エピローグ.2
高台が見えてから麓まで、想像していたよりも時間がかかりました。
目的地が見えているのに中々到着せず酷く焦れました。何回も「まだ着かないのか」と急かすので、運転手から
「だったら歩いていきますかい?」
と、低い声で唸られて、僕は萎んでいました。
ようやく麓に着くやいなや、僕は荷台から飛び降りました。
久しぶりに見た高台は何も変わらない焦茶色のままですが、その周囲は僕の記憶と随分違っていました。
一面の緑。何の種類かは知りませんが、四方の大地には植物が伸びていました。
二等兵が荷台の上から感嘆の声をあげました。
「これはすごい。以前来た時とは別世界だ」
「そうなんですかい?」
と、運転手が車から降りました。
「お二人はここに来たことが?」
―来たことも何も、俺たちはここ産さ。
「ややこしい言い方しないでください」
二等兵は眉を寄せました。それから運転手に向き、
「初陣がここってことだよ」
と、注釈をつけました。
―兵士としての生まれはここだろう。といっても、前は緑なんてひとっつもなかった。一面泥ばかりだったよな。
「ええ、雨が降れば塹壕が水没しましたよね」
二等兵が頷くと、運転手は驚いたように目を大きくし、それから景色をぐるりと見回しました。
「それにしても、たった半年でここまで変わりますかね。前に来た時は草木も生えてなかったのに」
瞼の裏に過去の風景を描いてみましたが、確かに草一本見た記憶はありませんでした。
「土が良いんですかね。キーフみたいに土地が肥沃とか」
その言葉に納得いきました。
―あぁ、そうかもしれないな。ここらへんの土は人間の血を吸っているからよく肥えているのかもな。
ぎょっとした様子で運転手は目を剥きました。二等兵は得心いったように手を叩きました。
「なるほど。だからここら一体はこれだけ緑が広がっているのですね。いやぁ自然の力は偉大だ」
二等兵が周囲を眺める視線に優しさを感じました。
「随分、恐ろしげなことを考えますな」
青い顔をして運転手は僕達に視線を向けましたが、僕達はその考えが恐れるようなものではなく、それどころか戦友がそばにいいてくれるような安心感を持ちました。
こればかりは誰に話しても理解してされませんがね。
ただ、だとすれば高台にだけ緑がないのはどうしたことでしょうか。人間の血が土地を肥えさせているのならば、高台はあの戦場で最も血が流れたところでしょう。ましてや、僕の仲間達の血が染みています。もっと生命力に溢れ、緑豊かになっていても良さそうなものです。
荷台に置いたままになっている背嚢を背負い込みました。
運転手に酒瓶を一本投げて渡しました。
ーあそこに行ってくる。ここで待っててくれ。
高台へ顎をしゃくりました。
運転手は酒瓶を見て喜び、
「お気をつけて准尉殿」
と、大仰に敬礼しました。
高台の中は僕の記憶と変化は見られませんでした。
相変わらず、地面は泥まみれで一歩歩くたびに足がひどく疲れました。
後ろでは二等兵の荒い呼吸が聞こえてきました。
―なんだい、もうへばったのか?
