第95話「襲撃④」
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日山の低い声が物流センターの薄暗い空間に響いた。
「各自、持ち場につきなさい! 連携を崩さないで!」
覚醒者たちが慌ただしく動き始める。麗奈は湿った空気の中に、血と恐怖の匂いが混じり始めているのを感じた。
アーマード・ベアが床を踏みしめる音が重く響く。
銀色の巨体が前に出ると、押し寄せるリトル・サーペントの群れが一瞬たじろいだ。
「くまっち、そのまま!」
麗奈の声は自身が思ったより震えていた。
お兄ちゃんならもっと堂々と指示を出せるのに──そんな考えが頭をよぎる。
銀色の巨熊に毒牙が次々と突き立てられていく。
しかし鎧のような毛皮が硬質な音を立てて牙を弾いた。
「今だ!」
好機と見た日山の号令。
リリ=パティたちが一斉に弓を引き絞る。
弦が震える音が重なり合い、矢の雨が降り注いだ。
蛇の鱗に矢が次々と突き刺さる。
そこへシールド・タートルが回転しながら突進した。
引きつぶされる蛇たち。
──ここまでは思った通り。あとは……
見れば、水商売風の女がザックームをゆすっていた。
──何をしているんだろう?
非難ではなく、純粋な疑問だ。
この状況でふざける者がいるとは麗奈も思っていない。
見ていると、ザックームの小さな枝が不自然に捻れ、赤い実をぽとりぽとりと落とし始めた。
「それたべたらちょっと強くなるから!」
女はそういって実を召喚モンスターたちに放り投げている。
アーマード・ベアの足元にも転がってきたので、そのまま食べるように思念を送る。
すると──
「あ……」
アーマード・ベアの毛皮が一瞬ぱっと光った。
──バフかな。どんな効果かはわからないけど
バフとは味方の能力を向上させる事を言う。
──お兄ちゃんは前、まるでゲームみたいだって言ってたけど本当にそんな感じだなぁ
麗奈がそんな事を思った瞬間──。
「うわああああ!」
肺の底から搾り出されたような悲鳴が響いた。
振り返ると、作業着姿の男が太いリトル・サーペントに巻き付かれていた。
蛇は男をぎりぎりと締めあげる。
骨が軋む音。
男の顔が赤から紫へと変色していく様子が、薄暗い照明の下でも鮮明に見えた。
「助けて……!」
男の声は既に掠れていた。
目が血走り、口から泡を吹き始めている。
竹田のプラントウィップが必死に蛇を引き剥がそうとするが、鞭のような植物の茎では非力に過ぎた。
「くまっち!」
麗奈はすぐにアーマード・ベアをけしかけるが──
ぐしゃり。
湿った音と共に、男の体が人形のように垂れ下がった。
開いた口から血の混じった唾液が糸を引いて落ちる。
死んだのだ。
「あ……」
一穂が口を両手で覆った。
一穂の精神状態が何らかの形でデモンズアイにも伝播しているのか、目玉然としたモンスターは瞳孔を激しく収縮させている。
──間に合わなかった
麗奈の胸に込み上げる感情は、悔しさと自己嫌悪の入り混じったものだった。
だが悲劇は続く。
「きゃあああ! やだ、やだあ!」
甲高い子供の声が、思考を引き裂いた。
五歳くらいの女の子が母親の腕の中で必死にもがいている。
ピンクの運動靴を履いた細い足首に、別のリトル・サーペントがぬめぬめと巻き付いていた。
「離して! お願い、離して!」
若い母親の手が蛇を掴もうとするが、ぬめりのある鱗に爪が滑る。いく。
「誰か……誰か助けて!」
母親の絶叫。
女の子の顔は既に涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
麗奈の思念を受けたアーマード・ベアが、今度こそはと言わんばかりにその蛇を引きちぎる。
だがこんな悲劇は避難所の各所で起きている、あるいは起きようとしているのだ。
麗奈は奥歯を噛みしめた。
──お兄ちゃんがいてくれたら……
弱音が濁流のように押し寄せてくる。
三崎なら冷静に優先順位をつけて、最小の犠牲で最大の成果を上げる方法を瞬時に判断できたはずだ。
ゴブリンたちを的確に配置し効率的に蛇を排除する。
