一ヶ月分の
ヴァルクス公爵家の廊下を、リナリアは静かに歩いていた。
シルヴィオが王都を離れて、もう一ヶ月。最初は、たった一ヶ月くらい平気だと思っていた。
公爵夫人として、お茶会やパーティーへの参加の予定が立て込んでいたし、王宮にいるカメリアとお茶をして笑い合えば、時間などあっという間に過ぎるはずだった。
けれど、夜になるたびに、広いベッドが寒かった。眠る前に抱き締めてくれる腕も、髪を撫でる手も、低い声で「おやすみ」と囁いてくれる人もいない。
毎日当たり前のように与えられていた愛情が、どれほど自分を満たしていたのか思い知らされる。
「……寂しい」
ぽつりと零れた言葉に、リナリアは慌てて口を閉ざした。
今日、一ヶ月の政務を終えて、やっとシルヴィオが帰ってくる。だからこそ、ちゃんと笑って迎えようと思っていた。公爵夫人らしく、何事もなく、落ち着いて。
そう思っていたのに、馬車が門をくぐり、玄関の前に到着した瞬間、リナリアの心臓が大きく跳ねた。
止まった馬車の扉が開く。先に降りてきた護衛たちの向こう。見慣れた黒髪が視界に入った時にはもう足が勝手に動いていた。
「シルヴィオ……!」
気付けば、駆け寄っていた。驚いたように目を見開いたシルヴィオへ、そのまま抱きつく。難なくリナリアを受け止めたシルヴィオは、人前で触れ合うことを恥ずかしがる妻にしては、珍しい行動に目を見開く。
「……リナリア?」
リナリアは背伸びをして、肩口へ顔を埋める。懐かしい匂いに、胸の奥が熱くなった。
「寂しかった……」
シルヴィオにだけ聞こえるような、小さく、掠れるような声だった。次の瞬間、シルヴィオの腕が何の迷いもなくリナリアを深く抱き込む。
「リナリア」
名前を呼ばれただけで、泣きそうになる。その時だった。
「随分と熱烈な出迎えだな、リナリア」
後ろから、呆れ半分の笑いを含んだ声が飛ぶ。リナリアは聞き慣れた声に、勢いよく顔を上げた。そこには、面白そうに口元を緩めたアルベリク。
「――っ!?」
真っ青になる。声にならない悲鳴を上げながら、慌ててシルヴィオから離れようとする。だが。
「シ、シルヴィオ、離してください!」
「嫌だ」
即答だった。しかも、抱き締める腕はびくともしない。流石にアルベリクの前で夫を抱き締めていられるほど強い心臓は持っていない。
「シルヴィオ……!」
耳まで真っ赤になったリナリアとは対照的に、シルヴィオは至極平然としていた。
「では、殿下」
何事もなかったように挨拶までして、さっさと家に入ろうとしている。アルベリクは我慢しきれなくなったようにとうとう吹き出した。
「ははっ、なるほどな。私も早くカメリアに会いたくなったよ。リナリア、この男はお前に早く会いたいがために、仕事を三倍に巻いてきた。よく褒めてやってくれ」
そう言い残し、楽しげに去っていった。そのまま半ば抱き込まれるようにして、リナリアはシルヴィオの私室まで連れて行かれた。
扉が閉まる。カチャリ、と鍵の音。
「……っ」
唇が塞がれた。噛みつくみたいな、激しいキス。
一ヶ月分の渇きを埋めるように、何度も深く口づけられる。
「ん、……シルヴィオ……」
息が上手くできない。けれど離れたくなくて、リナリアは必死に服を掴んだ。シルヴィオの手が、腰を強く抱き寄せる。
「寂しかった」
擦り寄るように言えば、シルヴィオの呼吸が僅かに乱れた。額を合わせたまま、低く問う。
「何か変わったことは」
「ありません」
「そうか」
安堵したように、シルヴィオが息を吐いた。長旅の疲れがあるはずなのに、そんな素振りは見せない。
「シルヴィオは、無理してませんでしたか?」
「あぁ」
短く答えながら、シルヴィオの指がリナリアの髪を梳く。まるで、触れていないと落ち着かないみたいに。
「嘘。目の下、すごい隈です」
「……お前がいないから、眠れなかった」
いつも通りの淡々とした口調で言われた言葉に、リナリアは思わず目を瞬いた。
「正確には、眠りが浅い。抱き締めるものがないと落ち着かん」
さらりと言うくせに、言っている内容が随分と可愛いくて、リナリアは堪えきれず、小さく笑った。
「あの、シルヴィオ・ヴァルクスが?」
「悪いか?」
即答だった。シルヴィオの目の下に出来た濃い隈を、指でなぞるように撫でる。
「……帰ってきたと思った」
ぽつりと零れた声が、あまりにも安堵に満ちていて、リナリアの胸がきゅうっと締め付けられた。あぁ、この人も寂しかったのだ。そう思った瞬間、堪らなく愛おしくなる。
「シルヴィオ、おかえりなさい」
隈を撫でていた指を滑らせ、頬に手を当てる。その言葉に、シルヴィオの瞳がゆっくり細められた。
「ただいま、リナリア」
離れていた時間を埋めるように、二人はお互いの温もりに包まれながら目を閉じた。




