第十話 【暇乞い】
「誠に明朝出立するのか?」
「今は当家にとって危急存亡の秋、じっとしてなどおれません。」
「左様か・・・其方の申す通り急ぐ旅ではあるが、無理はするな。無事に江戸入府を果たさねば元も子もないからな。」
「心得ております。」
「これで其方とは暫く話をする事も叶わぬ。江戸に赴くにあたり、憂い事は無いか?」
「憂い事ならば一つございます。」
「申してみよ。」
「されば申し上げます。某は江戸詰めにも知己はおりますが、江戸のご家老とは親しく話した事はございません。どの様なお方なのでしょうか?」
右近の懸念はある意味当然である。
非常事態とは言え、右近の江戸行きは福井藩の江戸詰めと何らの根回しも無いままに決められたものだ。
このまま右近が常盤橋にある福井藩邸に合流しても、江戸家老である岡部左膳が右近に協力的である保証は無い。
むしろ右近が邪魔者として扱われる可能性すらあるのだ。
そんな右近の懸念を理解した大膳は、自信に満ちた口調で返答する。
「儂は岡部様の事を良く存じ上げておる故、懸念には及ばぬ。あの方ならきっと其方の味方になってくれよう。」
「左様でしたか。」
「其方に持たせた文箱の中に岡部様への書状も入っている。常盤橋に着いたら間違い無くお渡しするのだ。」
「御意」
そもそも右近は御書院番衆の中でも特殊な立場である。
御書院番はその役務上、主君と行動を共にするものだが、右近自身は常に国元に在って、主君が江戸にいる間は、専ら江戸と国元との連絡役を務めていた。
そのため右近は御書院番でありながら、一度も江戸に行った事が無い。
だがそれでも右近が適役であるという大膳の判断は揺るがない。
「確かに其方は江戸へ行った事が無い。だが江戸詰めの者と国元の者の両方に通じているのも其方ぞ。自信を持って良いのだ。」
「承知」
「頼りにしておるぞ、右近。」
「勿体なきお言葉。」
暇乞いを終え、大膳の許を辞た右近は、そのまま本丸の出口に向かう。
瓦御門から外に出たところで、右近は空を見上げる。
月齢は満月に近付いており、夜空には煌々と月が輝いている。
無言で月を見つめた右近は、月明かりの中を急ぎ下城するのだった。
次回は3月12日(金)20時に公開予定です。




