赤旗のルカ
僕は暑くなりました。
首に巻いたマフラーをほどき、熱の籠っていた首元を冷気にさらしました。
閉じ込められていた壕から仲間の元へとくるまでに、数えきれない兵士へ応急処置をしたからでしょう、営巣から出た時は黒ずんでいた首巻は、鮮血によって真っ赤に染まり、光沢が出ていました。
手に持つとマフラーきらしからぬ重みと生暖かさを感じました。それほど悪い気はしませんでした。
その様子を見た兵士が僕に声をかけました。
「おい大丈夫かい?真っ赤じゃないか」
ー気にするな、救護をした時についたんだ。俺は大丈夫だ。
マフラーをひらひらと振りました。
じっとそれを見た兵士は
「それ貸してくれよ」
と顔に悪戯っぽい笑みを浮かべました。思わず僕は怪訝な顔つきをしました。
ー何に使う気だ。新品の包帯ならあるぞ。
「まぁいいから貸せよ」
僕の手から首巻をひったくった兵士は、僕に背を向けるようにしました。
一体何をしているのか不思議に思いましたが、覗き込もうとすると
「見るな、あっちいってろ」
と言われ、体で手元を隠されました。
意地になる必要もありませんので、少し離れたところで仲間と煙草を吹かせました。
残り少ない数本を1人の兵士が持っていたのですが、今更、出し惜しみする必要もないらしく、他の兵士に配っていました。
その一本を貰ったのです。何度か塹壕にいる時に一度吸ったことはありましたが、どうにも僕の舌には合いませんでした。不味いと言えば子供には合わんと馬鹿にされたものです。
すうっと一息に吸い込んでみました。下の上に苦味が広がり、肺へと送り込まれた煙が出口を探して、肺の中で暴れました。咄嗟に咳込み、鼻の付け根がツーンと冷たい痛みが走りました。
そんな僕の様子を見て、兵士たちは笑いました。
「下手くそだなぁ。肺まで吸い込むんじゃなくて、初めはふかしでいいんだよ」
兵士は口からプカプカとドーナツ型の煙を吐きました。形は崩れることなく登っていき、ある程度のところで風に流されていきました。
別の場所から咳き込む声が聞こえました。
中尉が涙目で口から煙を吐き出していました。
僕は笑い声をあげて
ー中尉も吸えてないじゃないか。
「うるさい。こんなものを喜んで吸うやつの気がしれない」
口を尖らせる中尉を僕はまた笑いました。
それからまた僕は吸いました。勢いよく吸い込み、吐き出しました。頭がふらふらとしました。
空を見上げながら僕は思いました。白く淡い雲がゆっくりと流れていました。煙草からたなびく煙が一度消えて雲になったかのように思えました。
もう一度、煙草を口に持っていきました。さっきよりも軽く吸い、飲み込まずすぐに吐き出しました。空に白い煙がふわりと広がりました。自分の魂が体から抜けていくように見えました。
どういうわけかこの考えはしっくりきました。魂というものが実在していれば、肉体が滅びようが本当の死にはならないんじゃないか。
ふと、そんなことを思い、僕は笑いました。
やっぱり、まだどこかで死ぬのは怖かったんですね。だから、あるかどうかもわからないものを信じたかったんでしょう。
他の兵士達もきっと同じように考えていたのでしょう。
あの時ほど僕は他者との連帯を感じたことはありません。男女間の情なんて比べものになりません。肉親の情すらも超えるような強い繋がりです。
仲間の気持ちは自分のもののように感じることができました。
呆けながら煙が浮かんでいく空を見上げていると、視界の端に何か赤いものが見えました。
目で追ってみると、一旒の赤い旗が空に流れていました。
旗なんてどこにあったんだ、と訝しみましたが、目を細めて旗を見ている内に、旗の正体に気が付きました。
先ほど奪われた僕のマフラーでした。それが長くまっすぐな枯れ木の先にくくりつけられているだけの、粗末な旗でした。
兵士が楽しげに旗を振り回していました。
「見ろよ、馬鹿やってるぞ。ガキみてえ」
ケラケラと兵士たちは笑いました。
僕は煙草を投げ捨て、旗の元へ行きました。
「どうだい。いい出来だろ」
ーなにやってんだよ。ガキみてえだぞ。
呆れ半分に笑いました。
「ならお前にピッタリだな。ほら」
兵士は僕に旗の柄を差し向けました。気恥ずかしさがありましたが、とりあえず受け取ってみました。
子供扱いされたことに腹は立ちませんでした。ただ、黙って受け取るにも居心地が悪いような気がしましたので
ー年上の言うことは聞いてやらねえとな。
と嫌味っぽく言いました。
不思議なことに、空に流れる真紅の旗を見ていると、気分が高揚してきたのです。
今の戦地では見ませんが、当時の戦場では旗を持って戦場を駆ける旗手がいたのです。大将、将軍から下賜された軍旗を持ち、先陣を行き、味方を鼓舞する役割があったのです。
あの時は言えませんでしたが、本当はとても嬉しかったのです。
手持ち無沙汰を感じていたのと、亡き戦友達が僕の手の中で形を変えて居てくれるような、安心を得ましたから。
間もなく、突撃が始まろうとしていました。僕たちは中隊どころか、小隊にも足りない規模の人数になってしまいましたが、それでも僕たちはC中隊でした。
例え、皆が死に1人だけになろうともこの旗がある限り、僕たちはC中隊としてあり続けるのだと、そういった考えがふっと浮かんできたのです。
周りを見ると他の兵士達も神妙な顔で旗を眺めていました。さっきまではこの出来の悪い旗を見て笑っていたというのに。
きっと、僕が持つからこそ旗の意味が変わったのでしょう。
神の言葉を伝える代行者が役割である僕が持つことで、旗に奇妙な求心力が働いたのです。そうだと思っています。
僕は旗を力強く振りました。ただ、言葉もなく振りました。旗が風に煽られるたびに兵士たちの目には闘志が燃えていきました。
驚きました。これほどまでに軍旗に効果があるとは思っていなかったからです。
息切れし、腕がに痺れが出るまで旗を振り続けました。僕が旗を下ろした時、兵士たちは取り憑かれたように同時に動き出し、敵陣に向けて、窪みの縁に並びました。
いい顔でしたよ。恐怖や後悔は微塵も感じさせず、鋭い目つきにキツく結ばれた口、眉は上がっておりました。
覚悟を決めた兵士の顔は、それは格好の良いものでした。
僕も兵士たちの隣にしゃがみました。先に見えるは敵陣、いえ、僕たちの塹壕です。
静かに時間が流れました。話さずとも突撃の合図は決まっていました。旗持ちの僕が先陣を切ることです。
どのタイミングで駆けるか、僕はじっと外界の様子を伺っていました。
ゆっくりと流れる雲、絶え間ない銃声、頬をくすぐる風。
待ちました。機を伺っていました。
流れる世界と呼吸を合わせ、雲の隙間から太陽が顔を出した瞬間、世界と僕とが交わりました。
あの時、あの瞬間、僕は世界の中心にいるような錯覚に陥りました。それと同時に地面を蹴り、塹壕の縁を飛び越えました。
いざ、偉大なる幕引きが始まりました。




