第55話 令嬢との初めての休日――二人だけの特別な時間
第55話 令嬢との初めての休日――二人だけの特別な時間
日曜日の午前十時。
黒瀬怜司は、駅前の広場に立っていた。
今日は、九条院澪と出かける約束をしている。
目的は、本屋での買い物。
それだけのはずだった。
だが、怜司は朝から少し落ち着かなかった。
「……早く来すぎたかな」
スマートフォンを見る。
待ち合わせまでは、まだ十五分ほどある。
怜司は、軽く息を吐いた。
服装は、先日買った紺色のシャツに、落ち着いた色のパンツ。
以前より体型が変わり、服の選び方も少しずつ変わってきた。
だが、女の子と二人で出かけることには、まだ慣れていない。
「……変じゃないよな」
怜司は、そっとシャツの裾を整えた。
そのとき。
「レイジさん!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、澪がこちらへ歩いてきていた。
白いブラウス。
淡い水色のスカート。
長い黒髪が、風に揺れている。
学校の制服姿は見たことがないが、今日の私服姿もとてもよく似合っていた。
怜司は、思わず目を奪われた。
「……こんにちは、澪さん」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
「こんにちは!」
そして、少しだけ首を傾げた。
「……どうかなさいましたか?」
怜司は、慌てて首を横に振った。
「い、いえ! その……」
少し迷ってから、正直に言った。
「……今日の服、すごく似合ってます」
澪は、一瞬きょとんとした。
そして、頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
小さく微笑む。
「レイジさんも、とても素敵です」
怜司も、思わず頬が熱くなった。
「……ありがとうございます」
二人は、少し照れくさそうに笑い合った。
◇ ◇ ◇
大型書店。
店内には、さまざまな本が並んでいた。
澪は、楽しそうに棚を眺めている。
「レイジさんは、今日はどんな本を探されるのですか?」
「商売とか、お金の勉強をする本ですね」
怜司は、少し笑った。
「まだ分からないことばかりなので」
澪は、興味深そうに頷いた。
「本当に勉強熱心なのですね」
「いや、そんなことないですよ」
怜司は、少し照れくさくなった。
「最近、興味が出てきただけです」
澪は、柔らかく微笑んだ。
「それでも、素敵なことだと思います」
二人は、経済やビジネスに関する棚を見て回った。
澪は、意外にも詳しかった。
企業経営。
投資。
金融。
そして、海外の経済事情。
怜司が知らない言葉も、分かりやすく説明してくれる。
「……澪さん、すごいですね」
怜司が言うと、澪は少し照れくさそうに笑った。
「父の仕事の関係で、昔から少しだけ勉強しているんです」
「それでも、すごいです」
怜司は、素直に感心した。
澪は、少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
昼前。
二人は、書店の中にあるカフェへ入った。
窓際の席に座り、飲み物を注文する。
怜司はアイスコーヒー。
澪は紅茶を選んだ。
「……こうして、誰かと本屋さんへ来るのは久しぶりです」
澪が言った。
怜司は、少し驚いた。
「そうなんですか?」
「はい」
澪は、少しだけ苦笑した。
「学校の友人とはお話ししますけれど、休日に二人で出かける機会はあまりなくて」
怜司は、少し考えた。
名門校に通う令嬢。
周囲には、きっと多くの人がいるのだろう。
だが、それが必ずしも気楽な人間関係につながるわけではないのかもしれない。
「……じゃあ、今日は楽しんでもらえたら嬉しいです」
怜司が言うと、澪は目を見開いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……もう、十分楽しいです」
その言葉に、怜司の胸が少し温かくなった。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
話題は、学校生活へ移った。
「レイジさん」
「はい?」
「聖蘭学園への転校について、その後はいかがですか?」
怜司は、少し考えた。
「まだ、調べているところです」
澪は頷いた。
「そうなのですね」
「学力も必要ですし、家族とも相談しないといけないので」
怜司は、少し笑った。
「簡単には決められないですね」
澪は、真剣な表情になった。
「……そうですね」
そして、柔らかく微笑んだ。
「でも、もしレイジさんが聖蘭学園へ来てくださるなら、私はとても嬉しいです」