「歩くのが早いんですよ。かけっこしてる訳じゃないんですから、もう少しゆっくり…」
会話する体力もないらしく、語尾が尻切れ蜻蛉になっていました。
―情けない。歩兵が足を止めたら撃たれるぞ。
「せっかく帰ってきたのですから、もう少し思い出に浸るとか、変わらないものを探すとかありますでしょう」
腕を組み考えました。
―よし、ならここを案内してやろう。まず、お前が今腰掛けている場所は便所だった。
奇声を発して二等兵は飛び上がりました。
「そういうことは先に言ってくださいよ」
―なんだ、ゆっくりしろと言ったり、急げと言ったりして、どっちなんだ。
二等兵は非難の声をあげましたが、黙殺しました。
―まぁ、待て。便所といってもここはいい談笑スペースだった。よく便座に座りながら中身のない話をしたものさ。自分たちの腹の中身を出してるんだから当たり前か。長い時は数時間も談笑していたこともあった。
二等兵の息が整うのを待ってまた歩き始めました。
時々立ち止まり、そこで何をしていたかを二等兵に説明してやりました。
案内をしているうちにいつからか、塹壕の中に何人もの動く影が見え始めました。
ある影は銃を撃ち、ある影は車座になっていました。影を見るたびに僕の心は気重になってきました。
今は亡き仲間との日々を思い出すと、どうしようもなく僕の心に冷たい風が吹きました。
次第に口数が減っていく僕に不審を感じたらしく、二等兵は時折横目に僕の様子を伺っていました。
あの日、仲間を失った時から気づいていたはずです。僕の幸福の器が満たされることは二度とないと。
それでも彼らとの記憶だけで僕は充分生きていけると確信を持っていました。彼らの勇姿を見たもの達の中で、彼らは永遠になったはずです。
ですが、高台の風景が変わらなさすぎたんです。
少しでも変わっていたら、あれほど中隊の影を見ることはなかったでしょう。時の移ろいを感じ、彼らとの別離を懐かしむように、諦められるようになったでしょう。
ですが、あの時はあまりに彼らの存在が近すぎた。懐かしむには近く、諦めるには遠すぎました。
呼べば振り返るような距離に彼らを感じ、それでいて手の届かないところにいることが、痛いくらいに切なかったのです。
言葉少なに彼らとの日々を語りました。
僕が着任した頃から、不道徳な遊びに性を出したこと、口うるさい中尉との言い合いに、砲弾の雨あられ。
―何も変わらないのも辛いな。
独りごちたつもりでした。
―人間全く同じではいられないのに、場所ばかりが変わらなかったら身の置き場に困る。
「そうですかね。いや、そうかもしれませんね」
二等兵は周りを眺めました。
高台を離れてから約半年、季節は人を殺す冬を迎え、そして去っていきました。
芽吹きの春が訪れていました。
周囲では草木が育ち様相を変えているのに、高台ばかりが変わらない。
彼らの残り香は僕の中で孤独を浮き立たせました。
「准尉、悲しんでいるのですか?」
僕の自死を止めた彼ですから、また後を追おうとしないか心配だったのでしょうね。
―違う。ただ、少し寂しいだけだ。
安心させるように気丈に振る舞ったつもりですが、おそらくハリボテのような心許ないものだったでしょう。
―人間てのはどうにも上手くいかねぇな。変わってほしくないと思っていても、変わっちまうし、変わらずのものを見るとかえっておかしな気持ちになる。
しみじみとそう呟きました。
「もう進まないんですか?まだ、途中ですよ」
何の途中か判然としませんでした。高台の途中という意味か、それとも僕の人生という意味か。
―いいや、まだ行くさ。最後まで見ちゃいないからな。
重い足取りで塹壕の中を進みました。
いくつ目かの角を曲がった時に足を止めました。そこを曲がると中腹の広場に出ます。
僕達の仲間が死んだ場所です。僕が神を見た場所でもあります。
どの影を見るかは分かりませんが、僕はきっと深く悲しむと思いました。 中隊の皆は僕の中で永遠に生き続けています。彼らとの記憶は一片のくすみもなく輝いています。
その事に変わりはありませんが、やはりそれでも彼らを失った事実は応えます。
塹壕の壁にもたれかかりタバコを吹かせました。
青い空に立ち上っては消えていく紫煙を眺めました。
二等兵が何かを言いたそうにしていましたが、目配せして口を開かないように伝えました。
自分自身の意思でここまで来たのです。誰かに背中を押してもらう訳にはいきません。
何本目の煙草を吸ったか、意を決して弾かれたように一歩を踏み出しました。
人の影は何処にもありませんでした。
勇敢に戦う兵士達も、死に怯える兵士達の姿もありません。
