第1話 誰も助けてくれなかった世界
本作をお読みいただき、ありがとうございます!
いじめによってすべてを奪われかけた少年が、一匹の黒猫との出会いをきっかけに、運命を大きく変えていく物語です。
現実世界での復讐、異世界での冒険と成長、家族との絆、そして新たな仲間やヒロインたちとの出会い。
主人公・黒瀬怜司がどこまで成り上がっていくのか、ぜひ一緒に見届けていただければ嬉しいです!
『悪役公爵令息レオンハルト』と並行して、こちらも精力的に更新していく予定です。
少しでも面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると励みになります!
それでは、物語をお楽しみください!
「おい、黒瀬。お前さ、生きてて楽しい?」
放課後の教室に、笑い声が響いた。
窓から差し込む夕日が、机の上に長い影を落としている。
その教室の隅で、黒瀬怜司は俯いていた。
「……別に」
「あ? 聞こえねえんだけど」
目の前に立つ男子生徒が、怜司の机を蹴りつけた。
ガンッ!
机が大きく揺れ、置いてあった筆箱が床に落ちる。
「ちゃんと答えろよ、デブ」
鷹宮翔真。
整った顔立ちに、少し明るく染めた髪。
成績はそれなりに優秀で、運動もできる。父親は地元で不動産会社を経営しており、学校にも顔が利く。
教師たちの前では礼儀正しい優等生。
だが、その本性を怜司は嫌というほど知っていた。
「なあ翔真、こいつ今日も弁当二つ食ってたんじゃねえの?」
横から堂島剛が笑いながら口を挟む。
「マジかよ。そりゃ痩せねえわ」
「一個しか食べてない……」
思わず反論すると、翔真の笑みが消えた。
「誰が口答えしていいって言った?」
次の瞬間、腹部に鈍い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
椅子ごと後ろに倒れかけ、怜司は必死に机の端を掴んだ。
痛い。
けれど、声を上げればもっと面白がられる。
それを、怜司はもう知っていた。
「おいおい、ちょっと触っただけだろ?」
「大げさなんだよ、お前」
堂島と三枝悠斗が笑っている。
教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。
だが、誰もこちらを見ようとはしない。
いや。
正確には、見ている。
見ているのに、見ていないふりをしているのだ。
怜司は唇を噛んだ。
口の中に、かすかな鉄の味が広がった。
「そういや、お前の妹って中学生だっけ?」
翔真が思い出したように言った。
怜司の指先がぴくりと動く。
「……妹は関係ないだろ」
「は?」
「俺のことは何を言ってもいい。でも、家族のことは……」
最後まで言えなかった。
胸ぐらを掴まれ、椅子から引きずり起こされたからだ。
「調子乗ってんじゃねえぞ」
翔真の顔が近づく。
「お前みたいな奴が、俺に意見していいと思ってんの?」
怜司は答えなかった。
答えられなかった。
怖かったからだ。
殴られることも。
明日、学校へ来ることも。
何より、自分が何を言っても状況が変わらないことが。
翔真はつまらなそうに鼻を鳴らすと、怜司を突き飛ばした。
机の角が腰に当たり、鋭い痛みが走る。
「帰っていいぞ。あ、明日ジュース買ってこいよ。三人分な」
返事を待つことなく、三人は笑いながら教室を出ていった。
ようやく静かになった教室で、怜司はしばらく動けなかった。
腹が痛い。
腰も痛い。
それ以上に、悔しかった。
「……なんで、俺なんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
当然、答えは返ってこなかった。
◇ ◇ ◇
「黒瀬、お前にも原因があるんじゃないか?」
数日前。
勇気を振り絞って相談した担任の田所浩一は、そう言った。
「鷹宮はそんなことをする生徒じゃないぞ。何か誤解があるんじゃないのか?」
「でも、実際に殴られて……」
「証拠はあるのか?」
その一言で、怜司は黙った。
田所は小さくため息をついた。
「高校生にもなって、いちいち教師に頼るな。まずは自分たちで話し合え」
話し合い。
何度も試した。
やめてくれと頼んだ。
嫌だと言った。
それでも、何も変わらなかった。
むしろ、教師に相談したことが翔真に知られた翌日から、いじめはさらに酷くなった。
父も母も学校に相談してくれた。
けれど、学校から返ってきたのは、いつも似たような説明だった。
生徒間の行き違い。
悪ふざけ。
双方に誤解がある。
誰も、いじめだとは認めなかった。
――もう、誰にも期待しない。
怜司はそう決めていた。
◇ ◇ ◇
学校を出た頃には、空が茜色に染まっていた。
いつもより遠回りになる道を、怜司はゆっくり歩いていた。
腹部にはまだ鈍い痛みが残っている。
歩くたびに腰も痛む。
制服の裾を持ち上げると、脇腹のあたりが赤くなっていた。
「……母さんに、なんて言おう」
転んだ。
階段でぶつけた。
体育の授業で怪我をした。
これまで何度も使ってきた言い訳が頭に浮かぶ。
けれど、最近は母も信じていない気がした。
父もそうだ。
夕食のとき、何度も何かを言いかけては、結局黙ってしまう。
きっと心配している。
分かっている。
それでも、これ以上家族に迷惑をかけたくなかった。
父は毎日遅くまで働いている。
母もパートをしながら家事をこなしている。
妹の陽菜は、いつも笑顔で話しかけてくれる。
自分のせいで、そんな家族まで暗い顔になるのが嫌だった。
「……帰ろう」
怜司が顔を上げたときだった。
「……ニャ」