怜司は、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
澪は、少しだけ視線を落とした。
「……それに」
「……はい?」
「毎日、お会いできるかもしれませんから」
怜司は、思わず固まった。
澪の頬が、ほんのり赤くなる。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
怜司も、少しだけ笑った。
「……俺も、そうなったら嬉しいです」
澪は、目を見開いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい」
◇ ◇ ◇
午後。
二人は、書店を出て近くの公園へ向かった。
広々とした芝生。
木陰のベンチ。
休日ということもあり、家族連れの姿が多かった。
怜司と澪は、並んで歩いていた。
そのとき。
小さな男の子が、ボールを追いかけて走ってきた。
足元がもつれ、転びそうになる。
怜司は、反射的に手を伸ばした。
「危ない!」
男の子の身体を、優しく支える。
「……大丈夫?」
男の子は、驚いたように怜司を見た。
そして、元気よく頷いた。
「うん!」
怜司は、ほっと笑った。
「よかった」
少し離れた場所から、母親らしい女性が駆け寄ってきた。
「すみません! ありがとうございます!」
「いえ。怪我がなくてよかったです」
怜司は、男の子を母親へ引き渡した。
その様子を、澪は静かに見つめていた。
そして、二人が再び歩き始めたとき。
「……レイジさん」
「はい?」
「やっぱり、あなたはお優しい方ですね」
怜司は、少し困ったように笑った。
「……そんなことないですよ」
澪は、首を横に振った。
「いいえ」
そして、真っ直ぐに怜司を見た。
「誰かが困っていると、自然に身体が動くのでしょう?」
怜司は、少し考えた。
確かに、そうかもしれない。
異世界で出会った人たち。
家族。
そして、澪。
誰かが困っているのを見ると、放っておけない。
それは、以前の自分も同じだった。
ただ、昔は助ける力がなかった。
今は違う。
「……助けられるなら、助けたいだけです」
怜司は、静かに答えた。
澪は、しばらく怜司を見つめていた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……私は、そういうところが好きです」
怜司は、思わず足を止めた。
「……えっ!?」
澪も、自分の言葉に気づいたのか、頬を赤くした。
「あっ……!」
そして、慌てて続けた。
「その……人として、尊敬しているという意味です!」
怜司は、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
二人は、しばらく顔を見合わせた。
そして、思わず笑い合った。
◇ ◇ ◇
夕方。
駅前で別れる時間になった。
「今日は、本当に楽しかったです」
澪が言った。
怜司も頷いた。
「俺もです」
澪は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……また、お誘いしてもよろしいでしょうか?」
怜司は、迷わず答えた。
「もちろんです」
その言葉に、澪の顔が明るくなった。
「……嬉しいです」
そして、少しだけ勇気を出したように言った。
「次は、レイジさんの好きな場所にも行ってみたいです」
怜司は、少し考えた。
「……じゃあ、今度は俺が考えておきます」
「はい!」
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
二人は、手を振って別れた。
◇ ◇ ◇
その夜。
九条院家。
澪は、自室のベッドに腰かけていた。
今日のことを思い出す。
書店での会話。
カフェでの時間。
公園で見た、怜司の優しさ。
そして、別れ際の約束。
澪は、スマートフォンを手に取った。
そこには、怜司からのメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。気をつけて帰れましたか?』
澪は、嬉しそうに微笑んだ。
『はい。無事に帰りました。レイジさんも、お疲れではありませんか?』
すぐに返信が届く。
『大丈夫です。今日は本当に楽しかったです』
澪は、画面を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……私もです」
その頬は、ほんのり赤く染まっていた。
九条院澪、十六歳。
彼女の心には、まだ名前のつかない感情が、少しずつ芽生え始めていた。




