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三ヶ月分の思い出ごと、何も無かったことにいたしましょう  作者: 九葉(くずは)


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第5話 贈ったことすら

返送された箱は、宿舎の机の上に置いたまま閉じていた。


一度は開けた。中を確認し、目録を読み、ゴッツと話をした。そのあと蓋を戻して、それきりになっている。箱を開けるたびに、中身がきちんと受領日順に並んでいることを見せつけられる。丁寧な梱包は、丁寧な拒絶だ。


今夜、もう一度開けた。


理由は自分でもうまく説明できない。文書室で五分の面会を受けた日から十日ほど経っている。あの五分間のことを、繰り返し考えている。俺が話している間、ネル・クローゼの目は一度も揺れなかった。怒りがあるなら揺れる。悲しみがあっても揺れる。あの目は凪いでいた。凪いでいることの意味を、俺はあの場では理解できなかった。


箱の中から、革手袋を取り出す。仕立て屋に頼んで、彼女の手に合わせた寸法で作らせた。右手の人差し指と中指にインクの染みがあったのを覚えている。文書室で写本を書く手だから、指先が汚れる。それを見て、手袋を贈ろうと思ったのだ。


あのとき、なぜインクの染みを覚えていたのか。


賭けの相手の手先を、そこまで見る必要はなかったはずだ。


手紙の束を取り出す。九通。紐で括ってある。括り方が均一で、文書室の書類整理と同じ結び方だった。一通目は三行しか書かなかった。何を書けばいいか分からなかったからだ。九通目は便箋の裏まで使った。書くことが増えたのは、彼女が返事をくれたからだ。返事といっても長い手紙ではない。次の文書室の開室日と、最近読んだ原典の話と、窓から見えた鳥の名前。それだけだ。


それだけの内容を、俺は次の手紙のために覚えていた。鳥の名前を調べて書いた。彼女が少し笑った。あの笑い方を、今も覚えている。


賭けはいつ終わっていたのだろう。


ゴッツとの賭けは、一曲踊らせたら勝ちだった。それは春の末に終わっている。そのあとの三ヶ月は、賭けの延長ではない。延長だと俺自身は思っていた。酒の席ではそう話した。三ヶ月かけて落とした、悪い気はしなかったはず、と。そう言っているうちは、自分の行動を冗談の枠の中に収めておけた。


だが俺は、手袋のためにインクの染みを覚え、手紙のために鳥の名前を調べた。冗談でやる仕事ではない。


ネル・クローゼの反応は本物だった。俺が「君は特別だ」と言ったとき、彼女は頷いた。あの頷きの重さを、俺は量っていなかった。あの夜会で、彼女の頬が月明かりの中でわずかに赤くなっていたことを覚えている。覚えていたのに、数えていなかった。


二ヶ月目の終わり、文書室の前で待っていたことがある。退勤の鐘が鳴って出てきた彼女の指先に、インクが残っている。袖口で隠そうとしたのが見えたので、見なかったふりをした。あのとき彼女が少しだけ笑った。その笑い方が、夜会の広間で令嬢たちが見せる社交の笑いとは違った。口元だけでなく、目の周りの筋肉が少し動く笑い方。俺はあの笑い方を覚えたくて、次の手紙に「また文書室の前で待ちます」と書いた。


彼女が与えてくれていたものを、俺は今になって数え始めている。本気で話を聞く姿勢。嬉しそうな笑顔。俺の任務の話を退屈がらずに最後まで聞く忍耐。菓子箱のお礼を言うときの、少しぎこちない丁寧語。夜会の三曲目で、手の力が少しだけ強くなったこと。


それらが全部、本物だった。賭けで始めた側の俺に向けて、彼女は本物を差し出していた。


だから、もう一度会いに行った。


今度は賭けではない。本気で、正面から、自分の気持ちを伝えるために。制服を脱いで、私服の外套を着た。近衛の看板を使わない。ディルク・ダナーという個人として会いに行く。


宿舎から王宮までの道を歩きながら、何を言うか考えた。謝罪が先か、気持ちが先か。まず謝る。賭けだったことを認める。その上で、今の感情は本物だと伝える。手順を組み立てるのは得意なはずだった。だが歩くほどに言葉が散っていく。騎士の訓練では、目標を定めて真っ直ぐ進むことを教わる。今は目標が見えているのに、足が鈍い。


