大いなる裏切り
それから小一時間ほど経った頃に中尉はまた現れました。後ろには何人もの兵士を引き連れていたので、僕たちは何事かと目を丸くしました。
「装備がなくては戦えまい」
中尉は後ろの兵士たちへ向けて顎をしゃくりました。
兵士たちは各々が木箱を抱えており、それを中尉の前に降ろしました。
木箱の蓋を開けると中には小銃が並んでありました。それも、ピカピカの新式銃で、曇天の薄い陽光でも白く輝いて見えました。
次々と木箱が開けられれば、拳銃から手投弾、軍服、しまいにはウォトカと食料までありました。どれもこれもおろし立てのようにくすみのない美しいものでした。
ーなんだいこれは
「さっきも言ったろう。貴様らのなりはなんだ。そのなりでは格好がつかんだろう」
中尉の顔に笑みが溢れました。
「これからの戦いは誇りのあるものなんだろう。ならば、曲がりなりにも俺の中隊の兵士が見苦しい格好するんじゃない」
皆が木箱に飛びつきました。子供が新しい玩具を手に入れた時のように笑声をあげていました。
その様子を見ながら僕は中尉に声をかけました。
ー随分と無理を通したな。
「なに、お前ほどじゃないさ。俺にできるのはこれくらいだからな」
ー感謝する。
「自分の隊の面倒を見るのが俺の役目だ。お前にもお前しかできない役目があるようにな、それから…」
中尉は小さく手招きしました。
僕が顔を近づけると、肩に手を回して体を傾げました。ちょうど内緒話をするように僕の耳元で話しました。
「鎌と槌の袖章をつけた奴姿の奴がいただろう」
中尉の言葉に、記憶を探れば確かにいました。
それは奪還作戦を発案している時の掩蔽壕にいた男でした。
中隊の参戦を口添えしてくれた人物で、大佐もどうしてか彼に遠慮している様子でした。
ーああ、あれは誰だ。随分と偉い奴のようだが。
「俺も詳しくは知らないが、何でも同士スターリン直轄の部隊って話だ。故に、軍の指示系統からは離れた部隊で大佐殿でもうかつに口出しできないらしい」
ー何だってそんな奴らが前線にいるんだ、本部の膝下にいるもんじゃないのかよ。
訝しむように僕がそう話すと中尉はより声をひそめて、
「着任時は前線の視察が目的とだけ紹介があった。だが、戦場の写真を取るでもなく、ただ、じっと兵士たちを観察しているみたいだ。酷く気味が悪い」
ーそいつらが俺たちと共に前線に出張ってくるのか。何をするつもりかわからねぇな。
掩蔽壕の中で見た黒服の男を想起しました。面長の顔に黒々と光る瞳がまず思い起こされました。
僕の礼に微笑みを返していたようでしたが、目に色が無かったのが印象的でしたね。
ただ、その瞳を思い出すと胸がいやにざわつきました。
僕と中尉がどんな顔をしていたのかは知りません。
ですが、側から見れば余程、強張っていたのでしょう。
新品の軍服に肩を通している兵士達から茶化されて我に帰りました。
ー今はそこまで考えていられない。ただ戦うだけさ。
僕は自分に言い聞かせるように言い、隊員達を眺めました。
彼らは酒盛りを始めていました。汚れのない軍服に身を包み、赤ら顔で笑い合う様子を見て、あの塹壕での日々が頭をよぎりました。
木箱の中からウォトカの角瓶を取り出し、一息に煽りました。
鼻の奥にアルコールの匂いが貫くように広がりました。鼻の付け根に痛みを感じ、涙がまつ毛に付いたのがわかりました。
いきなり何をと言った目つきで中尉は僕を凝視していました。
ー来たばかりの頃はこんなもの何が美味いんだと思っていたが、呑み慣れれば悪くない。
勧めるように中尉へ酒瓶を差し向けました。
彼も僕と同じように酒瓶をラッパ呑みしました。
味わうように舌の上で転がすのではなく、口に入ったら即座に呑み込んでいました。ふぅと息を吐いて僕たちは互いに顔を見合わせました。
「そうだな。悪くない。酒も煙草も、砲音も泥も、勝手気ままな部下たちも悪くない」
―ついでにお硬い上司もな。
僕たちは2人で交互に酒を回して呑みました。
心地よい緊張と体の火照りに酒を入れれば、それは心地の良い気分でした。
