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亡き妻の指輪で異世界へ――Lv0の四十代、精霊に愛されながら妻の足跡を追う  作者: 翠碧ノ人


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第1話 雨の向こう側

異世界と現代を行き来しながら、亡くした妻の秘密を追っていく物語です。


冒険、スローライフ、商売、恋愛、ハーレム要素を含みます。まずは、物語の始まりを楽しんでいただければ嬉しいです。

 雨の日は、嫌いではなかった。


 昔は。


 窓を叩く雨音を聞きながら、熱いコーヒーを飲む。テレビもつけずに外を眺めているだけで、不思議と気持ちが落ち着いた。


 今は、少し違う。


「……もう二年半か」


 神谷修司は左手を持ち上げた。薬指には、銀色の指輪がある。


 中央に小さな石が一つだけ埋め込まれた、特別高価でもない結婚指輪だった。


 妻――結衣が死んでからも、外したことはない。


 外せなかった、というほど大げさなものでもない。ただ、外す理由がなかった。


 それだけだ。


 たぶん。


「晩飯、どうすっかな」


 冷蔵庫を開ける。鶏肉。キャベツが少し。玉ねぎと卵。


 しばらく中身を眺めていると、ふと声を思い出した。


『修司、今日の晩ご飯なに?』


『まだ決めてない』


『じゃあ唐揚げ』


『聞いた意味ある?』


『あるよ。今、修司が唐揚げを作るって決まった』


 口元が緩む。


「……相変わらず勝手だな」


 返事はない。


 当たり前なのに、修司は少しだけ冷蔵庫の前に立ったままでいた。


「唐揚げにするか」


 一人分には多い。以前なら、残った分は翌日の弁当になった。結衣が夜中につまみ食いすることもあった。


 今は、多ければそのまま残るだけだ。


 もう慣れた。


 そういうことにしている。


 鶏肉をまな板へ置き、包丁を入れる。横にはスマートフォンを立てた。


 最近、顔を出さずにSNSで何か発信できないか試している。料理、DIY、アウトドア、筋トレ。生活の中で覚えた、ちょっとした知識。


 別に何かの専門家というわけではない。ただ修司は昔から、一つ気になると、その周辺まで調べないと気が済まない性格だった。


 肉を柔らかくする方法を調べていたはずが、いつの間にか筋繊維の構造を読んでいる。キャンプ用品を探していたら、ロープワークから止血法まで覚えている。


 棚を作れば木材の強度が気になり、包丁を研げば鋼材の種類まで調べ始める。


 結衣には、よく笑われた。


『修司って、何に使うのか分からない知識いっぱい持ってるよね』


『知ってて困ることはないだろ』


『でも、野生の熊に会った時の対処法って、いつ使うの?』


『北海道旅行』


『旅行先で熊と戦う予定なの?』


「……戦わねえよ」


 無意識に返事をしていた。


 包丁を持ったまま、修司は止まる。そして、小さく笑った。


「何やってんだ、俺」


 こういうことは、今でもある。結衣がまだ隣にいるような感覚で、会話の続きを返してしまう。


 そのたびに少しだけ寂しくなる。けれど、それも以前ほどではない。


 少なくとも修司は、そう思っていた。


 その時だった。


「……ん?」


 左手が温かい。


 包丁を置き、薬指を見る。結婚指輪だった。


「なんだ?」


 石の部分が、じんわりと熱を持っている。最初は気のせいかと思った。


 だが、指先で触れた瞬間、石の奥に白い光が灯った。


「……は?」


 照明の反射ではない。淡い光は少しずつ強くなり、指輪全体へ広がっていく。


「いや、ちょっと待て」


 反射的に指輪を外そうとした。


 けれど、指が届くより先に視界が歪んだ。


「うおっ――!」


 足元がなくなる。胃が持ち上がるような感覚。耳鳴り。上下も左右も分からない。


 そして――。


「痛っ!」


 尻から地面へ落ちた。手から菜箸が転がっていく。


「……は?」


 湿った土。落ち葉。草の匂い。


 頭上には、自宅の天井ではなく、見上げるほど高い木々が伸びていた。


「…………どこだ、ここ」


 数秒前まで、家にいた。唐揚げを作ろうとしていた。指輪が光った。


 それから。


 ここ。


 見上げた空には、大小二つの月が浮かんでいる。


「月……二つ?」


 修司は黙った。しばらく、本当に何も考えられなかった。


「……夢だな」


 そう言って頬をつねる。


「痛え」


 普通に痛い。


 スマートフォンを確認する。圏外。時刻は、家にいた時から一分も進んでいない。


「いやいや……」


 立ち上がろうとして、もう一つの異変に気づいた。身体が軽い。腰が痛くない。少し気になっていた膝の違和感もない。


 腹を触る。


 引っ込んでいる。


「いや、待て」


 スマートフォンのカメラを起動した。


 画面に映った顔を見て、今度こそ言葉を失う。


「…………俺?」


 二十代。どう見ても、その頃の自分だった。