か細い声が聞こえた。
「え?」
足を止める。
道路脇には、古びた石段があった。
その先に見えるのは、小さな神社。
普段なら気にも留めず通り過ぎる場所だ。
「……ニャァ」
もう一度。
今度は確かに聞こえた。
怜司は石段へと近づいた。
そして、三段ほど上ったところで、それを見つけた。
「……猫?」
黒猫だった。
まだ若いのだろう。
大人の猫よりも少し小柄で、艶のある黒い毛並みをしている。
だが、その姿は痛々しかった。
右の前脚を浮かせるようにして座り、肩の近くの毛が血で固まっている。
足元には、乾きかけた血の跡もあった。
「お前……怪我してるのか?」
怜司が近づくと、黒猫は耳を伏せた。
「シャーッ!」
「わっ……!」
思わず足を止める。
猫は逃げようとしたが、右前脚をついた瞬間、小さく鳴いて身体を縮めた。
「……痛いんだな」
怜司はその場にしゃがんだ。
黒猫は金色の瞳で、じっとこちらを見ている。
「ごめんな。怖がらせるつもりはないんだ」
そっと声をかける。
「俺も今日、結構ひどい目に遭ったんだよ」
何を言っているんだろう。
猫に話したところで、分かるはずがない。
それでも、言葉がこぼれた。
「……痛いよな」
黒猫は答えない。
ただ、金色の瞳を怜司に向けていた。
怜司はしばらく考えた後、立ち上がった。
「ちょっと待ってろよ」
もちろん、待っていてくれる保証なんてない。
それでも放っておくことはできなかった。
「すぐ戻るから」
◇ ◇ ◇
「ただいま」
「あ、お兄ちゃん! おかえり!」
玄関を開けた瞬間、妹の陽菜が顔を出した。
中学一年生の陽菜は、肩まで伸ばした黒髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「今日ね、数学のテスト返ってきたんだけど!」
「お、どうだった?」
「九十二点!」
「すごいじゃん」
「でしょ!」
得意げに胸を張る妹を見て、怜司は自然と笑みを浮かべた。
学校では、もう何日も笑っていなかった気がする。
「怜司、おかえりなさい」
キッチンから母の美咲が顔を出した。
「……あら?」
その視線が怜司の制服に止まる。
「また汚れてるじゃない。どうしたの?」
「ちょっと転んで……」
「怜司」
母の声が、少しだけ低くなった。
「本当に、転んだだけ?」
「……うん」
美咲は何か言いたそうにしていた。
けれど、怜司はそれより先に口を開いた。
「母さん、救急箱ってどこ?」
「救急箱? 怪我したの?」
「いや、俺じゃなくて……猫が」
「猫?」
「神社で怪我してる猫を見つけたんだ。血が出てて、歩くのも辛そうで」
美咲は一瞬驚いた顔をした。
そして、すぐに頷いた。
「分かった。ちょっと待ってて」
戸棚から救急箱を取り出す。
「でも、猫の怪我は人間と違うからね。無理に触っちゃ駄目よ」
「うん」
「動物病院に連れていけそうなら、連絡してみましょう」
「ありがとう、母さん」
「お兄ちゃん、私も行く!」
陽菜が勢いよく手を上げた。
「駄目。怪我してるから、怖がらせちゃうかもしれない」
「えーっ」
「元気になったら、一緒に見に行こう」
「……約束だよ?」
「ああ、約束」
怜司は救急箱と清潔なタオルを持ち、再び家を出た。
背中に母の声が飛んでくる。
「怜司! 無理しないでね!」
「分かってる!」
走り出そうとして、腹部の痛みに顔をしかめる。
結局、早足で歩くことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
神社に戻った頃には、夕日はほとんど沈んでいた。
「……いた」
黒猫は、先ほどと同じ石段の脇にいた。
怜司は安堵の息を吐いた。
「よかった。まだいてくれたんだな」
黒猫は顔を上げた。
相変わらず警戒しているようだったが、先ほどのように威嚇することはなかった。
怜司は少し離れた場所にしゃがみ、救急箱を開いた。
「本当は病院に連れていきたいんだけど……」
右前脚を浮かせている。
骨折している可能性もある。
無理に触れば、余計に傷つけてしまうかもしれない。
怜司はタオルを広げ、黒猫の様子を見た。
「触ってもいいか?」
返事などあるはずがない。
それでも、怜司はゆっくりと手を伸ばした。
黒猫は逃げなかった。
怜司は身体を無理に動かさないよう気をつけながら、傷の位置を確かめた。
肩の近くに、皮膚が裂けたような傷がある。
血はほとんど止まっていたが、周囲の毛が固まっていた。
「……痛そうだな」
持ってきた清潔なガーゼをそっと当てる。
黒猫が小さく身体を震わせた。
「ごめん。痛かったな」
すぐに手を緩める。
自分の脇腹も痛む。
だが、今はそんなことを気にしていられなかった。
「もう少しだけ、頑張ってくれ」
怜司は傷を悪化させないよう慎重にガーゼを当て、出血がないことを確かめた。
それ以上の処置はしなかった。
自分にできることには限界がある。
あとは動物病院に相談するしかない。
「よし……」
怜司はスマートフォンを取り出そうとした。
そのときだった。
『――なぜだ?』
「……え?」
怜司の手が止まった。
誰かの声が聞こえた。
低くも高くもない、不思議な声。
男とも女とも分からない。
慌てて周囲を見回す。
誰もいない。
風が吹き、境内の木々がざわめいた。
「……誰?」
『なぜ、助けた?』
また聞こえた。
今度は、はっきりと。
怜司は息を呑んだ。
「……誰なんだよ」
『己も傷つき、他者に虐げられながら、なぜ見知らぬ命を救おうとする?』
心臓が大きく跳ねた。
なぜ、自分がいじめられていることを知っている?