そんな三崎の姿が脳裏に浮かんでは消えた。
──とても全員は守れない
アーマード・ベアは確かに強力だ。
だが、数の暴力の前では一体のモンスターにできることには限界がある。
麗奈も、何も一人で何もかもをやろうとしているわけではなかった。
彼女なりに連携を取り、最善を尽くそうとはしている。
それでも目の前で人が死んでいく。
死というこれ以上ないリアリティが麗奈の無力さを突きつけてくる。
窓の外では自衛隊の対戦車ミサイルが断続的に炸裂する音が響いている。
オレンジ色の閃光が一瞬だけ物流センター内を照らし、影が狂ったように踊る。
自衛隊とサーペンタインとの死闘は続いているが、建物内の惨状はそれを上回る地獄絵図と化していた。
「ぎゃああああ!」
振り向くと、今度は小太りの中年男が蛇に頭から呑み込まれていく光景が目に飛び込んできた。
リトル・サーペントの顎が信じられないほど大きく開き、男の頭部を包み込んでいく。
男の手足が痙攣するように暴れるが、次第にその動きも緩慢になっていく。
「やめて……やめてよ……」
一穂の震え声は、もはや言葉になっていなかった。
顔色蒼白で、唇が小刻みに震えている。
デモンズアイの能力で必要以上に惨劇を視てしまっているのだろう。
──逃げ出したい
麗奈の中でそんな考えが頭をもたげる。
アーマード・ベアの怪力があれば壁を破って外に出ることは造作もない。
このまま逃走すれば、少なくとも自分だけは──。
──お兄ちゃんなら、きっとそうしろって言うよね
三崎なら迷わず妹の生存を最優先にしろと言うだろう。
感情に流されず、合理的に判断しろと。
他人の命より妹の命。
それが兄の価値観であり、麗奈もそれを理解している。
──お兄ちゃんの判断はいつも正しい
──お兄ちゃんの言うことに従っていれば間違いない
──お兄ちゃんは
「うわあああん! ママ、ママあ!」
女の子の泣き声が、麗奈の逡巡を粉々に打ち砕いた。
小さな手が必死に母親にしがみつき、涙でぐしゃぐしゃになった顔が助けを求めている。
──見捨てられない
自分でも呆れるほどの甘さだと分かっている。
──でも、私は……
麗奈は下唇を噛みしめた。
血の味が口の中に広がる。
「くまっち、もっと頑張って!」
声を張り上げる。喉が痛い。アーマード・ベアが咆哮を上げ、銀色の腕が弧を描いて蛇たちを薙ぎ払う。
鱗が飛び散り、体液が壁に飛び散る。
しかし倒しても倒しても、窓の隙間から、換気口から、配管の隙間から、新たな蛇が這い出てくる。
まるで悪夢のような光景だった。
床は既に血と体液でぬるぬると滑り、あちこちに動かなくなった人々が人形のように転がっている。
生き残った人々は棚の上や機械の陰に必死に隠れようとしているが、蛇たちの執拗な追跡から逃れることはできない。
「キリがない……!」
日山の声にも焦りの色が濃くなっていた。
額には脂汗が浮かび、リリ=パティの数自体も減ってきている。
矢が尽きた者は素手で蛇と格闘し、そして呑み込まれていく。
物流センターは地獄そのものだった。
高い天井に反響する悲鳴。
床を這いずる音。
肉を噛み千切る音。
骨が折れる音。
そして、徐々に弱まっていく呻き声。
全てが混ざり合い、正気を削り取っていく。
──こんなはずじゃなかった
後悔が津波のように押し寄せてくる。
避難所で情報を集めて、覚醒者の仲間を増やして、兄に「よくやった」と褒めてもらう。
頭を撫でてもらう。
そんな単純で、ささやかな願いだったはずなのに。
──私、何もできてない
アーマード・ベアは確かに強い。
しかしこの圧倒的な数の前では焼け石に水だ。
他の覚醒者たちも必死に戦っているが、そもそも戦闘向きのモンスターが少なすぎる。
「もうダメだ……全滅する……」
誰かが絶望的な呟きを漏らした。
その言葉が伝染病のように広がっていく。
諦めの空気が生存者たちの間にじわじわと浸透していく。
戦う意志が恐怖に押し潰されていく。
麗奈の中でも黒い絶望が鎌首をもたげ始めていた。
兄に会えないまま、ここで死ぬのか。
役に立つこともできず、ただ無様に。
──その時。