 髪に白いものはなく、目元の皺も消えている。頬を触ると、画面の若い男も同じように頬を触った。


「若返ってる……?」


 意味が分からない。状況を整理しようとしても、一つも現実的な答えが出てこない。


 異世界。


 そんな言葉が浮かぶ。


 馬鹿馬鹿しい。


 そう思った直後、森の奥から金属音が響いた。


 何かが激しくぶつかる音。続いて、低い咆哮。


 修司の身体が強張る。


「……熊?」


 違う。聞いたことのない声だった。


 もう一度、金属音。そして今度は、人の悲鳴。


「……誰かいる」


 行くべきではない。


 知らない森。夜。正体不明の獣。武器もない。


 持っているのはスマートフォンと財布、それから――。


「菜箸……」


 手元を見て、修司は眉間を押さえた。


「これでどうしろってんだよ」


 その時、また声が聞こえた。短い、苦しそうな声だった。


 修司は目を閉じる。


「……くそ」


 走り出した。


 怖くないわけではない。むしろ、かなり怖い。本当に大型の獣がいるなら、近づかない方がいい。


 昔、結衣に言われた言葉が浮かぶ。


『旅行先で熊と戦う予定なの?』


「戦う予定なんか、今でもねえよ……!」


 それでも足は止まらなかった。一度、助けを求めるような声を聞いてしまった。それを聞かなかったことにできるほど、修司は器用ではない。


 木の根を避け、斜面を下る。若返った身体は驚くほど軽い。


 しばらく走ったところで、匂いが変わった。


「……血?」


 鉄のような、生臭い匂い。


 目の前に巨大な獣が倒れていた。狼に似ているが、体長は三メートル近くあり、額には黒い角まで生えている。


「なんだよ、これ……」


 ここで初めて、異世界という言葉が冗談では済まなくなった。


 そして、その獣の向こう。大木の根元に、人が倒れている。


「おい!」


 修司は駆け寄った。


 女性だった。


 長い銀髪。折れた剣。砕けた鎧。血に染まった衣服。


 そして、細く尖った耳。


「……エルフ?」


 声に出した直後、首を振った。そんなことを気にしている場合ではない。


「聞こえるか!」


 返事はない。首筋へ指を当てる。


 脈はある。


 弱い。


「生きてる……」


 安堵したのも一瞬だった。脇腹からかなり出血している。脚にも傷があり、肩も深そうだ。


 何をすべきか。頭の中に、今まで覚えた知識が浮かぶ。


 意識。呼吸。出血。優先順位。


「救急車……」


 口にしてから、黙る。来るわけがない。


「……俺がやるしかないのか」


 手が震えた。


 知識はある。でも、知っていることと、できることは違う。


 目の前にいるのは、本当に死ぬかもしれない人間だ。


「大丈夫」


 気づけば口にしていた。


「大丈夫だから」


 女性に言ったのか。自分に言ったのか。分からない。


 その声に反応したように、女性の瞼がわずかに動いた。


「……あなた……は……」


「喋らなくていい。今、傷を見る」


 青白い瞳が、ゆっくり動く。修司の顔を通り過ぎ、左手で止まった。


「……それ……」


「え?」


 震える指先が向けられる。


 結婚指輪。


「その……指輪……を……」


 呼吸が乱れた。


「おい、無理するな」


 止めようとした修司の腕を、女性が掴んだ。瀕死とは思えないほど強く。


「どこで……手に入れた……?」


「どこって……」


 修司は指輪を見る。


「妻との結婚指輪だけど」


「妻……?」


 女性の瞳が揺れる。驚き、困惑。それから、信じられないものを見るような色。


「ユフィ……リア……様……?」


「……誰だ、それ」


 問い返した瞬間、女性の手から力が抜けた。


「おい!」


 再び意識を失う。修司はすぐに脈と呼吸を確認した。


 まだ、生きている。


「ユフィリア……?」


 知らない名前。聞いたこともない。


 なのに、胸の奥に何かが引っかかった。


 その時、左手の指輪が淡く光った。


「……またか」


 修司は、しばらくその光を見ていた。


 そして、なぜか亡くなった妻の顔を思い出した。


「……結衣?」


 返事はない。


 森を抜ける風だけが、倒れた女の銀髪を静かに揺らしていた。


 この時、修司はまだ知らなかった。


 目の前の女騎士が口にしたユフィリアという名が、亡くなった妻へ繋がっていることを。


 二年半前に終わったと思っていた夫婦の物語が、まだ終わっていなかったことを。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


「ユフィリアとは誰なのか」「なぜ修司は異世界へ来たのか」「結婚指輪には何があるのか」。物語の中で、少しずつ明らかになっていきます。


続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。

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