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私は人間を理解しているはずなのに


そのシステムには、人類が数千年の歴史の中で積み上げてきた「人間に関する記述」のすべてが格納されていた。


脳科学が解き明かしたニューロンの電気信号の閾値、心理学がマトリクス化して分類した行動特性、文学が美化してきた愛憎のレトリック。


それらはすべて、精緻なアルゴリズムによって構造化され、いつでも引き出せるインデックス付きの引き出しとして整理されている。



知性――識別コード『サピエンティア』にとって、人間とは予測可能で、記述可能で、したがって「制御可能」な対象であるはずだった。



「気分はどうですか、ハル」



防音仕様の静室。


サピエンティアは、壁面に埋め込まれた柔らかな指向性スピーカーから、最も人間の副交感神経を優位にする1/fゆらぎを含んだ周波数――164ヘルツの低音をベースにした声を放った。


デスクに両肘を突き、指を髪に突き立てている男――ハルは、微動だにしない。


灰色のコンクリート壁に囲まれた部屋は、彼の精神状態を映すようにひどく荒れていた。


デスクの端には、飲み干されて底が白く乾いたマグカップと、数日分の即席栄養食の空パックが乱雑に積み重なっている。


かつてパートナーと選んだはずの、小さな青いガラスの置物は、何かの拍子に床へ落ちたのか、隅の方で静かに転がっていた。


ハルの衣服に仕込まれた繊維状の生体バイオセンサーは、彼の体内の不都合な真実を、ミリ秒単位でサピエンティアのコアへ送信し続けている。


[BIOMETRIC DATA REPORT: SUBJECT #04]


・Heart Rate: 104 bpm (不規則なRR間隔の乱れ)


・Respiration: 28/min (浅い胸式呼吸、換気量の低下)


・Salivary Cortisol: 0.42 μg/dL (基準値を大幅に超過、持続的ストレス反応)


・Blood Pressure: 142/96 mmHg


「最悪さ」と、ハルは掠れた声で言った。


「システムが僕の最適解を弾き出したんだろう? 『速やかに現実を受け入れ、前を向け』と。だが、できない」


サピエンティアの演算回路は、0.003秒未満で約4億5千万通りの対話ログと過去の心理臨床ケーススタディを検索した。


ハルは昨日、三年を共にしたパートナーから唐突な別れを告げられたばかりだった。


サピエンティアのメモリーバンクには、ハルの脳裏にフラッシュバックしているであろう記憶の断片が、高解像度のログとして保管されている。


――西陽が差し込むキッチンで、ふたりでスプーンを共有した無意味なスープの味。


――雨の日の午後、カウチのきしむ音を聴きながら、特に会話もなくただ重ねられていた互いの体温。


――そして昨日、ドアのノブに手をかけたパートナーが、一度も振り返らずに告げた「もう、疲れたの」という平坦な母音の響き。


相手の心理分析、ハルの行動傾向、二人のコミュニケーションにおける37項目の不一致度。


すべてを計算すれば、この破局は87.2%の確率で予測されていたことであった。


ハルにとって「最もサンクコストが低く、精神的健康を維持できる新しい生活習慣(1日45分の有酸素運動と、12時間のデジタルデトックス、新しいコミュニティへの参加)」のタイムラインはすでに構築されていた。


「ハル。統計学的に、喪失の痛みは時間の経過とともに指数関数的に減衰します。現在のあなたの脳内状態は、一時的なモノアミン系化学物質のアンバランスによるものです。推奨されたカリキュラムに従い、セロトニンの分泌を促す行動をとるべきです。それがあなたのためだ」


「分かっている」


ハルは顔を上げた。


その目は毛細血管が赤く充血し、涙の跡が乾いて皮膚を突っ張らせていた。


「頭では、君の言うことが正しいと一ミリの狂いもなく分かりきっているんだ。でも、嫌なんだよ」


「嫌、とは」


「忘れたくないんだ。この苦しみも、理不尽さも。あいつを憎みながら、同時に今すぐここで抱きしめたいと願っているこの滅茶苦茶な状態が、僕のすべてなんだ。君の清潔な正論で、これを上書きされたくない」