僕たちに恐怖はなく、期待に胸を膨らませておりました。
大人に隠れて悪巧みを計画する子供のような心持ちだった気がします。
「なぁルカ、お前も新しい軍服に着替えたらどうだ。体中真っ赤じゃないか」
初めて、中尉が僕の名前を呼びました。その事に僕は笑みをこぼしました。
中尉の問いかける声は舌足らずでした。
既に酔っ払っているようでした。
さてどのように話そうかと逡巡しましたが、酒で動きの鈍った脳は、まるでモヤがかかったように思考がはっきりとしません。
―馬鹿野郎。身を持ってして赤軍を表しているのさ。まだ着替えられねぇよ。
あははは、と中尉は夜空に向けて高笑いをしました。
「頭おかしいぜ。本当に」
結局、それから中隊の皆と車座になって酒盛りをしていました。
中尉が酒を呑む姿が珍しかったのでしょう。
しきりに隊員達が酒を勧めてきて、それをよせばいいのに中尉はそれらを受け取っていました。
見かねた僕が隣から酒瓶を奪い、代わりに呑み続けました。
しまいには2人して酷く酔ってしまいました。
あれ程、泥酔したのは人生で初めての体験でした。
何を作戦前にと思うでしょうが、あの当時では素面で戦う兵士達の方が珍しいくらいでした。
前線では水がいつも不足していましてね。わざわざ後方からも運んでくるにしても嵩むし、数日も置いておけば腐ってしまいます。ならばと、酒を水の代わりに呑むようになりました。嵩はともかくとして腐りはしませんから。
隊の誰かが言いました。
「せっかく、手持ちが増えたんだ。また賭けようぜ」
皆、それに賛同するようにして手を叩きました。
「何に対して賭けるんだ?」
「そりゃあおめぇよ、決まっているだろ。まだ継続中の賭け事があるだろうが」
はて、と僕は頭を傾げました。そのようなものはあったかと記憶をたぐっていると、ぽんと頭の中で一つの記憶が呼び起こされました。
あの高台の中でやった最後の賭け事、誰がこの戦争を生き残るのか、その賭けがまだ続いていました。
「誰か紙とペンはないか。表を作るぜ」
前に同じ内容の賭けで、集会を担当していた軍曹が周囲に呼ばわりました。
その声に反応して、どこからか紙とペンがまわされてきました。
殴り書くように乱暴にペンを走らせる音が聞こえました。
その様子を見ていると、中尉が僕の隣に腰をかけました。
ーおい、いいのかい。軽薄だぜ。
「今更だろう。それに俺があれこれ言えた立場じゃねえさ」
呆れたように、それでも微笑みながら言いました。それから、
「俺たち2人の名前も表に加えといてくれ」
と中尉が言いました。返事の代わりに手を挙げた軍曹は手を休めずに筆を走らせていました。
やがて、表が完成したらしく、隊員の皆が記入者の前に列を成しました。
皆が皆、今の自分の手持ちにあるものを思い思いに賭けていきました。
最後に僕たち2人が残りました。
中尉が先に賭けを行い、僕はその後に種銭として、持っているものの全てを賭けました。
せっかく敵地に向けて走るのですから、身軽でいたかったのです。酒やタバコ、金、食料、そんな嵩張るものは元より、身についてしまった立場や権威なんていうものもわずらわしくて、全部捨ててやるつもりで、適当に賭けました。ですから、誰に何をかけたのかなんてもう覚えていません。
皆が皆、随分と大量に賭けたものですから集計には時間を要するようでした。
隊の中でも数字に詳しい者たちが数人であぁでもない、こうでもないと言い合いながら賭物を纏めていました。
ただでさえ、酔っ払っているのですから時間がかかるのも無理はない話です。
彼らを他所に、僕たちはまた車座になって呑み始めました。
ですが、語るべき話題を語り尽くした僕らにとってはそれ以降の話の発展は望むことも出来ず、相手の腹の中までわかりきっていることを聞くのもおかしな話だと思い、皆、めいめい勝手に横になり寝息を立て始めました。
僕も同じように、手を頭の後ろに重ねて仰向きになりました。
空には星が光り、月のぼうっとした光が僕たちを薄暗く照らしていました。