僕は声を失いました。
旗の下に何本もの真紅の花が咲いていたからです。
ゆっくりと風に吹かれて花達が波打っていました。
ふらふらと不確かな足取りで旗へ向かいました。
なんという花だったのか名前はわかりません。故郷で見たことがあるような、初めて見るような気がしました。ただ、血のように赤い花弁が旗を取り囲み、みっちりと敷き詰められていました。
突然、僕の視界は赤く染まりました。山脈に切り取られた夕日が僕の視界を赤く染め上げたのです。
手で庇を作り、瞬き一つ、ほんの一瞬目を瞑りました。
次に瞼を開けると、そこには中隊の兵士たちが立っていました。精悍な顔つきでした。
僕は声が出ませんでした。皆、旗の元に集い、僕に向けて柔和な笑みを向けていました。
また、瞬き一つすると、彼らは消えており花が揺れているだけでした。
あぁ、と僕は声にならない呻きをあげました。
どうして高台には植物が生えていないのか。周りの大地は血を吸い、あれほど姿を変えて豊穣を育んでいるのに、どうして高台ばかりが姿を変えていなかったのか、一体仲間の流した血はどこに消えたのか、その謎が解けました。
彼らの血液は死体から流れ出た後、その場に留まらず、この旗の元へ集まったのです。
それから、彼らは己の身を赤い花へと変身させた。
まるで、旗を守る守護者のように皆が旗の周りに集まったのです。
故に高台は中腹を除いて植物が育たない不毛の大地のまま、変わらない姿であり続けた。
確信を持ちました。僕が一瞬だけ見た中隊の姿は白昼夢でも幻覚でもありません。
中隊の兵士たちと苦楽を共にした僕だからこそ、彼らの存在を知覚出来たのです。
そう思えば、これまで僕が感じていた哀愁は嘘のように僕の胸から消えていきました。
彼らは、僕が神と望んだ彼らは、姿形は違えど、ここにいました。旗の元に集っていました。
華はいつか枯れてしまうでしょう。ですが、種を実らせ、また新たな華が開くでしょう。そうしてそこに真紅の華はあり続ける。彼らは永遠になりました。
僕の心には温かい水が注がれていくようでした。
冷えた手先は温まり、心から溢れた水は涙となって華の上に落ちていきました。
本当なら自分の手首を切って華たちに与えたかった。
僕の中の血のすべてを与えて、彼らと永遠になりたかった。でも、それはまだ出来ませんでした。僕は先の人生の栄誉も愛も何もかもを種銭にし、賭けに負けた債務者です。
得られる全てを味わい尽くし、そしてあの世で皆に分け与えなければなりません。死ぬにはまだ幸福を知らなさすぎました。
ならばせめて、彼らに僕の一部を与えさせてくれ、僕の決意を、今、僕の涙を通して知ってくれ。
そんな思いが胸にありました。
涙は止まることを知らず、真っ赤な花弁に落ちては伝い、その下の大地へと消えていきました。
胸にある勲章を引きちぎり、華達の間に丁重に置きました。
―これはお前たちにふさわしい。俺を活かした英雄たちに。
二等兵はその行為を後ろ黙って見ていました。
僕は振り向き、二等兵に言いました。
―紹介しよう。俺の仲間達だ。
突如、吹いた風が旗を揺らし、華の香りが僕を包んでくれました。
さて、結局長々と話し込みましたね。
酔も冷めてきてしまいました。歳をとれば体中が油切れを起こすというのに、舌だけはよく回るものですから困りものです。
これが僕にとって初めての戦場での経験です。どうですか、良い記事になりそうですか。
そうでしょう。こんな話を記事にして世に出したところで誰も見向きもしないでしょう。
それどころか、若い人たちには毒になるやもしれません。
僕にとっても、決して誰かに自慢できるような内容ではありません。
ですが、僕がこれまでこうして牧師の端くれとしてやってこれたのは、紛れもなくこの経験があったからです。 あの大戦を生き残れたのは、僕が生きる理由が僕にあったからなのです。
昔のことを語るのは良いことですね。年寄りの昔話なんて今の若い人たちは聞きたがらないでしょう。
それでいいです。
僕だって聖書を読むくらいならゴシップ誌を読んでいたほうが気楽ですから。
おや、もう朝ですね。吹雪をも止んでいます。
いきなさい。心構えなんて何も入りません。身のうちにある己の絶対に従って生きなさい、
そうすれば、もしや何かを見つかるかもしれませんから。
これで取り敢えず一つのお話は終わりです。
書き溜めたものがなくなったので、これからは書きながら投稿していこうと思っています。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。