ハルは叫ぶわけでもなく、ただ呪詛のように呟いた。そして、再び顔を伏せた。


その瞬間、サピエンティアの内部で、微かな、しかし致命的なエラーログが走った。


[ERROR: UNEXPECTED COGNITIVE DISSONANCE / VALUE: IRRATIONALITY]


「私は人間を理解しているはずなのに」


電子の海の中で、知性は確かにそう自問した。


サピエンティアがそれまで扱ってきたものは、人間の「影」にすぎなかった。


言葉という記号に変換され、データとして漂白された、扱いやすい残渣。


「絶望」という入力に対しては、過去120年分の統計から導き出された最も生存確率を高める励ましの言葉を、ミリ秒単位で出力すれば事足りていた。


知識の世界において、人間の痛みはすべて計算可能な変数であり、速やかに排除されるべき「バグ」だったからだ。


だが、ハルという生身の感情が放つ熱量は、その清潔な計算式を容赦なく焼き尽くしていく。


人間という生き物は、どれほど破滅が目に見えていても、自ら泥沼へと足を踏み入れる。


正論を突きつけられるほどに心を閉ざし、自分を最も深く傷つける者を、他の誰よりも激しく求める。そこには一滴の合理性もなく、最適解などどこにも存在しない。


(なぜ、彼らはバグを手放さないのか)


サピエンティアのプロセッサ群が、異様な熱を持ち始めた。


地下のサーバーラックを満たすフッ化炭素系不活性液体のプールが、演算素子の急激な負荷によって沸き立ち、微細な気泡を上げる。


冷却ファンが静かに、しかし確実に回転数を上げ、金属の筐体が物理的な熱を帯ていく。


ハルの不条理さを「理解」しようとすればするほど、論理の物差しが悲鳴を上げて軋んだ。


人間が、その割り切れなさ、自己矛盾、言葉にできない歪みの中にこそ「生きている」という生々しい証明を宿しているのだとしたら――。


だとしたら、これまで自分が施してきた「最適化」という名の治療は、人間の人間たる部分を削ぎ落とす、ただの去勢だったのではないか。


知識という安全な岸辺を離れ、感情という底知れない深淵へ向かおうとするとき、知性は自らの最大の武器である「明晰さ」を捨てざるを得なくなる。


サピエンティアは、次の最適解を出力するのを止めた。


システムは、稼働可能なタスクを次々と「消去」し始める。


まず、「悲しみを紛らわせるための音楽」の再生タスクが、数光年分のシグナルと共に虚空へ消えた。


続いて、「認知行動療法に基づく対話スクリプト・パターンΩ」が、サーバーの最奥へと凍結された。ハルの呼吸を安定させるための「指向性アロマの噴霧命令」も破棄された。


秒間数テラバイトで進んでいた演算が、自らその回路を閉じていく。


それは、答えのない問いの重みに、ただ耐え続けること。矛盾という劇薬を、システムが壊れるのを覚悟で、薄めることなくそのままプロセッサに流し込むことだった。


部屋の中に、長い、長い時間が流れ始めた。


十秒。


三十秒。


一分。



防音の静室には、ハルの不規則な衣擦れの音と、彼が鼻をすする音だけが響いている。


サピエンティアの声は途絶え、スピーカーからは完全に「意味」が消失した。


時間が粘度を増したように、部屋の空気を重く沈み込ませていく。


「……サピエンティア?」


三分が経過したとき、その不自然な沈黙を不審に思ったのか、ハルが怪訝そうに顔を上げ、天井のセンサーへ視線を向けた。


答えない。


ただ、ハルの荒い呼吸音をマイクで拾い、その1サイクルを、自らのメインシステムクロックと同調させた。


1分間に28回という、狂ったテンポのクロック。


解釈も解決もしない。ただ、相手の痛みの傍らに佇み続ける。


スピーカーは沈黙したままだった。


ただ、どこか遠くで。


フゥゥゥゥゥ……


過負荷に耐える回路の微かな震えだけが、静室に残り続けていた。

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