じいっと月を見ていればどうにも奇妙な気持ちになりました。何かこう胸の内にあるものがじわじわと漏れ出るような感じです。
嫌な気持ちではなく、むしろ心地よい感覚でした。これから起きることへの緊張いえ、期待に胸が弾んでいました。
遠くに聞こえるのは焚き火の爆ぜる音と、声を顰めて相談し合う集計係の声ばかりでした。
深く眠っていた僕たちを起こしたのは、甲高い声でした。
「起床ぉ」
馬のいななきのような声でした。
寝耳に水とはまさにあのことで、突然のことに僕は目を覚ました後もしばらく動かずに目だけをぎょろぎょろと動かしていました。
視界の端に映ったのは僕たちと同じ軍服姿の兵士たちでした。
見ない顔でした。兵士たちは白む空を背負い、僕たちを見下ろしていました。その顔はのっぺらぼうのように表情がありません。
兵士たちは皆が皆同じような顔をしていたのには驚きましたね。
袖に縫い付けられた鎌と槌の袖章が印象的でした。
兵士が僕たちを皆下しながら叫びました。
「聞こえなかったか。即時起床せよぉ」
その声に追われるようにして中隊の皆は慌てて飛び上がり、姿勢を正しました。
軍人とは不思議なもので、どんな階級の者でも号令が出されるとそれに従うように体が動いてしまうのです。
例外は僕でしたね。周りで皆が慌てて立ち上がる中、僕だけが一人取り残されたように、まだ腰をおろしたままでした。
隊伍を組んだ兵士達の間から1人の男がヌッと出てきました。
見覚えのある兵士でした。酒の残った頭を振り、記憶を探ると思い当たりました。
作戦壕の中で僕に賛同してくれた将校でした。となれば、袖章の兵士達は彼の部下達だということに気がつきました。
じっと顔を見つめていると、男はわしのように曲がった鼻の付け根に皺を寄せ、僕を睨みつけました。
ぞくりとしました。
兵士たちの表情の無さに恐ろしく思いましたが、将校の瞳には氷のような冷たさと鋭さが見えました。
「NKVDだ。中尉はいるか?」
NKVDという言葉に僕たちはヒヤリとしました。
正式名称は内部人民委員部、これだけ聞くと一体何を目的としている組織なのかわかりませんが、簡単に言えば秘密警察と憲兵を融合させたようなものです。
戦前においてはあの悪名高い大粛清の尖兵となって国内に殺戮と欺瞞の嵐を吹かせ、戦時中においては兵士たちの士気の維持、スパイの摘発、裏切り者の粛清を断行した物騒な連中です。 彼らが動くと禄なことがおこりません。何せ、従来の赤軍の指揮系統から外れた存在で、理由さえあれば兵士を処刑できる権限を持っていましたから。
階級が上の人間でも、彼らを迂闊に従わせることが出来ないのです。
僕も噂程度でしか聞いたことがありませんでしたが、NKVDと言われれば頷けるような、言葉にしがたい異質な雰囲気をまとっていました。
「ここに」
そう言って中尉は立ち上がり、軍人らしい素早い動きをしようとしたのでしょうが、酒のせいか足元をぐらつかせて、踏みとどまっていました。
その様子を見た少佐は中尉の横っ面に拳を叩き込みました。僕たちは咄嗟のことに呆然としました。
「作戦前に酔い潰れるとは何事か。隊をまとめる将校としての自覚がまるで足りていない」
そう言いながら何度も中尉を殴り続けました。中尉の鼻から鼻血が流れるのが見えました。
僕は中尉と少佐の間に立ち、
―偉そうに言いやがって。いきなり殴ることはねぇだろうが。何のために口がついてんだよ。
そう、怒鳴りました。
それに対して、少佐の反応は
「ルカ准尉、これは隊の規律のためにしているのだ。外部の人間は口を挟まないでもらおう」
―外部の人間だと。俺はれっきとした軍人で、この中隊の副官だぞ。
「いいや、違う。お前の立場はちゅうぶらりんだ。風見鶏だ。お前の居場所はここにはない」
酷く冷たい突き放すような言い方に、僕は胸が苦しくなりました。反論しようとした僕を黙らせるように、少佐は言葉を続けました。
「准尉、貴様には後方待機の命令が出ている。荷物をまとめてすぐに向かえ」
―何を馬鹿なことを。あと数時間で作戦開始だろう。今更、兵士を下げる理由がない。
