8 知識欲の果て
“ 朝、目を覚ますと、畑や林の上、そして我々の周りを精霊が飛び交っていた。まるで家畜小屋の主人のように、忙しく動き回っている。
昨日までの絶望が夢だったかのようだ。救済されたのか、それとも侵略計画の一部なのか――判断がつかない。
我々は各々に与えられた家に住んでいる。清潔なベッドに寝るのは、半年ぶりくらいだろうか。北には立派すぎる宮殿が建ち、我々の居住区はずっと狭い。たったの二百人。平日のショッピングモールより人が少ない。宮殿に連れていかれた人々は、どうなったのだろう。
空腹を覚え、外に出ると、広場にテーブルができていた。皆が集まり、微笑み合う。目を合わせようとしない人もいる。精霊が魔法で缶詰を均等に配った。これからの食事は、こうして管理されるようだ。
宮殿から、人と精霊の王が出てきた。女医はハーヴァといった。我々の健康を確認し、具合の悪い年配女性のところで、精霊王に何か言った。魔法で即座に治されるその様子に、我々は歓喜した。
町は壁に囲まれ、逃げ出せないようになっている。
――逃げる?
私はなぜ、逃げるという言葉を用いたのだろう。そう感じているからか。
町を歩きながら、精霊王は農夫オーウェンの話に耳を傾ける。魔法で鍬を出させると、オーウェンは少し地面を掘って見せた。精霊王は一面の畑を作り、我々と動物の食料となる作物を育てた。
私は精霊王に尋ねた。
「植物や畑はどこから?」
「世界のあちこちから切り取って移動した」
「退屈だから、畑の係になってもいいか?」
「人間が勝手に活動すると無駄に物質と生気を消費する。すべて精霊が管理した方が効率的だ」
何日か過ぎた頃、食事時でもないのに口寂しさで畑に入ってしまった者がいた。
私は久々に人間の死体を見た。
勝手に物を消費しようとすれば、殺処分するという事らしい。
私は精霊を神の力そのものと思い始めていたが、あの地獄の日々を思い出すには、十分だった。
男の生気をまるまる吸い取ってしまった精霊にも、お咎めがあったようだ。皆の好物なのだから皆で分ける約束だと精霊王は注意した。
死体は血の一滴もこぼさないように魔法で解体され、部分ごとに分けられ、肉屋のショーウィンドウのように並べられた。広場は阿鼻叫喚。私は視線をそらした。あれは元々、人だったはずなのに、その心は、失われたのだろうか。
人は人の肉を食べない、と皆で訴えると、遺体が消えた。あの肉で動物を育てるらしい……。
ある日、缶詰ではなく動物の肉が配給された。とても口にできない、そう思っていると、隣の者は言った。「もはや生物が少ない。これが自然の摂理だ」と。
人が動物の死骸を食べ、動物が人の死骸を食べる。自然のサイクルに人は還ったのだ。
かつて家畜だった動物たちは、このような思いを抱えていたのだろうか。賢さで頂点捕食者として君臨していた人間は、精霊という絶対的存在によって一段階下にカテゴライズされたのだ。”
トゥヴァリは、あまりの衝撃に本を閉じた。サキタリの言った通り、意味の分からない単語が多すぎる。もし、トゥヴァリが知識を得て色々な事柄の意味を知っていなければ、一文も分からない本だっただろう。
しかし、トゥヴァリは既に幾つかの文を関連づけて文章を読み解くことができた。書かれていない行間の事柄も、想像することができた。
(“精霊が人の生気を吸い取った”、その結果“人が死んだ”)
トゥヴァリが思い当たったのは、西の林で熊が倒れた時のことだった。
(“人の生気は精霊の好物”……)
トゥヴァリは自分の白い本にペンを走らせた。
人は野菜を食べる。人は動物を食べる。
動物は木の実を食べる。動物は人を食べる。
精霊は? 人や動物の生気を吸い取る。
精霊は野菜の種を蒔く。精霊は野菜に雨を降らせたり、日に照らしたり、栄養を与えたりする。
精霊は人の食事の世話をする。食事は人が栄養を得るために摂る。栄養がなければ人も野菜も死ぬ。
精霊は畑で野菜を育てる。人に食べさせるため。
精霊は町で人を育てる。
(精霊たちが食べるため……!)
