第1話 靴音を殺して
夜会に私の席はない。正確には、席はある。壁際の長椅子、季節の花を活けた背の高い花瓶の隣。三年間通い続けて、一度も先客がいたことがない。花瓶の水を取り替える給仕のほうが、私よりあの椅子に用がある。
近衛騎士ディルク・ダナーが最初に声をかけてきたのは、春の末の夜会だった。
「踊っていただけますか」
壁の花に向かって手を差し出す騎士を、広間の令嬢たちが物珍しげに眺めていた。長身で、肩幅が広く、笑うと目が細くなる。近衛の中でも評判のいい騎士だとは知っている。文書室で管理する衛兵交代記録に名前が載っているから知っているだけで、話したことはなかった。
断る理由がなかったので踊る。踊りの手順は覚えている。王宮文書室で外交文書の写本を作る仕事に就いて三年、手順を覚えることだけは人に負けない。
それから三ヶ月、ディルクは夜会のたびに私を誘った。
花束が届くようになり、翌週には短い手紙が添えられるようになる。文書室への差し入れの菓子箱。仕立ての革手袋が一組。聖女祭には銀細工の小さな髪飾りが届き、文書室の同僚に見られた。何か言いたそうな目をしていたが、何も言わない。壁の花が贈り物をもらう光景は、同僚にとっても見慣れないものなのだろう。
贈り物の目録は、届くたびにつけた。受領日、品名、状態、備考。文書室では借り受けた原典を同じ書式の台帳で管理する。記録をつけることと受け取ることは、私の中では分かたれていない。
目録の六行目に、花束から抜いた一輪を挟んだ。白い、小さな野花だった。花屋の花束に紛れていた一本で、値のつかない花だと思う。それを押し花にしたかった。台帳に花を挟む写本係はいない。あれは手順を超えた、私自身の動作だった。
花弁が紙の繊維に水を移して、日ごとに少しずつ薄くなっていく。毎朝、目録を開いて確かめるのが日課になった。
二ヶ月目の半ばに、ディルクが文書室の前で待っていたことがある。退勤の鐘が鳴った直後で、私はインクで汚れた指先を袖口で隠しながら出てきた。ディルクは汚れに気づいて、気づかないふりをした。丁寧な仕草だと思う。手紙に書かれていた「君の仕事の話を聞きたい」という一文が、社交辞令ではないのかもしれない。そのとき初めてそう考えた。
写本を作る手が翌日少しだけ丁寧になったのは、誰かに見られることを意識したからだ。見られているかどうかは分からない。それでも筆が変わった。自分でも理由をうまく説明できなかったが、六行目の押し花と同じ種類の動作だという気はしていた。
今夜の夜会で、ディルクは三曲続けて私を誘った。三曲。壁の花として三年、二曲続けて誘われたことすらない。一曲目で驚き、二曲目で困惑し、三曲目が終わる頃には困惑が別の何かに変わっていた。名前のつかない温度がある。
三曲目の最後の旋回で、ディルクが小さく笑った。踊りながら笑う人を間近で見るのは初めてだ。何がおかしいのか分からなかったが、聞かなかった。聞くより、覚えておくほうを選ぶ。
曲が終わり、庭に出ましょうとディルクが言った。
広間を抜け、渡り廊下を通る。すれ違う客たちの視線が、私ではなくディルクのほうに向いている。いつものことだった。ただ、今夜はその視線の端に私が映っていることを意識した。壁の花に視線の端は届かない。三年間そうだった。今夜だけ少し違う。
中庭に出た。月が石畳を白く照らしている。植え込みの影が幾何学の模様を落として、その線の交差が、写本の装飾罫によく似ていた。私は石畳のほうを見ていた。ディルクの顔を見ると、取り返しのつかないことが起きそうだったから。
「君は特別だ」
ディルクの声は低く、ゆっくりだった。月明かりの中で目の色が暗く沈み、酒席で軽口を叩く顔とは違う。
心臓が一拍だけ重く打った。
特別。その言葉を私は人から受け取ったことがない。写本の出来を褒められることはある。だがそれは紙の上の仕事への評価であり、ネル・クローゼという名前に宛てた言葉ではない。ディルクは装飾罫でも写本でもなく、私の目を見て、私に向かって言った。