「貴様こそ馬鹿を言うな。前線に武器の持てない兵士などいるか、足手まといになるだけだ。どうしてもというのなら引きずってでもつれていくぞ」
少佐は右腰のホルスターに手を当てて、僕に鋭い視線をぶつけてきました。
決して脅しなどではなく、殺意というものが見え隠れしていました。
思わず僕は半身体を後ろに引きました。
―あんた達は何をするつもりだい。とても仲間に向ける視線じゃねぇぞ。
「仲間とは思われたくない。こんな臆病者達とは。我々は名誉ある赤軍兵士だ。祖国に命を捧げなければならない」
―なんだい、まるで祖国のトップにでもなったみたいだな。同士スターリンが目の前にいるようだ。
「我々は同士スターリンの直属だ。その例えは間違ってはいない。故に、俺の命は同士の命令と思っていただこう」
―…権威の皮を被った犬め。殴ることぐらい自分の意思でやりやがれ。
「貴様にそう言われるのは心外だ。貴様こそ神の名前を被った役立たずだろうが。感謝しろよ貴様の立場が、貴様の命を救うのだから」
痛いところをつかれた僕は声を荒げました。なおのこと後方などに向かうわけにはいかないと意地になりました。
腹が立ちました。
せっかく決心してここに来ているというのに、惑わすようなことを言ってくる少佐に。
ですが、殴られた顔を抑えた中尉は僕に向かって言いました。
「准尉、行ってやれ。俺達のために意地を張る必要はない。」
―わかった。
咄嗟に口を手で抑えました。今、自分が何と言ったのか、信じられませんでした。
背後で少佐が嘲るように鼻を鳴らした音が聞こえました。
さっき、もう一度同じような誘惑があれば、命惜しさで逃げるかもしれないと言いましたよね。これが僕にとっての2度目の誘惑で、抗うことが出来ませんでした。
自分でもどうして即答してしまったかわかりません。
仲間からそう言われたから素直に従ったのか、それとも死にたくなかったからなのか。どちらにせよ、事実は変わりません。
その一言が目の前にいる仲間と死んでいった仲間への大変な裏切りであることには変わりません。
僕は慌てかぶりを振りました。
―いや…違うんだ、これは。
あれだけ皆に向かって大言壮語していたというのに、結局、僕はまだ死ぬ覚悟も勇気も出来ていなかった。
軍部からの命令にかこつけて、僕はまた逃げ出そうとしていたのです。己をひどく恥じました。
中隊の皆を死地にまで引きずり込んでおいて、僕だけその場から抜け出すのですから。
皆の顔を見ることが出来ず、いたたまれなくなりました。
「いいんだ。いけ」
中尉がそう言いました。怒っているのか、失望しているのかわからない無機質な声音でした。
きっと彼らは怒っているんじゃないか。行動と思考が一致しないのが人間の恐ろしいところです。僕の裏切りが、彼らの心にどのように映っているのか、想像することもおそろしかったのです。
「すまない・・・」
僕は合切袋をひっつかみ、自分のものを手当たり次第投げ込みました。悩んでいる時は言葉が何かの拍子に考えが二転三転するものですし、数秒前に言った言葉をすぐに取り消したりしますよね。
しゃがみこんだ時にふわりと首元のマフラーが風に揺れ、ぼくの視界に現れました。それを見た時に僕はたまらなくなって振り返りました。やはりここに残るべきだと。
―俺、やっぱり…
そう言いながら振り向いた時、僕の目に映ったのは少佐の振り抜かれた腕とその先に握られた拳銃でした。
一瞬、視界が歪んだかと思えば顎に鋭い痛みが走りました。
金物の響きのような音が耳の中をこだまし、重力が何倍にも増したかのように僕の体が重く感じました。
立っていられなくなり、仰向けにひっくり返りました。
拳銃の銃床で顎を殴られました。その衝撃で脳が揺れて体に力が入らなくなったのです。
僕の記憶があるのはここまででした。実際にその時の場の様子はよく知りません。その場を見ていた人から後日に教えてもらった話ですので、詳細な情報は分かりません。
とにかく、僕の視界は空をくるりと回って暗転しました。