トゥヴァリの手が震える。
この町に出口なんてあるわけがなかった。人間はこの町に生まれ、四十歳を過ぎると順番に精霊に食べられる――ただそれだけの存在だ。
彷徨っていれば家に帰される。食事の時間にいなければ探しにやってくる。――管理されているからだ。
具合が悪ければ治され、結婚に導かれ、生まれた子どもは精霊が育てる。――すべては、数を増やすため。
(アイピレイス様に聞かなければ、アイピレイス様に……)
アイピレイスはすべてを知っているはずだ。
と、トゥヴァリは気がついた。彼は不死で、この本を書いた人と同じことを体験している。町がなぜ作られたのかも、精霊がなぜ人の世話をするのかも、すべて理解している。
人が精霊に食べられるために生きていることも。
そして、いくら知識を得ようとも、四十を過ぎれば順番が回ってくることも。
「アイピレイス様は何でいつも悩んでいるのですか?」
「それは、私が、君たちに少しでも幸福を感じて生きて欲しいと思っているからだとも」
それに気づいてから数日、トゥヴァリは自分の家から出なかった。アイピレイスが訪れても、ドアを開けなかった。
広場に行かないトゥヴァリのために、食事は家のテーブルに現れる。皿には香ばしい匂いが立ちのぼる。だが手を伸ばすことはしなかった。
腹は時間ごとに痛むように空くが、精霊が周りをよぎると、不思議とその感覚は薄れていく。そのたびに皿の上の食べ物が、少し減っている。
魔法で食べさせられている?
もっと成長してから“順番”に食うために!
考えれば考えるほど、胃の底が冷たくなるばかりだった。
(ペルシュも、サキタリも……今まで死んだ人はみんな精霊の食料になった。俺も、これから生まれてくるすべての人もそうだ。壁に囲まれて、逃げ道なんてない)
「なあ、お前。俺を美味そうだと思って見てるのか?」
部屋をふわふわ漂っていた精霊に声をかける。精霊はスイッと近寄ってきた。
「生気ってどうやって吸うんだ? どんな味がする? 今ここで俺を食ってみろよ」
本気でそう口にした。なのに、
(……本当に赤く光ったらどうしよう?)
自暴自棄な言葉の裏で、怯える自分がいた。トゥヴァリはその事実に驚く。
(生きる意味がないと絶望していても、死にたくはないと思ってる……)
やる気をなくし、ベッドに倒れこむ。
「人間を食わずに済む方法は、ないのか?」
精霊は答えない。ただ、反応するように動いて見える。独り言のように、トゥヴァリは続けた。
「ないか……。俺たちだって野菜や動物を食わなきゃ死ぬもんな」
そう言って、大きく伸びをした。頭の中で絡まっていた思考も、口に出せば少しはまとまる。
「でもさ……お前たちは肉を食うわけじゃないんだろ。生気って何だ? 生気を取られると、死ぬ? ……生きてるっていうのは、生気があるってことなのか?」
まくし立てた後、少し考えて付け加える。
「体じゃないもの……」
精霊はチカチカと点滅した。
(体の中の、考え……心が、生気?)
精霊は動かない。
(……違うのか?)
精霊は、心を読む。なら、精霊の心も読める――ふと、そんな気がしてくる。凝視するうちに、光が強まっていく。
(……動く力のこと?)
試しにベッドから起き上がる。精霊は、うなずいたように見えた。
(動く力を吸われて死ぬ? それなら、死ぬほど吸われなければ回復できるんじゃないか。疲れても眠れば治るんだし……)
そこまで考えて、トゥヴァリは自嘲気味に笑った。バカなことを言っている、と。
だが、その可能性は頭から離れなかった。
「お前……少しだけ食うことはできないのか? 俺が死なないように、ほんの一口、果実を舐めて味わうくらいのこと……やった事はあるか? 出来る? 出来ないなら絶対にやらないで欲しいんだけど……」
トゥヴァリは立ったまま動かずにいた。精霊もまた、じっとトゥヴァリを見ているようだった。
しーんと静まり返った部屋に、心臓の音だけが響く。
精霊がゆっくりと近づいてくる。トゥヴァリは、なぜ自分がそんな提案をしてしまったのかと後悔した。
視線を落とし、荒い呼吸で膨らんだりしぼんだりする自分の腹を見つめる。
(やっぱり……やっぱりやめ……、いや……だめだ。信じるんだ! 絶対、絶対に成功する!)
