切る。
巨木の根元に一人の女性が立っていた。
金色の輝くような長い髪が目にまぶしい。
女性はレインと同じように、その巨木を見上げていた。
ほっそりとした肩、白いあご。
まるでレインの故郷、北方群島に伝わる昔話に出てくる妖精のような容姿だった。
――誰?
レインは口を動かしたが、声は出なかった。
ただ小さな吐息が出ただけだった。
静かに濃い霧が流れていく。
女性がゆっくりとこちらを振り返る。
「あなたは、誰?」
女性の声が鈴のように涼やかに響く。
年の頃はレインと同じほどだった。
まだあどけない幼さの残るほっそりした顔立ちに、肌の色の白さが目立つ。
髪は朝日の金の光を集めたかのように美しく、意志の強そうな瞳は、谷川を流れる水の底よりも深い緑色だった。
レインは何とかして女性に言葉を伝えようと口を動かしたが、肝心な声は出なかった。
――ぼ、く、は、レ、イ、ン。
身振り手振りを織り交ぜて、女性に訴える。
女性は微動だにせず、じっとレインを見つめている。
傍から誰か見ているものがいたならば、きっとレインをいぶかしく思っただろうが、生憎他に巨木の周りに人の姿はなかった。
濃い霧が視界を遮るばかりで、他に動くものの気配はなかった。
女性は視線をレインから外さずに答える。
「そう。レインと言うの」
小さくうなずく。
レインはその女性に自分の意志が通じたことにほっとした。
――き、み、の、な、ま、え、は?
身振り手振りをしながら、必死に口を動かす。
レインの言いたいことは何とか通じたらしい。
女性は自分の胸に白い指を置く。
「わたしは、リシェン」
女性の着ている服は雪のように真っ白なチュニックだった。
その優雅な動作は、まるで物語に出てくる貴婦人のようだった。
――リシェンか。
まるで北方群島の高地にだけ花咲く百合のようだ、とレインは密かに思った。
女性の細い指が空を滑る。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
レインを指さす。
――え?
夢見心地でいたレインは、冷水を浴びせられたようだった。
女性の言葉を聞いて青い目を白黒させる。
――え? ええ? どうして、と言われても。
女性はレインの内心の動揺などおかまいなく、話し続ける。
「ここは青の大樹の神域よ。普段は結界が張ってあって、部外者が勝手に立ち入りできないようになっているの。それを、村人でもないあなたがラスティエ様に近付くなんて」
女性の深緑の瞳に険しさが宿る。
レインは完全に混乱していた。
――青の大樹? 神域? ラスティエ様?
首を捻るばかりだったが、女性にその理由を尋ねることはとてもできなかった。
先ほどの貴婦人の様相が嘘のようだった。
今は勇ましい女騎士のように見える。
「出ていきなさい。早く、出ていかないと」
女性は腰に手を回す。
チュニックの下に剣を隠し持っていたのだろうか。
すらりと抜き放つ。
銀の切っ先をレインの鼻先に向ける。
「わたしは、あなたを許さない」
女性の怒りは本物だった。
下手をすると怪我どころではすまないだろう。
その言葉が女性の口からこぼれた途端、頭上にある大樹の枝がざわざわとざわめいた。
女性は何かに気が付き、頭上を見上げる。
「ラスティエ様?」
恐れるような表情で枝を見上げている。
つられてレインも緑の枝葉をふり仰ぐ。
その大樹の枝葉も巨大で、空を覆うばかりに四方に伸びていた。
枝がざわめくたびに、女性の顔に驚きと焦りの表情が広がっていく。
「でも、ラスティエ様。そんな、まさか。彼が、そうなのですか?」
レインは視線を女性に戻す。
今のうちに逃げるべきかとも考えたが、ここは大人しく待っていることにした。
これ以上女性に嫌われたくなかったというのも、理由の一つだった。
「はい、わかりました。では、仰せのままにいたします」
女性はふっと息を吐き、レインを睨む。
その顔は拗ねた幼子のようなふくれっ面のようにも見える。
「レイン、と言いましたね」
不承不承といった調子で、剣をチュニックの下に仕舞う。
――は、はい。
レインは背筋をぴんと伸ばす。
「あなたがこの神域に侵入したこと、ラスティエ様は不問に伏すと言うことです。本来ならば、青の神官と長老様の話し合いによって、厳罰に処すところですが、ラスティエ様がいいと言うので、今回は見なかったことにしましょう」
女性はそっぽを向いて話している。
よっぽどその判断が不服なのだろう。
表情にまともに出ている。
――そ、それは、ありがとうございます。
レインは女性に申し訳なくなって、頭を下げる。
何故か訳もわからないままこんな場所にいるので、神域云々と言われてもいまいちぴんとこなかったのだ。
女性はじろりと深緑の瞳でレインを睨む。
「ただしそれは、あなたがリタ・ミラ様の御子を宿しているからです。リタ・ミラ様の御子がいなければ、部外者なあなたを、こんなところに近付けることなどしなかったのですよ」
レインはひたすら恐縮している。
――そ、そうですか。僕がリタ・ミラ様の御子を。
首の後ろをかく。
そこではっと気が付いた。
――リタ・ミラ様の御子?
顔を上げ、レインは女性の顔を食い入るように見つめる。
――僕が、リタ・ミラ様の御子を宿している?
勢い余って女性に駆け寄る。
腕組みをして、そっぽを向いていた女性は、近づいてくるレインにぎょっとする。
レインは女性の細い肩をつかむ。
――ぼ、僕が、リタ・ミラ様の御子を宿している、って、どういうことですか? 僕、男ですよ?
息のかかりそうなほど近くで、女性の顔を覗き込む。
――そもそも、そんな心当たりもないし、そういうことも断じてしていません。男の僕が子どもを産まなきゃいけないなんて、聞いたこともないですよ。
「ちょ、ちょっと、レイン。落ち着いて」
取り乱すレインを、女性はなだめてかかる。
女性は肩をつかんだレインの手を振り払い、彼から距離を取る。
「リタ・ミラ様の御子を宿していると言っても、その御子は大樹の種子ですよ? 人間の赤ん坊ではありません」
ぴしゃりと言い放つ。
レインはぴたりと動きを止める。
――へ?
まじまじと女性の顔を見る。
――種子?
レインの頭の中を、様々な植物の種子が浮かんでは消えていく。
――種子、って。あの花や木の種子のこと?
女性は紅潮した顔で、腰に手を当てる。
「そうです。それ以外、何があるんですか」
たしなめるような口調だった。
レインは勘違いしたことに恥ずかしくなって、首を垂れる。
――す、すみません。僕は、てっきり。
女性はため息をつく。




