第3話 一番安い娯楽
あの賭けを持ちかけたのは、俺だ。
春の末の夜会で、三杯目の酒を飲んだあたりだった。広間の壁際に座っている地味な令嬢がいて、三年間ずっとあの椅子にいるのを知っていたから、隣のディルクに言った。あの子を次の夜会で踊りに誘えるか、と。誘えたら次の晩の酒は俺の奢りだ。それだけの軽い話だった。
ディルクは笑って受けた。奴はそういう男だ。頼まれれば断らない。社交的で、人当たりが良く、令嬢の扱いにも慣れている。壁の花を一曲踊らせるくらい、腕試しにもならないだろうと思った。
それが三ヶ月続いた。一曲が三曲になり、花束が届くようになり、手紙を書き始める。俺は途中で「もういいだろう」と言ったが、ディルクは「もう少し」と返した。あのとき奴の目がどんな色をしていたか、俺は注意して見ていない。
返送の箱が届いたのは、夜会から四日後の朝だった。
騎士団宿舎の共有広間で、ディルクが木箱を前に座っていた。箱は開いている。中身は仕切り紙で丁寧に分けられ、受領日順に並べてあった。布袋に入った銀の髪飾り、紐で括った手紙の束、革手袋、菓子の空き箱。その上に目録が一枚載っている。
ディルクは目録を読んでいた。黙って、二度読み返していた。
「どうした、何か壊れてたか」
声をかけると、ディルクが顔を上げた。表情がない。怒っているのとも違う。知らない顔だった。
「冗談だったんだ。向こうだって分かってるだろう」
俺はいつもの調子で言った。そう言えば空気が軽くなると思ったのだ。酒の席で場を盛り上げるのは俺の役目で、重い空気を冗談で割るのは得意だと自分では思っていた。
ディルクが目録を俺に差し出した。
「あの目録、花の一枚まで番号が振ってあった」
受け取って読んだ。品名、受領日、状態。十四行。筆跡は均一で、一画も乱れていない。これを書いた人間の手が震えていなかったということだ。怒りで手が震えるならまだ分かる。何も震えていない文字は、怒りよりも手前にある何かで書かれている。最後の行に「以上、全件」。六行目に「押し花」と書いてあった。花束から一輪を抜いて押し花にしていたらしい。受領日と状態が記されている。乾燥済み、と。
花を押していた。俺たちが酒を飲んでいた三ヶ月の間、贈った花束の中の一輪を。
俺の顔からどういう表情が消えたのか、自分では分からなかった。ただ、冗談で割れる空気ではないことは分かった。
「忘れろ」と言った。「謝って忘れろ。それで終わる」
ディルクは首を横に振る。
「もう行ったんだ。文書室に。五分だけ会ってもらえた。五分と、来客記録に書かれた」
来客記録。面会を業務として処理するということだ。恋の弁明を、用件の一つとして受け付けて、所要時間を記録して、閉じる。俺たちが酒の席で笑い話にしていた三ヶ月間を、あの令嬢は台帳の一行として処理した。
「あの子は泣いてなかった。怒ってもいなかった。写本に戻ります、と言っただけだ」
ディルクの声に怒りはない。困惑でもない。もっと深い場所にある何かだ。俺には名前がつけられない。
俺は黙った。場を盛り上げる言葉が出てこない。
あの夜会で賭けを持ちかけたとき、壁際の令嬢の名前すら知らなかった。ネル・クローゼ。子爵家の長女で、王宮文書室で写本を作っている。写本の意味も、文書室がどこにあるかも、俺は知らない。知らないまま、三ヶ月間の求愛を賭けの景品にした。
景品にしたのは、相手に値段がないと思っていたからだ。壁の花は夜会の背景みたいなもので、誘えば喜ぶし、終われば忘れると思い込んでいた。名前を覚える必要もないと。
花を押す人間は、忘れない。花の一枚に番号を振って台帳で管理する人間は、記録する生き物だ。俺たちの冗談も、あの目録と同じ精度で記憶の中に並んでいる。十四行の目録を書いた手が震えていなかったように、記憶も揺れずに、正確に。
ディルクが箱の蓋を閉じた。
「俺はあの晩、酒の席であの子のことを話した。お前も聞いてただろう。三ヶ月かけて落とした、悪い気はしなかったはずだ、と」
聞いていた。俺も笑った。他にも何人か聞いていたはずで、面白い武勇伝だと受け取った者もいるだろう。
「あの話が、どこまで広がってるか分かるか」
分からなかった。酒の席の話が誰の耳に届いているか、数えたことがない。面白い話は広まる。それは酒席の常で、悪いことだと思ったこともなかった。
ディルクが立ち上がり、箱を抱えて部屋を出た。背中を見送ることもせず、俺は共有広間に一人残った。
テーブルの上にディルクの杯が置いてある。中身はまだ半分残っていた。三年の付き合いで、奴が酒を残すところを見たのは初めてだ。
窓の外から訓練場の掛け声が聞こえる。日常の音だ。壁の花の令嬢が目録をつけている間も、俺たちの日常は何も変わっていなかった。変わらなかったから、気づけなかった。
俺たちは、一番安い娯楽に一番高い代金を払った。まだ請求書が届いていないだけだ。