なぜ、自分が傷ついていることを知っている?
怜司は震える声で答えた。
「……だって」
言葉が詰まる。
目の前には、怪我をした黒猫がいる。
小さな身体。
傷ついた前脚。
それでも懸命に生きようとしている姿。
「……痛そうだったから」
『それだけか?』
「それだけだよ」
怜司は俯いた。
「俺だって……誰かに助けてほしかったから」
誰にも言えなかった本音が、口からこぼれた。
「痛いのも、怖いのも、誰にも分かってもらえないのも……嫌だから」
目の奥が熱くなった。
「だから、せめてこいつくらい……助けてやりたかったんだよ」
沈黙が訪れた。
黒猫はじっと怜司を見上げていた。
その金色の瞳が、わずかに光ったように見えた。
『……なるほど』
声が響く。
『ならば、問おう』
境内の空気が変わった。
風が止まる。
木々のざわめきも、遠くを走る車の音も消えた。
まるで、この神社だけが世界から切り離されたかのようだった。
『黒瀬怜司』
「……っ!」
名前を呼ばれた。
教えてもいないはずの、自分の名前を。
『お前は、力を望むか?』
怜司の喉が鳴った。
力。
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
もし、力があれば。
翔真たちに殴られることもなかった。
教師に見捨てられることもなかった。
父や母に、あんな顔をさせずに済んだかもしれない。
陽菜の前で、無理に笑わなくてもよかったかもしれない。
「……欲しい」
自然と、声が出た。
「力が……欲しい」
『何のために?』
怜司は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「……もう、誰にも踏みにじられたくない」
震えていた声が、少しずつ強くなる。
「俺を馬鹿にして、殴って、笑って……それでも何もなかったみたいに生きてる連中に……」
怜司は顔を上げた。
「自分たちが何をしたのか、思い知らせてやりたい」
その瞬間。
黒猫の金色の瞳が、強く輝いた。
『よかろう』
足元に、光の紋様が広がっていく。
「なっ……!?」
石段が消えた。
神社が消えた。
夜空さえも、眩い光に呑み込まれていく。
怜司は反射的に黒猫へ手を伸ばした。
「お、おい! 猫は――!」
『案ずるな』
最後に聞こえたのは、穏やかな声だった。
『お前が救おうとした命は、すでに救われている』
そして。
『さあ、黒瀬怜司』
『――世界を渡れ』
視界が、真っ白に染まった。
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が経ったのだろう。
「……う、あ……」
怜司はゆっくりと目を開けた。
頬に触れる、柔らかな草。
鼻をくすぐる、土と植物の匂い。
遠くから聞こえる、鳥のような鳴き声。
「……ここ、どこだ?」
身体を起こす。
目の前には、見たこともない景色が広がっていた。
空へ届きそうな巨大な木々。
青白く光る花。
そして、空には――
「……月が、二つ?」
怜司は呆然と空を見上げた。
そのとき。
足元の草むらが、もぞりと動いた。
「……え?」
透明な青い塊が、ゆっくりと姿を現した。
ぷるん。
ぷるぷる。
まるでゼリーのような、不思議な生き物。
怜司は思わず呟いた。
「……スライム?」
次の瞬間。
目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。
【個体名:黒瀬怜司】
【レベル:1】
【固有権能:界渡り】
【神級権能:無限成長】
【神級権能:完全適応】
【神級権能:万象習得】
【経験値獲得倍率:100倍】
怜司は、その文字をただ見つめていた。
「……なんだよ、これ」
そして、まだ知らなかった。
この日を境に、自分の人生が根底から変わることを。
自分を踏みにじった者たちが、やがてその行いを後悔することを。
そして――
傷ついた一匹の黒猫を助けた少年が、いつの日か神々すら超える存在になることを。
すべては、ここから始まった。