精霊はトゥヴァリの目の前にくると、ぼんやりとした淡く白い光が、やがて赤へと変わっていった。
▪︎
アイピレイスは、最近のトゥヴァリの考えがわからず、悩んでいた。
(もう、私が教えたことはほとんどトゥヴァリが理解した……賢い子だ)
そう思うと同時に、胸にひりつくような虚しさが広がる。もう自分を必要としていないのかもしれない、と。
トゥヴァリの家のドアを叩こうとした拳が、途中で止まる。
(今日、もし拒まれたなら……もう二度と訪ねるのはやめよう)
これが最後だと、自分に言い聞かせるように、拳を打ちつける。
「一人にしてください」というトゥヴァリの声は、今日は聞こえてこなかった。
(……出かけているのか)
取っ手を引くと、ドアは開き、静まり返った部屋をアイピレイスに覗かせる。誰もいない部屋に見えた。光の球がふわっと視界を横切った。
「精霊? トゥヴァリはどうした」
精霊は、あたふたと妙な飛び方をする。アイピレイスは嫌な予感がして、急いで部屋の中に入った。精霊の行く方についていくと、ベッドに横たわっているものがあった。
「トゥヴァリ!」
肌は真っ白、唇は青ざめ、目は落ち窪んでいた。髪は艶を失くして力なく落ちていた。
「……食ったのか?」
アイピレイスは殺気だった目で精霊を睨みつける。
「……き……ます……」
かすかに声が聞こえる。それがトゥヴァリの唇から漏れ出ていると気づくのに、少しの時間がかかった。
アイピレイスはトゥヴァリの口もとに耳を近づける。
「う……で……」
「一体、何が起こったのだね? おい、今すぐトゥヴァリを治せ!」
アイピレイスは精霊に怒鳴った。精霊は困ったようにふらふらと飛んだ。
「うう……な……ないで……。じりき……ひと、は……れ……」
自力で人は生きられる。
聞き取った言葉に、アイピレイスは耳を疑う。
「……君の意思でこうなったというのか? 精霊に魔法を使わせないようにしているというのか?」
アイピレイスは精霊とトゥヴァリを、信じられない気持ちで交互に見る。
「待っていろ。医者を呼んでくる」
アイピレイスはトゥヴァリの家を出て、急いで宮殿の階段を駆け上がった。具合の悪い人間を見たのは、三百年ぶりだった。
精霊は精霊王の命令で人間を育て、決まりに従って魔法を使うだけの存在だったはずだ。
なのに、トゥヴァリの意思で精霊に魔法を使わせるなんて!
「ハーヴァ! ハーヴァ、どこだ!」
宮殿に入るなり、大声を上げながら二階の西翼の廊下まで行くと、歩いている彼女を見つけた。
「何……? アイピレイス?」
「急患なんだ、一緒に来てくれ」
「……なんて?」
寝ぼけた受け答えになど、構ってはいられない。腕を掴み、引っ張っていく。
「君は医者だろう!」
「な、何なのよ、急に」
「死にかけている子供がいるんだ!早く!」
「大昔の話でしょ?」
「精霊が魔法を使おうとしないんだ。君の力が必要だ」
「一体何なの? 急ぐから、手を離して!」
ハーヴァが腕を振り解こうとするので、手を離す。すると彼女は、ハイヒールを脱ぎ裸足になった。
「ほら、行くわよ」
アイピレイスは驚く。その姿は――服や髪型が違っても――記憶に焼きついている尊敬すべき女性に違いなかった。
ルディの家。
たった一軒だけ他の家とは違う、その家に着いた時、ハーヴァが微かに顔色を変えた。ベッドに横たわるやつれた子どもを見て、立ち尽くす。
「トゥヴァリ!」
アイピレイスが呼びかける。しかし、返事がない。慌てて顔を近づける。呼吸はしている。
眠ってしまったのか、と思っていると、ハーヴァがアイピレイスを押し除けてベッドの脇に立った。
「脈が弱いわね。体温が低い……いつからこの状態なの?」
「わからない。ここ数日、姿を見ていなかったんだ」
トゥヴァリを抱き上げ、布団をかけて寝かせ直す。
「点滴があればいいのだけど……三百年前のものなんてとても使えない。食べ物くらい用意するわよね? 水と、果物。それから……」
ハーヴァは部屋に漂っている精霊に命じる。
机に広げられていた本を見つめ、アイピレイスは静かに涙をこぼした。
「私は愚かだ。知識を与えれば、気づくに決まっている! 彼は――人間なのだから」
人、動物、植物、精霊。それらの絵と文章が矢印で繋がれている。「食べる」「食べられる」と書きこまれている。それら全てが大きな四角い線で囲まれている。
その図は、このアルソリオという町を最も簡潔に表していた。




