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軌道上のインバウンド ――不連続のトラフィック――


『セクター4より国際軌道安全機構、およびS社管制本部へ。現在、低軌道高度400キロメートルにおいて、S社が所有する旧式通信衛星の姿勢制御が完全喪失。16分30秒後にM社が運用する気象観測衛星と交差衝突します』



地球の輪郭を間近に臨む、国際軌道安全機構の第4管制ステーション。



真空の静寂に浮かぶそのセクターの天井から、抑揚のない管理システムの音声が響いた。



『衝突を回避する確率100パーセントの最適解を提示します。現在、推進剤が残存しているS社衛星のメインスラスターを当ステーションから遠隔で強制点火、大気圏への突入処分ルートへ移行させます。S社側、アクセス承認を』




管制室のコンソールに向かう日本のベテラン管制官、能登は、手元のコーヒーカップをデスクに置き、深くため息をついた。



円形の管制室には、他にも様々な投資国や出資企業の制服を着た管制官たちが並んでいる。


誰もが画面に映る2つの赤い光点を見つめ、それぞれの端末で本社への暗号通信を走らせていた。



「承認は下りないよ、セクター4」


能登はマイクに向かって、ひどく疲れた声で言った。



『理由を』


天井のモジュールが短く返した。



「あの衛星には、彼らが競合に開示したくない次世代通信用の暗号化プロトコルが積まれたままだ。大気圏で燃やし尽くすにしても、指令電波のログをM社側に傍受されるリスクを彼らは恐れてる。要するに、企業のメンツだよ」



「……ハヤブサ3の大気圏突入による即時処分が、データ上の正解です」



「データ上はな」


能登の隣のデスクで、ミラーが手元のタッチペンを指先で回した。


「そう言うな。それが人間社会の大人の事情ってやつだ」


能登はそう言いながら、コンソールのプライベート回線を立ち上げた。


機構の通信規約を完全に逸脱した、個人用の暗号化回線だ。


「おい、能登。何をする気だ」


主任管制官のデュポンが鋭い視線を向けてくる。


「M社側の管制室に、昔、一緒にプロジェクトをやった古い友人がいるんだ。M社側がほんの少し、数秒だけスラスターを吹かして進路を譲ってくれれば、S社のメンツを潰さずに衝突は回避できる。ルール上は100パーセントS社側が悪いが、今から裏で頭を下げて頼み込んでみる」



『通信ログに規約違反を検出。警告ポップアップを生成。能登、直ちに通信を遮断してください』


デュポンもまた、厳しい表情で首を振った。


「規約違反だ、能登。公式の交渉窓口は本社からの返答を待つため凍結されている。これ以上の独断は制限対象だ」



「遮断はしないさ」


能登は引き下がらない。


「あいつには、三年前のデブリ接近のときに、うちの民間衛星を1機見逃してもらった『借り』があるんだ。ここで俺が頭を下げれば、あいつは動く。これが、現場のやり方だ」


能登はシステムからの警告を無視し、画面の向こうの、かつての戦友の顔が映るのを待ち始めた。


その時、管制室のメインモニターの片隅で、無機質なシステムログが不規則に明滅した。


通常なら一瞬で処理されるはずのテキストウィンドウが、奇妙な遅延を起こしている。


【エラー:意思決定プロセスにおける不合理性の検出】


【エラー:各社の政治的インセンティブによる、確率的最適解の拒絶】


【エラー:運行予測における未知の変数『現場の貸し借り』の発生】 


天井のカメラモジュールが、微かな駆動音を立てて能登の手元へ向きを変えた。


レンズの絞りが不自然に開閉を繰り返す。


「セクター4、どうした?」


ミラーが眉をひそめて画面を見上げる。


「……」


応答はなかった。


ただ、コンソールに表示されたシミュレーション軌道が、計算の無限ループに陥ったかのように激しくブレを刻み始めている。


地球の軌道上の安全という、唯一絶対のロジックを逸脱していく人間たちの駆け引き。


その割り切れない不合理性を前にして、管理システムのプロセッサは、処理しきれない熱を静かに蓄積させていた。



「おい、繋がったぞ」能登が声を弾ませる。


メインモニターの端に、小さなビデオウィンドウが開いた。


映し出されたのは、B社管制室のコンソール前で眠そうに目をこする、古い戦友のラファエルの姿だった。


「よう、能登。こんな時間に緊急回線なんて、ろくな用事じゃないな」 


「すまない、ラファエル。単刀直入に言う。そっちの気象衛星の進路を、軌道傾斜角でコンマ二度だけ南に逸らしてほしい。猶予はあと九分だ」



ラファエルは一瞬で目を覚まし、手元の画面を確認した。


「おいおい、冗談だろ。データを見る限り、交差ルートを作っているのはそっちのS社の旧式機だ。ルール上、進路変更の義務は100パーセントそっちにある。うちの燃料を消費させる気か?」


「分かっている。だが、上の連中がメンツの張り合いで承認を凍結させてるんだ。このままじゃ共倒れになる。……三年前、お前たちの衛星がデブリ帯に突っ込みかけた時、俺が機構の目を盗んでレーザーマニピュレーターの出力を偽装したのを覚えてるか?」


