蛇足②
加賀が開けたドアの先には混沌が広がっていた。
執務机の脇で椅子を盾に、怯えて縮こまっている瑞岐。
その足元で隼翔に取り押さえられ、顔面を床にめり込ませている綾小路兄弟。
隼翔に後頭部を鷲掴みにされている兄弟の手には、片方の革靴と靴下が握りしめられている。
瑞岐の左足の靴下と靴が脱げて見当たらないことから、それらは瑞岐の物と思われる。
この怪事件の傍ら、素知らぬ顔で執務室内を掃除している、女物の着物に割烹着姿の班目。
「えぇ……」
予想の遥か斜め上を限界突破した光景に、思わず震田と午雷は不可解を口に出す。
「こんにちは、瑞岐くん。お客さんですよ」
目の前の現実に一切動揺することなく、加賀は瑞岐に声をかける。
加賀にしてみればいつものこと、慣れた光景である。
穏やかな老紳士の声に瑞岐と班目が振り返った。
「おや、加賀医官。
来客ですか……………?!」
加賀の方を見た班目の体が硬直する。
彼の後ろに控えた人々の顔ぶれを認識した後、おもむろに割烹着を一掴みで脱ぎ捨て、何事も無かったように普段のスーツ姿へと変貌する。
椅子の影で怯えていた瑞岐も、加賀と飛騨たちの来訪に気が付き、顔を上げた。
「加賀先生!それに……飛騨中将?!」
思わぬ人物に思わず声が裏返る。
素っ頓狂な瑞岐の声に、隼翔もドアのある方向を振り返った。
その両手に後頭部から床に叩きつけられた綾小路兄弟は、未だ巨体をピクピクと痙攣させている。
「おー?この間の陸軍の兄ちゃんじゃねーか」
よっこらせと立ち上がりながら、隼翔は軽い口調で来客を迎える。
「高山少尉!!なんという口を利くのかね?!」
突然降って湧いた嵐にゲリラ豪雨の如く冷や汗を流しながら、班目は隼翔の態度を窘める。
「このお方をどなたと心得る?!」
「どなたって、アレだろ。
陸さんの……あー……名前忘れたわ。
おいミズキ。なんつったっけ、こいつの名前」
ごくごく普段通りの無礼な言動で、隼翔は飛騨を指差して瑞岐に尋ねる。
班目同様、状況を悟った瑞岐の顔も徐々に蒼白となっていく。
何と注意すべきか、ぱくぱくと口だけが動くが言葉が出てこない。
今まで無言、無表情で事の成り行きを静観していた飛騨に変化が訪れる。
徐々に眉間の皴が深くなり、顔色に暗雲が立ち込める。
室内は重苦しく沈黙し……嵐の前の静けさを醸し出す。
そして訪れる激しい嵐。
横須賀海軍基地、成瀬大佐の執務室に轟雷が落ちる。
「弛みすぎだ!!!」
飛騨の厳しい一喝が室内を凍りつかせる。
腹の底からの大声に左胸の傷も痛むが、飛騨は気にせず説教を続けた。
「一体海軍の規律はどうなっている?!
私室ならばまだしも、執務室という公の場でこの為体!
国民の税金で成り立っている公務を何と考えているのだ!!」
正論の刃に貫かれ、瑞岐と班目、埋まっていた綾小路兄弟は揃って起立し、背筋を伸ばす。
「成瀬大佐」
「は、はい!」
突然飛騨に名前を呼ばれ、瑞岐は一瞬ビクッと体を震わせる。
「年若い貴官が年長の者を叱責し難いのは分かる。
だが、人の上に立つ身としての責務を怠るな。部下の躾は徹底せんか」
「……はい、すみません……」
返す言葉もないとはこのことか。
叱られて瑞岐は少し項垂れる。
緊迫した空気に水を差したのは……いや、火に油を注いだのは隼翔だった。
「おい、兄ちゃん。急に来て随分やかましいじゃねーか」
場の空気を一切読むことなく平然と文句を言い返す。
もはや剛の者である。
「高山少尉っ!いい加減にしたまえ!相手は陸軍中将だぞ?!」
毛の生えた心臓を持つ隼翔の態度に、班目のガラス製の胃にヒビが入る。
「あ?中将?この兄ちゃんが?」
「ハヤト、お前お見舞いの時、一体何を聴いてたんだよ……」
班目と瑞岐が小声で隼翔に注意するが、本人は全く気にしていない様子だ。
もちろん隼翔の無礼を飛騨が見逃すはずはない。
「俺は陸軍の飛騨だ。見た所、貴官はそれなりの立場の人間だろう」
隼翔の軍服の徽章を見て、飛騨は隼翔の階級を悟る。
「下の者の手本となるべき士官たるもの、その態度は改めるべきだ。
軍服もそのようにだらしなく着崩すな」
隼翔はいつも、上着の前を胸半分ほどまで開け、袖を巻くって着ている。
流石にきちんとした式典などの時は、無理矢理整えさせるのだが。
「ああ?突然やって来てなんだてめ……」
「すみません!!僕の監督不行き届きです!!!」
注意され不快感を露わにする隼翔の悪態を瑞岐が大きな声で遮り、その後ろで班目が隼翔の口を塞ぐ。
そしていそいそと隼翔の制服を整える。
なおも説教を続けようと口を開きかけた飛騨を制したのは、パンパンと手を打つ大きな音だった。
背後からした音に飛騨が振り返ると、震田が叩いていた掌を飛騨の両肩に乗せて溜め息をついた。
「そのくらいでいいだろー。飛騨ちゅーじょー」
「まだ傷が痛むんだから、あんまり怒ると血圧上がってしんどいぞ」
見かねた震田と午雷の二人が助け舟を出した。
「む、しかし……」
「雰囲気悪くしてすみませんね。
別に今日は説教する為に来た訳じゃないんですよ」
まだ何か言いたげな飛騨を遮り、震田が笑って誤魔化す。
「飛騨、お前だって退屈な病院生活紛らわせる為に出かけたようなものだろう。
私用で来てるのに、自分の部下でもない人たちに口煩いこと言うなよ」
午雷に諫められ、飛騨はやや不服そうにではあるが、彼らの言葉に従った。
事の成り行きをずっとニコニコと笑顔で見守っていた加賀が、話を切り替える。
「飛騨中将もだいぶ回復してきたようで、何よりです。
赤城もとても心配してましたからね」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。
閣下はご多忙故、直接挨拶に伺えなかったのは残念ですが」
「いえいえ、気になさらないでくださいね。
飛騨中将のことは赤城にもちゃんと伝えておきますから」
加賀と飛騨の会話に瑞岐も加わるべく、飛騨の近くまで歩いていく。
「お久しぶりです、飛騨中将。
もう外を出歩けるくらい良くなったんですね」
「ああ、お陰様でな」
「安心しました。でも、まだかなり痛そうですね」
「見た目ほどでは無いさ。まあ痛み止めは手放せないがな」
嵐が去った後の穏やかな晴天。
和やかな会話の輪を遠巻きに眺めながら、班目は安堵の溜め息をつく。
「ふう、やれやれ……。
なんとか海軍の威厳は守られたな」
胸を撫でおろす班目の横で、不機嫌そうな顔で隼翔が言い捨てる。
「安心しろ。それはもう手遅れだ」