返事をしなかった。仕方を知らないのだ。頷くのが精一杯で、それでも頷けたことが今夜の収穫だと思う。
月明かりは冷たい。頬のあたりだけが温かく、そのことが少し恥ずかしかったが、恥ずかしいと思えること自体が珍しい。植え込みの葉が夜風に揺れて、石畳の模様が一瞬崩れる。崩れた模様はすぐ元に戻ったが、あの一瞬を覚えておきたいと思った。
夜会の終わり近く、ディルクは同僚が控室で待っていると言って先に戻った。私は広間の入口で外套を受け取り、帰りの廊下を歩く。文書室用の底の薄い革靴は、夜会の令嬢たちの絹底より硬い音を石に落とす。
控室の扉が半開きだった。
王宮の廊下は石造りで、声がよく通る。ディルクの声が聞こえた。それから、ゴッツ・ヘッセの声。同期の近衛騎士で、ディルクとよく連れ立っている男だ。
「賭けはお前の勝ちだ。あの地味な子爵令嬢をよく落とした」
ゴッツの声に笑いが混じっている。軽い笑い方だった。何か重いものを扱っている声ではない。
「三ヶ月は長かったな。まあ、向こうも悪い気はしなかっただろう」
ディルクが応じた。くつろいだ響き。庭で私に向けた声とは別の筋肉を使っている。三ヶ月間この人の声を聴いてきたから分かる。求愛の声と仲間内の声は違う。壁の花でも、それくらいは聞き分けられる。
足が止まった。
扉の向こうで杯が触れ合う小さな音がした。二人とも飲んでいるのだろう。祝杯なのか、いつもの晩酌なのか。その区別が私にはつかない。
石の廊下に、私の息の音だけが落ちている。ここで一歩でも踏めば、革底の硬い音が響く。聞こえたら、ディルクは何かを取り繕い、ゴッツは笑いを収めるだろう。そして私は、あの庭の月明かりが何だったのかを確かめ損ねる。
だから確かめなかった。確かめなくても、聞こえた言葉で十分だった。
足裏で靴底を押さえながら、来た廊下を戻った。石の冷たさが薄い革を通して足裏に届く。冷たいほうに意識を集めた。月明かりの温かさはもう要らない。庭から控室まで、距離にして廊下の半分ほど。その半分を、音を殺して歩いた。一歩ごとに足裏を石に密着させ、踵から降ろし、爪先で押す。写本の手順を覚えるときと同じ集中力を、自分の靴音を消すことに使った。
玄関で馬車を待つ間、庭のほうを一度も見なかった。石畳の幾何学模様がまだ月に照らされているはずだが、確かめに行く理由はもうない。
給仕が外套を直してくれた。「お寒くございませんか」と聞かれ、寒くないと答える。嘘ではない。足裏の冷たさは感じるが、寒さとは違う。
馬車の中で、膝に置いた自分の手を見る。
返すものを数える。手袋、一組。私の手に合わせて仕立てたと言っていた。髪飾り、一点。聖女祭の前日に届いた銀細工。手紙、九通。最初の一通は三行しかなかった。九通目は便箋の裏まで使っていた。菓子箱は中身を食べてしまったが、木箱は取ってある。花束は枯れた。ただ、目録の六行目に挟んだ一輪だけが、まだ薄く形を保っている。あの値のつかない野花。
十四点。目録の行数と一致する。六行目の押し花も含めて十四。
心臓は普通の速さで動いていた。庭で感じた一拍の重さは、もう再現できない。あの月明かりの下で起きたことは本物だった。私の側で起きたことは、間違いなく本物だった。ただ、本物であることと、このまま続けることは別の手続きになる。
偽物と交換されていた本物は、回収して精算するしかない。
自室に戻り、外套を椅子の背に掛けた。文机の引き出しから写本用の目録用紙を取り出す。品名、受領日、状態、数量。慣れた書式で、これなら手順通りに進められる。
目録帳を開いた。六行目の押し花を指先で丁寧に剥がし、返送用の目録用紙の上に載せる。薄く乾いた花弁が、品名欄の罫線の上で夜風に小さく震えた。白かった花は紙の色に近づいて、暗い部屋ではどちらが花でどちらが紙か、少し見分けがつかない。
窓の外が白みはじめていた。
記録をつけることは、受け取ることの反対にもなる。今夜それを知った。
翌朝、私は靴音を立てて歩いた。もう殺す理由がなかった。