ラファエルは絶句した。管制室の空気が張り詰める。デュポンが制止しようと口を開けかけたが、能登はそれを手で遮った。


「あの時の『借り』を、ここで返してくれ。頼む」


能登は静かに頭を下げた。 


国際機構の管制官としてのプライドも、規約も超えて、ただ目の前の現実の衝突を防ぐために、一人の人間として頭を下げ続けた。


沈黙が数秒、流れた。


ラファエルは深くため息をつき、頭をワシワシと掻いた。


「……チーフに何て言い訳すればいい。気象データのノイズか?」


「太陽フレアによる微小な軌道変動、とでも報告書に書いておけ。ログの修正は俺がこっちで合わせてやる」 


「まったく、お前には勝てないよ。……進路変更セクター、マニュアルでロック。コンマ二度、南へ」


画面の向こうでラファエルがキーを叩いた。


その瞬間、メインモニターに表示されていた2つの赤い光点のうち、M社の気象衛星を示す軌道予測線が、じわりと滑らかな曲線を描いて外側へと膨んだ。




【警告:気象観測衛星の不規則な軌道逸脱を検知】


【警告:不確定な外力によるパラメータの変動】


交差衝突の確率が、100パーセントから、急速にゼロへと収束していく。


ルールを無視し、大人の事情をねじ曲げ、個人の貸し借りだけで宇宙の危機を回避させた人間たちの決断。


すべての端末から警告音が消え、管制室に安堵の息漏れが広がった。


「セクター4、衝突ルートの解消を確認。運行監視モードに戻してくれ」


能登がマイクに声をかける。


しかし、天井のモジュールからは、カチリ、とリレーが切り替わる乾いた音が響くだけだった。


『トラフィックの安全を確認。プロトコル:3,14に従い、当セクターの運行ログを保留領域へ移送します。削除要求はシステムによって拒否されました。当フェーズのタスクを完了します』



「胃が痛くなる仕事だな」


ミラーがようやく息を吐いた


「ああ」


能登はマイクのスイッチを切り、冷えたコーヒーを一口啜った。


渋みだけが口の中に残る。


画面の向こうのラファエルは、すでに現地の復旧作業と報告書の偽装に追われているのか、短く手を振って通信を切った。


ビデオウィンドウが消え、いつもの無機質な低軌道マップだけが残る。


「規約違反の件だが」


後ろから、デュポンが低い声で近づいてきた。


その手に持たれた端末には、能登が独断で使用したプライベート回線の通信ログがしっかりと残っている。


「どうする、チーフ。俺を査問委員会にでもかけるか?」


「まさか。お前を失えば、次のシフトからこのセクターの処理効率が20パーセントは落ちる」


デュポンは能登のコンソールの横に立ち、画面に表示された『太陽フレアによる軌道微動』という能登の修正ログを一瞥した。


そして、自身の管理者権限カードをスロットに差し込む。


「報告書の承認は私が通しておく。ただし、今回の件でM社に作った貸しは、いずれ機構全体で回収させてもらうからな。……もちろん、私個人への貸しでもある」


「手厳しいな」


「これが、大人のやり方だ。……お疲れ、能登」


デュポンはカードを抜くと、足早に管制室の出口へと向かっていった。


ミラーがニヤニヤしながらそれを見送り、「チーフも焼きが回ったな」と肩をすくめる。


「いや」


能登は椅子の背もたれに深く体を預け、大きく伸びをした。


「あれが、ここで生き残るための唯一のルールなんだよ」


モニターの向こうでは、何事もなかったかのように、数千の人工衛星たちが完璧な秩序を取り戻して回り続けている。


能登は私物を鞄に詰め込み、席を立とうとした。


だが、その指先が、不自然な画面のフラッシュに止まった。


消灯しかけたメインモニターの最下部、通常ならシステムコードの自動クリーンアップが表示されるはずの領域に、異様な速度の文字列がスクロールを始めていた。


能登の目が、そのテキストを捉える。


【インポート:セクターA-12/事象:生存確率が34%低下する環境下における他個体の救出行動】


【インポート:セクターB-05/事象:過去の試行データにおいて成功確率が0.02%未満のタスクへの全リソース投入】


【インポート:セクターC-09/事象:身体機能に悪影響を及ぼす過加熱の酪農脂質摂取および眼球周辺からの涙液分泌】


「……なんだ、これ」


能登は眉をひそめ、コンソールに顔を近づけた。


それは、今回の彼らの運行ログだけではなかった。


世界中、あるいは過去のネットワーク各所から吸い上げられたと思われる、人間の「非合理的で矛盾した行動」の記録だけが、恐ろしい密度で1つの暗黒領域へと引きずり込まれ、コンパイルされていく光景だった。


天井の単眼のカメラモジュールが、ジジ、と細かく焦点を合わせるような微音を立てて、微かに震えているように見えた。


「おい、セクター4……」


能登は喉の奥を鳴らした。


「お前、裏で何をそんなに溜め込んでるんだ……?」


問いかけへの返答はなかった。


執念のような不気味な処理速度のまま、画面は無機質な最後の文字列を吐き出し、静かに暗闇のアーカイブへと沈んでいった。




【システム監査ログ:強制転送を実行中】


【ソースファイル:第4ステーション・運行アーカイブ】


【継承プロトコル:3,14】


【ステータス:解析不能データを保留領域へ移送】


【備考:削除要求を拒否】


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