文書室の受付に着いたのは、午後の三の鐘を過ぎた頃だった。ネル・クローゼは窓口の奥の机にいた。前回と同じ姿勢で、同じ速度でペンを動かしている。来客に気づいて立ち上がり、受付台の前に来た。


「ダナー様、本日はどのようなご用件でしょうか」


声に抑揚がない。前回と同じだ。前回は怒りを隠しているのだと思った。今日は分かる。隠しているのではない。ないのだ。


「ネル、聞いてほしいことがある。前回のような用件の話じゃない。俺自身の」


「恐れ入りますが、文書室の受付では業務に関するご用件のみ承っております」


遮られた。丁寧に、正確に、手続きどおりに。


「頼む。五分でいい。いや、三分でいい。俺は」


「ダナー様、文書室の受付時間は四の鐘までです」


時刻の話をしている。俺が自分の感情の話をしようとしているのに、彼女は時刻の話をしている。それは拒絶ですらない。業務の案内だ。四の鐘は一時間後で、受付時間内であることは分かっている。だが彼女が時刻を告げたのは「早く済ませてください」という意味ではない。「ここは業務の場所です」という境界線だ。受付台の木の角が、午後の光に照らされている。


俺が超えようとしている境界を、彼女は窓口の幅で守っている。


「ネル」


名前を呼んだ。三ヶ月間呼んでいた名前だ。あの名前を呼ぶたびに、彼女は少し嬉しそうな顔をしていた。今は何も起きない。名前が空気の中で消えて、受付台の木目だけが残る。


「他にご用件がなければ、業務に戻らせていただきます」


ネル・クローゼは会釈をして、窓口の奥に戻った。背筋が真っ直ぐで、歩き方に迷いがない。怒っている人間の背中ではない。悲しんでいる人間の背中でもない。用件が済んだ人間の背中だ。


廊下に出た。石の壁に背をつけて、しばらく立っていた。通りかかる文官たちが、騎士が文書室の前で何をしているのかと不思議そうな目をする。俺にも分からない。分かっているのは、あの窓口の向こう側に、俺の言葉が届く場所がもうないということだ。


窓口の幅は、腕を伸ばせば届く距離にある。その距離が、今の俺には渡れない。


怒ってくれたほうが楽だった。怒りなら返せる。謝罪も、弁明も、償いも、怒りに対してなら差し出せる。泣いてくれてもいい。泣かれれば、せめて自分が何をしたかの重さが分かる。あの凪いだ目には、何を差し出しても受付の手続きとして処理される。感情が通貨として通用しない窓口だ。


宿舎までの道を、いつもより長く感じながら歩く。


宿舎に戻り、箱の前に座った。手袋を戻し、手紙を戻し、髪飾りを戻す。受領日順に並べ直す。彼女がそうしたように。


箱の底に、仕切りの厚紙がある。前回はその下を見なかった。厚紙を持ち上げると、台紙に挟まれた薄い花弁が一枚、出てきた。


白い。小さい。紙の色に近くなっていて、台紙の罫線が透けて見える。


「……これは、俺が贈ったのか」


覚えていなかった。花束は花屋に見繕わせた。中身を一本ずつ確認したことはない。この野花が束に入っていたのかどうかすら分からない。値のつかない花だろう。花屋が数合わせに入れた一本かもしれない。


彼女はそれを抜き取って、押し花にしていた。三ヶ月間。俺が花屋に「適当に見繕ってくれ」と言って注文した花束の中の、一番安い一本を。


目録の六行目に「押し花」と書いてあったのを思い出す。品名、受領日、状態。乾燥済み。あの文字は他の行と同じ筆圧で書かれていた。震えていない。六行目だけ特別扱いしなかった。そのことの意味が、今になって重い。


目録に載せたということは、返送品として扱ったということだ。義務はないはずだ。花束の付属品を押し花にするのは贈り主の意図した行為ではない。それでも返した。帳簿に残高を残したくなかったのだろう。俺との間に、一枚の花弁も残さないために。


台紙の上の押し花を見つめた。花弁の端が少しだけ欠けている。目録の間に三ヶ月間挟まれていた痕跡だ。毎朝開いて確かめていたのかもしれない。俺が酒を飲んでいる間に。俺がゴッツと笑い、あの子を落とした話を武勇伝にしている間に。


返された押し花は、俺が贈ったことすら忘れていた一枚だった。彼女は、三ヶ月間押していた。

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